#31
「こっちだな」
コンパスで方角を確認する。聖霊は依然としてそれなりの距離からこちらの様子を伺ってはいるものの、以前までのようにこちらに対する敵意が見られない。
先程まで向けられていた敵意についてが、はたして聖域俺が入ったことによるものなのか、アカネの介入があってのものなのか。それは、わかりそうにない。
アカネに聞けばわかるかもしれないが。彼女が素直に答えるかもわからないし。それに――、
「歩けるか?」
「…………」
幼い姿のままで、俯きながらに黙りこくるアカネ。
先程から、ずっとこの様子である。
とはいえ、こちらの話を聞いていないとかそういうわけではない様子で、ときおりちょっとした反応が返ってくることもあるし、手を引いてやれば一緒に歩いてはくれる。
コンパスを懐中にしまい込んでから、確認した方角へとアカネの手を引きながらに歩いていく。
本当に、同じ人物かと思うほどに様相が変わってしまったアカネに。判断を誤ったか、と。
(……いや、必要なことだった、はずだ)
俺も、アカネも。停滞をしていた。妥協点を勝手に決めつけて。そこに滞留することで解決したと思い込もうとしていた。
根本的なところが、ただのひとつだって解決していないというのに。
(とはいえ、これほどまでになるか)
アカネが廃人気味になる可能性は考えていた。
なにせ、アカネにとってはほとんど無いと言っていい心の拠り所。そのあまりにも大きく、そして希少なひとつを、無惨に轢き潰したのだ。
それも、あろうことか。いちおうは拠り所として機能していたはずの俺が、彼女の意志に裏切る形で。
他の誰しもが、アカネのことを強い人間だと思っている。妹であるシラギクだって、その点については一切疑っていない。
いや、シラギクだからこそ、疑いようがないのだろう。
なにせ、アカネの光の側面ばかりを見せつけられていたのだから。
彼女の人ならざると表現するに過分ではない、圧倒的な能力。
作り上げられたまやかしの人格が見せつける、強靭な精神性。
圧倒的高所にまつりあげられた舞台。その壇上で踊る彼女を見つめる観衆は、ただ見上げることしかできなくて。いや、見つめることしかしなくて。
その舞台にしがみつき登りきったその先にある、踊るにはあまりにもか細い彼女の脚には気づかない。
そう。アカネは、弱い。
能力が、とか。そういう話ではなく。
その精神性が。
生来の彼女が持っていたはずのアカネという人間は、もっと、普通であったはずなのだ。
だが、それを周囲が否定した。己が利益のために、民衆のためであるという言葉を盾にして。
大人たちが、情けなくも、残酷にも。寄ってたかって、守るはずであるアカネという子供を否定した。
(……まあ、否定をした、という点では俺も変わりはないんだけどな)
彼女が周囲に否定された自分に変わる存在として作り上げたその幻想を、今度は俺が否定した。
その結果が、これである。
元々のアカネはすでにひどく弱々しい存在となっており。また、作り上げられたアカネは、否定され形を喪った。
その結果、彼女の中にはほとんどなにも残っておらず、実質的なもぬけの殻となってしまっている。
やり過ぎ、効き過ぎ、という側面が無くはない。
聖女としてあるべき姿を保たんとするアカネという、あまりにも強靭な精神性を取り去るには、こうする他なかったというのも事実ではある一方で、こうして彼女が廃人一歩手前になるまで、追い込まれてしまっているというのもまた事実ではあるだろう。
だからこそ、かつての俺はこの手を取るのをためらった。万が一こうなってしまったときに、対処できないと。責任を持つことができないと、そう思ったから。
だから、逃げた。停滞を、提案した。
それはあまりにも温かで、心地が良くて。俺も、アカネも、それに準じた。
でも、もうそれはやめだ。
向き合わなければ。穏やかな停滞を振り切り、現実に対して正面からぶつからなければ。
俺も、彼女も。出会ったあのときから――子供の頃から。
前に、進めないから。
だからこそ、俺はその意志を見せた。どれだけ苛烈であろうとも向き合う姿勢を。責任を引き受ける覚悟を。
あとは、それにアカネが応じてくれるか、どうか。
「…………」
