4 蠢く黒い影
荒河を助けたお礼に、俺は彼とその友人である烏山聡志に昼飯をご馳走してもらうことになった。
ただ、まさかこんな展開になるとは思ってもいなかった。
「お、おい、なんだこれ……。」
うじゃうじゃと蠢く、無数の黒い影。それは1つのバケツの中にいた。ぬるりとした細長い体が絡み合い、時折重なって一塊になったかと思うと、様々な方向に散って行く。
その動きは規則性を欠き、見ているだけで嫌悪感が湧いた。
「これか?これはな、ドジョウだ。」
バケツを持ち上げながら、荒河は当たり前のように言い放つ。
ドジョウ。聞き覚えがあるような響きだった。見た目から察するに、きっと魚の仲間なのだろう。だが、これだけは分かった。流石に、これは食べられないやつだ。
「これ、観賞用なのか……?随分気味が悪いんだが。」
「あ?何言ってんだよ、これからこれを食うんだぞ?」
「は……?」
俺は言葉を失った。荒河が真顔で言った一言に、俺の思考が完全にフリーズしたからだ。
そして刹那の時を経て、俺の脳が再稼働すると、バケツの中をもう一度見る。
それは粘液を纏い、光を反射させながら、相変わらず無秩序に蠢いていた。
「いや、どう考えても、これは食えないだろ……。」
「まぁ、食べてみれば分かるよ。」
「………。」
烏山が後ろから現れ、微笑みながらポンッと俺の肩を叩いた。
当然食べてみれば自ずと結果は分かる。だが、それでは遅いのだ。
俺はそう口にしかけて、言葉を飲み込んだ。ご馳走になる身で、文句を言うのも失礼だと思ってしまった。
「まだ時間かかるから、向こうで休んでていいぞ。」
荒河に言われ、俺は仕方なく、リビングの椅子に腰を掛けて待つことにした。暫くすると、パチパチッという音が聞こえた。
数十分後、テーブルに二つの料理が並べられる。最初に目に飛び込んできたのは、湯気が立ち上がる大きな土鍋だった。汁の色は淡い黄金色で、そこに薄く切られた大根の輪切りや細かく刻まれたネギが浮かんでいた。
次に大きな平たい皿に目がいった。形は細長いものや丸みを帯びたものと様々で、それらの周りを衣が覆い、油が滴り落ちていた。
「これ、なんだ?」
それらを見て、思わず俺は呟いた。
「ドジョウ汁とドジョウの天ぷらだぜ。どうだ?うまそうだろ。」
「………。」
荒河がニヤリと笑いながら言った。
料理だけを見ると、確かに悪くない。むしろ、美味しそうにすら見えてくる。けれど、脳裏からあのバケツの中のドジョウの姿が離れず、複雑な気持ちになった。
グーギュルルルルルッ
嫌なタイミングでまたお腹が鳴った。
「へっ、どうやら体はこれを欲してるみたいだぜ?騙されたと思って食ってみろよ。」
それを聞き、荒河がさらに深い笑みを浮かべる。
俺は言い返せなかった。複雑な気持ちだが、荒河が言っていることは図星で、俺は強い空腹に襲われていたからだ。
俺は渋々、天ぷらを箸で一つ摘まみ、口に入れた。
パリッ……サク、サク……。
「どうだ?うまいだろ。」
「……うまい。」
「フッフッフ。これが、命を頂くってことさ。」
俺が応えると、荒河がポンッと俺の肩を叩く。
「ああ、彼はすぐに格好をつけたがるから、気にしなくていいよ。」
それに対し烏山が、眼鏡を指で抑えながら、軽く嘲笑するように言った。
「いいじゃねーかよー。ブーブー。」
これが素なのか、それとも俺に気を遣っているだけなのか、俺には判断できなかった。ただ、二人は下らないことで盛り上がったり、不毛な言い合いをしたりと、何かと騒いでいた。
けれど命を頂く。その言葉だけは、何故かしっくりきた。このドジョウたちは、間違いなくついさっきまで、あのバケツの中で生きていた。
食べる。それは生きていく上で、極めて当たり前のことだが、食べ物は単なる物ではない。本当に生命力を奪っているような、そんな感じがした。
「ごちそうさまでした。」
その後十五分程度で、料理は空になった。少し悔しい気持ちもあるが、どちらも大変美味しかった。
それから食事の片付けを手伝ったが、思ったよりも時間がかかり、帰る頃には十七時を過ぎていた。
「じゃあな。またいつでも遊びに来いよ。」
「ああ、ありがとう。」
玄関先、俺が靴を履き終えると、
「君、これを忘れているよ。」
烏山が赤色の小さめな水筒を持ってきた。
少しの間忘れていたが、それは、朝霧から渡されたものだった。
「あ、ありがとう。」
一言お礼を言って、俺は烏山から水筒を受け取る。
その時、
「いや、気にしなくていいよ。ただ、少し気になったんだけど、これ、もしかして朝霧のかい?」
「え……?」
烏山は眉をひそめながら聞いてきた。
「そうだけど……。」
「お前、何で知ってるんだよ。」
俺が応えると、荒河が少し不思議そうな顔で烏山に問いかけた。
「ああ、学校でよく見かけたからね。同学年の人数も少ないんだ、そのくらい分かるよ。」
「いや、全く分からないんだが。」
「まぁ、君はあまり周りを見ていなそうだしね。」
「………。」
荒河は無表情のまま烏山を見つめ、黙った。見た目には出ていないが、どうやら相当堪えたらしい。
そしてーーそんな中、俺はふと思い出してしまった。朝霧が言っていたことを。
夕方になると出るという幽霊。……あれは、本当なのだろうか。
「そう言えば……。」
気づけば、自然と声が漏れていた。
「朝霧に、神社には幽霊が出るから近づくなって言われたんだけど……本当なのか?」
俺は真実が気になった。
だから、俺は確かめるように二人に問いかけた。
だが、その言葉が口に出た瞬間、二人の表情が一変し、その場の空気が急に静まり返った。
「ああ、マジだぜ。」
最初に口を開いたのは荒河だった。
それを聞いて、俺は思わず唾を飲んだ。
「いつからだっかは分からないが、夕方、幼い少女の幽霊が出るっていう噂が広まってな。最初は誰も信じてなかったんだが……何人か、実際に見たって奴が出始めたんだ。」
「僕の知り合いも見たと言っていたね……。」
二人の話を聞いているうちに、次第に背筋が冷たくなり、冷や汗がじわじわと滲み出てくるのを感じた。
「要するに、だな。あの神社には近づかない方がいい。まあ、どうしても幽霊に会いたいってことなら、好きにすればいいけどな。」
「……やめとく。」
俺は小さく応える。別に、俺は幽霊に会いたいわけじゃない。
「それがいいと思うよ。」
烏山は軽く頷き、少しだけ口元を緩めた。
それから、俺は彼らに別れをつげ、帰ることにした。
帰り道、俺は手にある水筒の蓋を開け、口をつけたが、中身は神社の時ほど冷たくはなく、少し温くなっていた。
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