#40
柔らかな風が、頬を撫でる。
その感覚に、俺はゆっくりと意識を覚醒させ、目を開く。
視界には、垂れ下がった緋色の髪と、こちらを覗き込むふたつの瞳。
「……なんで、お前の顔が上にあるんだ」
「お目覚め初っ端から、随分な対応だね。せっかく、膝枕をしてあげているというのに」
よよよ、と。わかりやすくわざとらしく、アカネが泣き真似をしてみせる。
早々に退散しようと動こうとするも、どうにも身体に違和感があるような無いような、奇妙な感覚に襲われる。そういえば、声も低くなっていた。
どうやら、元の姿に戻ったのだろう。……アカネは、そのままらしいが。
「そんなことよりも、ほら。目を覚ましたんだから、なにか言うことはないかな?」
じいっ、と。こちらを見つめてくるアカネ。
「……おはよう」
「ああ、おはよう」
「寝てる間に、身体を元に戻しておいてくれたんだな」
「まあ、そっちのほうが君にとっても都合がいいだろうと思ったからね」
間違いない。アカネどころか俺までもが子供の姿になって帰ってきたともなれば、大騒ぎどころの話じゃなくなる。あるいは逆に、帰ってきたと気づかれないか。
いや、それはないか。ギルドマスターなんかは、アカネと俺の両方の昔の姿を知っているし、全員が気づかないということはないだろう。
まあ、結局ひどく驚かれることには間違いないだろうが。
「てっきり、子供を作るまでは戻さないとか言われるかと思っていたんだが」
「ふふっ、もしかしてそっちのほうがよかったのかな?」
「んなわけあるか」
楽しげに笑ってみせるアカネに、俺は大きく息をつく。
全く、相も変わらず、クソ女はクソ女なご様子で。
ある程度身体を慣らしながら、準備を整えていく。
こちらが本来の状態ではあるため、元の感覚を取り戻すまで、それほど時間はかからなかった。
どちらかというと、眠っていたというのにとてつもない身体の疲労が残っている、という方が問題ではあった。
曰く、身体の退化と成長は、本人への負担がかなり大きい、のだとか。
魄の聖女の力も使ってこそいるものの、主たる行使はアカネの持つ魂の聖女の権能である。
そのため、あくまでその変化を起こすのは本人の身体であり、アカネ側からの干渉のほとんどは、そうなるように誘導する、というものなのだとか。
「まあ、実のところ。私がこうやってリンドウを元に戻さなくても、そのうちに自力で戻れはしただろうけど」
「……俺が聖女の権能を扱えるようになれば、という話か。あまりにも途方もない話だな」
大方の準備運動を終えて、動作のラグなどがないかを確かめる。
ひとまず、余程のことでもなければ大丈夫だろう。
大人に戻すついでに、背中の傷についても治してくれていたようで、こちらについても問題なし。
「ちなみに聞いておくが、お前は戻らなくてもいいのか?」
「ずっと言ってるじゃないか。君から胤を貰えたら戻るよって」
「……冗談は休み休み言え」
俺の指摘に、彼女は「冗談じゃないんだけどなあ」といたずらっぽく笑う。冗談であってくれ。
彼女がこの言葉を本気の気持ちの上で言っている、というのは理解しているが。それはそれとして冗談であってくれ。
「まあ、真面目な話をしておくと、換えの服がないからね」
「……それは、街に帰ったら戻る、という認識でいいのか?」
「さあ、それはどうだろうね?」
そこは戻れよ。なんでだよ。
「どこかの誰かが、私は私の思うように生きたらいいってそう言ってくれたからね」
わざとらしく、俺のことを見つめながらにアカネがそう言ってくる。
言いはした。たしかに、言いはしたが。
「……多分その人間、そういう意味で伝えたわけじゃないと思うぞ」
「知りませーん、私は私の受け取ったように解釈すしまーす。……へへっ」
アカネは、なかなかな暴論を押し付けながらに。しかし、そう、小さく笑う。
なんだ。ちゃんといい顔もできるようになってきたじゃないか。
まだまだ、これからではあるけれども。
「というわけで、リンドウと私の愛の結晶による産物を見せつけるためにも、早く街に帰るよ!」
「どこに愛だの結晶だのがあるんだよ」