アカネは、依然として黙っていた。
引かれる手には素直に応じるし。足元に木の根があるときはきちんと躱す。
なにも感じていないであるとか、なにも考えていないというわけではない。
だが、それと同時に。アカネの側からのアクションが、あれ以来一切途絶えている。
それが意味するところを考えると、あまり良い状態とは言えない。
(最悪、この状態のままで治らないようなら。……そのときは、責任をとって駆け落ちでもなんでもすることにはなるかな)
なんて。柄にもなくそんな冗談を考えたりする。
この状態のアカネを連れ帰ろうものならとんでもない言葉が振りかかってくるだろうし、アカネに対して向けられる感情も、彼女のためにはならない。
ならば、彼女が持ち直すまでは放浪をするほうがマシではあろう。
(ただ、そうなるとシラギクからの依頼を反故にする形にはなるよな)
彼女からの依頼は、俺とアカネのふたりが無事で帰ってくること。そして、彼女とともに生きること。
前者については、今回の任務のちょっとした穴として依頼の達成時期についての指定がない。――まあ、万が一にアカネが帰ってこないなんてことがあり得てはいけないために、元より指定をしなかったのだろうが。だが、その都合でアカネが元に戻るまで、放浪するのは書面上は問題ない。
だが、問題となるのは後者。俺がシラギクとともに生きるというもの。
破綻しているところも多い、書面で交わされたものでもない、正直なところ、依頼として見るにしてもお粗末なものではあるのだが。しかし、たとえ矛盾があろうが、口約束だろうが、依頼は依頼なのである。
それを反故にするのはやはり俺の主義に反するし。
なにより――、
(アカネが帰ってこないことも、俺が帰ってこないことも。シラギクにとっては、とてつもなく辛いことだろう)
なにを、弱気なことを。まさか、どのように依頼の失敗を誤魔化すか、はたまた依頼を放棄するかのような思考を回していたのかと自戒する。
アカネの纏う雰囲気に、俺自身呑まれていたのだと言うことを自覚する。
アカネの手を握っているのとは、逆の拳をぎゅっと握りしめ、決意を改めて抱く。
……とはいえ、どうすればいいかなんて。そんなことは全くわかりもしないのだが。
しかし、彼女に――アカネの心に寄り添うこと。たったそれだけではあるものの。けれども、それだけならば、できる。
アカネがどんなふうに思っているのか。どんな痛みを、苦しみを抱えているのか。
少しだけでも、そんなことを理解できれば。
握る手を通して、彼女に寄り添おうと意識を向ける。
『……私は、どうすればいいの?』
ふと、そんな声が聞こえた気がして。思わず、目を見開く。
無論、アカネは口を開いていない。直に聞こえたわけではない。
けれど、アカネが。たしかに、彼女のが、そんな言ったような、そんな気がして。
『ねえ、リンドウ。私は……私はどうあるべきだったの?』
アカネの言葉が、続く。
まるで繋いだ手を通じて伝わってきているかのようなその言葉。
それは、アカネの不安の吐露であるようで。
『わかんないの。信じるものがわからなくなって。全部、空っぽで』
本音で、あるように思えた。
その言葉たちに。彼女の痛み、苦しみが直接に心臓に突き刺さるような錯覚を覚える。
けれど。少しだけ、わかった。彼女の、現在を。
今更ながらにやっと理解した。遅すぎるくらいではあるが。アカネという、人物の本質を。
さっきの俺は、ひとつだけ勘違いをしていた。
作り上げられたアカネの自覚は、本来の彼女のものではない、と。
だが、こうして彼女の心に触れたことで、それが半分だけ正しくて、半分間違っているということを理解した。
たしかにアカネ本来の精神性ではないだろう。本来の彼女はもっと弱くて、そして、人間らしかった。
だが、それと同時に。自身に差し向けられる重圧から逃れるという選択肢だってあった。
しかし、彼女は人々からの期待に答えた。少なくとも、最初に彼女を突き動かした、その原動力は。
紛うことなき、アカネ自身の意志であったはずで。
そして、そんな意志から作り上げられた聖女としてのアカネも。たとえその成立過程がいびつであろうとも、形成された精神性が元の性格からひどく乖離していようとも。長く根付いたそれだって、正しくアカネ自身であった。
