第一話 名を失いし夜
2025.5.18改稿
第一章 仮面の影
第一話 名を失いし夜
秋の夜が、音もなく深く落ちていく。
風は止み、草の匂いが湿りを帯びて、地を這うように広がっていた。虫すら声を潜め、屋敷には異様な静けさが満ちていた。
その静寂のなか、幼い少年がひとり、母の部屋の片隅に座していた。
六歳に満たぬ小さな身体。けれどその双眸には、年齢に不釣り合いな知と、強く閉じ込めた感情の色があった。
「……母上。父上は……今日も、お会いできぬのですか」
問う声は驚くほど落ち着いていた。泣きもせず、甘えもせず。
むしろ、確かめるような硬さがあった。
灯の傍らにいた美しい女──桂香の方が、顔を向けて微笑む。
だが、その笑みにもかすかな翳が差していた。
「ええ……きっと、お忙しいのでしょう」
幾度となく繰り返してきた『いつもの答え』。
だが、それを信じられるほど、少年は幼くなかった。
屋敷の空気が、変わっていた。
昨日までいた女房や舎人が姿を消し、見慣れぬ者が廊下を行き交う。足音が硬く、笑い声はなく、目が笑っていない。
空気そのものが、沈黙に支配されていた。
少年は目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「……人が、減りましたね」
桂香の方はわずかに視線を揺らす。
だが答えず、立ち上がると、飾り棚の奥へ向かった。
開かれた棚の中から取り出されたのは、小ぶりな桐箱。
それは少年にとって、「触れるべからず」とされてきた特別なものであった。
桂香はその箱を膝に置き、迷いなく紐を解く。
蓋が開かれた瞬間、淡い月明かりに反射した木製の『面』が現れた。
一面の白狐の面。
白地に朱と金があしらわれた意匠は、妖しく、そして神聖でもあった。
「これは……?」
「お前を護るものよ。名を捨てる時が来たならば、これをつけなさい」
「名を、捨てる……?」
声に驚きはあった。けれど、少年は動じない。
目をそっと細めると、そっと両手で受け取り、見つめた。
桂香は優しく言った。
「名を知られぬ者は、消えることができる。だが、名を抱いたままでは、生き延びることさえ危うい……」
「何か……来るのですか?」
その問いに、桂香はわずかに微笑した。
「もう来ているのかもしれません」
──その言葉が、まるで合図だったかのように。
屋敷の廊下がきしむ音はわずか。けれど確かに『何か』が近づいていた。
月明かりが障子に三つの影を落とす。
桂香の方の手が動く。
袖から細身の太刀が現れ、鞘の音も立てずに抜かれた。
少年が面を抱きしめる。
小さな心臓が、鼓動を強く打ち始める。
障子が音もなく滑り、三人の黒装束の者が現れる。
桂香は動じない。構えは静かで美しく、気配は鋭く研ぎ澄まされていた。
「──我が子には指一本、触れさせません」
その声と同時に、刃が閃いた。
刃が交差し、火花が飛ぶ。
桂香の方の太刀が、最初の刺客を弾き返し、脇腹を斬った。
だが、残る二人は少年へと動く。
少年は咄嗟に畳の上の小太刀に手を伸ばした。
手が震える。けれど、踏み込む敵を見据えて、足を踏み出す。
嘲笑を浮かべた巨漢の影が、手を伸ばす。
──低く構え、斬る。
敵の太腿が裂け、呻き声があがる。少年は息を吐いた。
しかし、次の瞬間、別の影が背後から迫っていた。
「──っ!」
その刹那、桂香が間に割って入った。
だが間に合わず、少年に背に刀が深く走る。
血のにおいが強くなる。
少年が倒れ、桂香はその身体を抱きしめるように庇う。
敵の刃が振り下ろされる──
そのとき。
屋敷の奥で、風が唸った。
吹き込んだ風とともに、障子が破れ、黒衣の男が駆け入る。
太刀が閃き、刺客の一人が斬り伏せられる。
動きは無駄なく、容赦もない。残る二人も、瞬く間に倒された。
静けさが戻る。
ただ、少年の背には血が滲み、桂香の頬には傷がある。
男が無言で近づき、落ちていた桐箱を拾う。
中の面を確かめ、少年の前に差し出す。
「──持て。名を捨てろ。生きたければ、名を捨てて顔を隠せ」
少年は面を見つめ、しっかりと両手で抱きしめた。
桂香がそっと手を伸ばし、少年の頬に触れる。
「……名を失っても、貴方は貴方です」
男はうなずくと、桂香に目をやる。
二人は言葉を交わさぬまま、目で『別れ』を交わした。
少年が背負われたそのとき──
屋敷の奥から、爆ぜるような破裂音と熱風がが吹きつけた。
──火が放たれた。
障子が焼け、襖が燃える。
紅蓮が吹き上がり、白菊の香が焦げる。
桂香が、一瞬だけ少年の名を呼ぼうと口を開く。
だが、呼ぶ声は出なかった。
男が屋敷を飛び出す。
背には、まだ名を持たぬ少年。
火の粉が追いすがり、夜空を赤く染めていく。
少年は、背の上で目を開ける。
火に包まれていく母の部屋。
白い障子が焼け落ちる。紅の光がすべてを包み込む。
(母上──ははうえ──ははうえ)
声にならない叫び。口は開くものの声が発せられない。
目から涙が溢れて止まらない。
男の背で、面を抱きしめる手に力がこもった。
遠ざかる炎。
風の音。
鳥の声が、夜明けの近さを告げていた。
「……名も母上もなくなったのですね」
少年の呟きに、男は静かに答える。
「名を捨てた者は、誰でもなくなる。だが、歩む意思があれば──名を得る者となる」
「……あぎと。顎と名乗りたい」
男は一瞬黙り、笑った。
「それは物騒な名だな。それが、いいのか?」
「……はい。全てを喰らい尽くしたい」
「喰らうだけなら、獣でしかない。なれど、其方は人ぞ」
「……人でしょうか?」
男は苦笑を浮かべながら、少年に目を向ける。少し考えるように目を閉じた。
「どうしても顎がいいのか?」
「はい、恐れも痛みも敵も全て噛み砕きたい」
「ならば、暁狐。暁の狐はどうか?」
「暁の狐……暁狐。不思議な名ですね」
「夜の闇を抜け、暁を迎える狐。悪くないと思うが」
「はい……良き名かと」
少年──暁狐は、小さく頷く。
名を失い、そして得た夜。
心に焼きついたのは、面と火と、母の手の温もり。
それは『問い』となって彼の中に残った。
──なぜ、名を失わねばならなかったのか。
──なぜ、母は剣を取ったのか。
──なぜ、母は死なねばならないのか。
──なぜ、自分は生き残ったのか。
その問いを抱えて、少年は、影の道へと足を踏み出した。
暁狐、六歳秋