「ふふん。もちろん私のこの身体そのものだよ! なにせ、今の私の幼い身体は、私とリンドウの初めての共同作業の産物だからね!」
たしかに、アカネの身体が幼くなった要因として、俺の権能を彼女が借りた、という事実がある。
ありはする、が。結局愛でもなければ結晶でもないだろうし。
「そもそも、そのタイミングの権能の行使は俺から譲渡してのものじゃないから、共同作業というには不十分だろ」
俺が幼くなったタイミングのそれであれば、俺からの承認の元、協力して譲渡、行使したものではあるから百歩譲って共同作業といえなくもないかもしれないが。
「……なるほど。よし、リンドウ。君の権能をもう一度貸してくれ。もう一度君のことを子供の姿にしよう」
「やめろ。やっと感覚が戻ってきたところなのに、意味もなく姿をいじろうとするな」
嫌な笑みを浮かべながらに、アカネがジリジリとにじりよってくる。
「大丈夫大丈夫、意味ならちゃんとある。私とリンドウの仲を誇示するという、ね」
「それは意味がないのと同義だろ!」
そもそも、傍から見れば俺が子供になっていたところで、俺とアカネの協力によって成されたものであるだなんて証明はできないし、そもそもほとんどの人間がそんなことを信じないだろう。
アカネの独力だと考えるのが筋だ。
つまり、圧倒的な無駄行動であり。先刻彼女が言っていたように、身体の変化には尋常ではない披露を伴うため、いたずらに体力を大きく消費するだけである。
そんなこと、アカネもわかってはいるのだろうが。それはそれとして、という様子。
本当にこのクソ女は。
「さあ、おとなしく子供に――って、きゃっ」
俺の方へと飛びかかろうとしてきたアカネ。
だが、その瞬間に。思わず足元をつんのめらせてしまう。
無論、体勢を崩した身体は前へと傾いていき。そのまま、地面に向けて。
倒れ、こまない。
大地へとぶつかってしまう、その直前。
彼女と地面とのその間に、なんとか腕を差し込み、その身体を支えた。
「……ったく、気をつけろよ」
ため息混じりに俺がそう言うと、彼女はありがとうと礼を言ってから。
「でも、私が言うのもなんだけれども。その言葉、そっくりそのまま返してもいいかな」
彼女はそう言うと、ギュッ、と。俺の腕を力強く抱きしめてくる。
……あ、しまった。
「物理的に距離を取ろうとしていた相手が転びそうになったからといって、わざわざ接触してまで助けに行くだなんて。相変わらずのお人好しだね」
「……なにも言い返せねえ」
「それとも、なんだかんだと否定して見せていたけれども。こうしてこの姿のときだと簡単に手を差し伸べてくれるあたり、やっぱり今の私やシラギクのような、幼い身体のほうが――」
「それだけは、違う。断じて違う」
食い気味に、俺はそう否定をする。
いっそお人好しということにしておいてくれ。俺の沽券に関わりかねないから。
「たしかに、大人の姿と比べて、手を差し伸べやすいってのがないとは言わないが。別に、大人のアカネのことも、助けないわけじゃない。今までも、これからも」
まあ、そもそもアカネが助けを必要とすること自体が少ないということもありはするから、実感として得にくいというのはあるかもしれないが。
とはいえ、アカネの無茶振りともとれるような依頼に答えたりもしているわけで。
「お前が望むのなら、これからも手を差し伸べてはやるし、手を取ってやる。……大人の姿相手でも、多少は善処してやる」
「…………っ」
急に、腕にしがみついてきているアカネの力が強まる。痛いというほどではないが、少しびっくりする。
「どうした急に」
「君という人間は。本当に、相変わらず。……いや、いい。どうせ言ったところでなおらないだろうしね」
ぎゅううっと力強くしがみつきながら、アカネはその顔を腕に押し付けてくる。
真っ赤な緋色の髪の合間から少しだけ見えた耳は、髪色に勝るとも劣らない程に、真っ赤に染まっていた。
「……ところで。子供には、しないのか?」
しばらく、ベッタリとくっついてきていたアカネに対して。俺はそう尋ねる。
「されたいのかい?」
「いや、しなくていい。するんじゃない」
単純に、先程はそのために近づいてきていたので、捕まった現在てっきり子供にされるものだと思っていたのに、未だに行動に移されていないということに疑問を抱いているだけである。
「まあ、そうだね。気が変わった、ということにしておこうかな」
「……そうかい」
なにやら含みのある言葉ではあったが。下手に藪を突く理由もない。
「その代わりに。しっかりと、手を繋いで。引いてもらうから」
スタッ、と。アカネは腕から離れて、地面に降りると。改めて、俺に向けて手を伸ばしてくる。
「取ってくれるんでしょう? この手を」
そう言ってみせるアカネの表情は。どこか、満足げだった。
そこからは、特に問題もなく、街へと戻ることができた。
まあ、アレ以上のなにかがあってもらっても困るのだが。
街につく直前、アカネには俺の着ていた外套を被せて、ほぼ苦し紛れではあるもののその姿を隠させた。
別の意味で不審な状態ではあるが、アカネが幼くなっているところを見られるよりかは余程マシではあった。
ひとまず俺の家のにまで駆け込んで、とりあえず俺の服を貸そうとしたら、大丈夫だと彼女は言って。
なぜかアカネは、俺の家のタンスの中から女性物の衣類を取り出していた。それも、おそらくは大人のアカネのサイズのもの。
なぜ俺の家に、俺の預かり知らない範疇で、そんなものがあるのかについては。考えるのはやめた。
アカネは、存外に素直に大人に戻った。
透き通るような白い肌に、対象的なまでに鮮やかな緋色の髪。神秘的、と評される理由もわからなくもない。
俺より少し小さい程度の身長。しっかりと女性らしい膨らみもあり、スタイルの良さが伺える。
よく、見慣れた。クソ女のいつもの姿である。
ここで最後に粘ってくるかとも思っていたが、そんなこともなく。むしろ、なぜか大人に戻ってから「よし、それじゃあ子作りをしようか」と言ってきた。
いや、しないが。
「……しまったね。ここで私の服じゃなくてリンドウの服を借りていたなら、ぱっと見では事後のように見えたのか」
「とんでもないことを考えるなお前」
「ねえ、リンドウ。お願いがあるんだけれど」
「貸さんぞ」
アカネの服がなぜかあったということについてはツッコミどころしかなかったが。皮肉なことに、それに助けられてしまった。
「とりあえず、依頼の報告に行くぞ」
アカネのことを待っている人は多い。民衆たちはもちろんのこと、なによりも、シラギクが待っている。
「他の人はともかくとして、シラギクが待っているのは、私だけじゃないと思うけどね」
「シラギクがどうかしたのか?」
「いいや、なんでも」
アカネは、そう言って話をはぐらかさせる。
「ああ、そういえば――」
パチ、パチ、パチ、と。
アカネは、俺に向けて手を打ち鳴らしてみせる。
「……どういうつもりだ?」
「そんな警戒をしなくてもいいよ。これは、ただの称賛だから。聞いたよ。シラギクからも、贈られたとね」
そう言うと。彼女はゆっくりと噛み締めるようにして、拍手を続ける。
「リンドウ。君は立場上、喝采を受けることがほとんどない。私とは、真逆だ」
「……ああ、そうだろうな」
「どれほど困難な任務をこなそうとも、どんな偉業を達成しようとも。君が世間の称賛を浴びることはない」
「…………」
それは、事実だ。
シラギクの一件はあまりにもイレギュラーであり、世に出すことができない案件ではあるが。それ以外のことについても、アカネに関する任務について、俺が対応した任務はことごとく、どこかの誰かが、達成したことになっている。
今回の任務についても、同じくとなるだろう。
俺が関わっていることを知っているのは、アカネとシラギク。あと、ギルドと正教会の限られた一部の人間だけである。
しかし、それは――、
「うん。そうだね。正教会のエゴであり、私からの働きかけでもあり。そしてなにより、君の願いでもある」
「わかってるんじゃないか。なら、その拍手は必要が無――」
「だからこそ。せめてもの、称賛を。私や、シラギクが贈る」
まるで、なにかを確かめるように。あるいは、諭すように。
アカネは、言う。
「喝采の鳴り響く壇上から、万雷さえも届かない舞台裏へと。君のために拍手は鳴る」