やっぱりあの薬はちょっと効き過ぎであったな、なんて。少しばかり、反省をする。
だが、あのとき彼女の言葉を否定したことは間違っていなかったと。それだけは、自身の主張としては持っているが。
とはいえ、やるべきことはわかった。俺の、やらなければならないこと。
救うべきなのは、ひとりであり、ふたり。聖女としてのアカネと、少女としてのアカネだ。
そのためにも。アカネに伝えなければならないことがある。言わなければならないことがある。
ひとりであり、ふたりのアカネが。その頑張りに報われてくれるように。ささやかながらに、柄にもなく、願って。
少しばかり握る手を強め。彼女に伝わるように、気持ちを込める。
『アカネは。アカネの在りたいようにあればいいんだ』
声に出したわけではない。だが、伝わったのだろう。
彼女は少し驚いた表情で、こちらを見る。
しばらく、困惑した様子を見せたアカネであったが、なんとか持ち直した様子で、そのまま口には出さずに答えを返してくる。
『在りたいように、って言われても。それが、わからないの』
『そんな難しいような話でもないぞ』
まあ、単純な話、というわけでもない。
特に、アカネの場合はそれが顕著に現れる。
なにせ、アカネは長い期間に亘って、他人から押し付けられた感情を正として扱ってきた側面がある。だからこそ、自身の感情を見失ってしまっている。……いや、この表現も厳密には正しくない、ということをつい先程理解したが。
しかし、俺は確かに聞いたことがある。他人からの期待に押し潰されそうになりながらも、懸命に期待される自分であろうとしたアカネの。ささやかで、遠い希望。
『なりたいんだろう。幸せなお嫁さんに』
『――ッ』
かつてのアカネが言った、聖女らしくはない。だが、ただのひとりの少女らしい、ささやかな願い事。
パッ、と。目を見開いたアカネ。なにかを思い出したかのような様子を見せた彼女は、その顔を一気に紅潮させる。
それが叶わないならば、いっそ殺してほしい、なんて。随分な願い事である。
『できない、と。そう思うのは勝手だ。だが、そうなれなくしてしまっているのは、お前自身でもあるんだ』
もちろん、周囲がそう思わさせてしまっているという側面はある。
だが、当人がなりたいと願わなければ。なれると思わなくては。
自分自身を、信じなければ。それはきっと叶わない。
他者の願いを叶えてきたはずのアカネは、己の将来を諦め、向き合わなかったがために。自ら夢から遠ざかってしまっていたのだ。なんとも、皮肉な話だが。
『本当に、叶うと思っているのかい?』
『さっきも口で言っただろう。俺は別に、お前の本来の願いを諦めたわけじゃないって』
だから、アカネのことは嫌いでも、殺したいほどに嫌うことはない。
『嘘じゃあ、ないみたいだね。うん。この場では、嘘はつけないし』
『なんだそれ。まるで相手の本音を見抜くみたいな』
『あながち、間違いではないね。まだリンドウは十全には扱えていないみたいだけど』
アカネの表情に、少しだけ明かりが灯る。
だんだんと、いつものアカネが戻ってくる。
ある意味では、このアカネが一番今の彼女を示していたのだろう。
聖女としてのアカネと、少女としてのアカネが綯い交ぜになった、混沌とした人格。
まあ、そんな人格も。他の人に迷惑をかけないのならば、悪くはないのかもしれない、なんて。そんなことを思いながら。
『しかし、自由恋愛など、正教会が赦すと思うかい?』
『そこはお前がねじ伏せろ。今までの実績という名の手札ならいくらでもあるだろう』
そもそもそれを言い始めると、今回俺に性交渉を迫ってきたのはどうだという話になる。
『それもそうだね。君にセックスを申し込んでいる時点で、だね』
『おい、勝手に心を読むな』
『ふふふ。読みたくなくても勝手に聞こえるんだから仕方がないじゃないか』
まるでシラギクのようなことを言うアカネに俺は小さくため息をつく。
『しかし、相手はどうしたものだろうか』
『それこそ俺の領分外だ。相談とかなら乗れるかもしれないが』
『ふふっ。君だってその手の経験がないだろうに。……まあ、でも。実はひとつだけ、私にも心当たりがあるんだ』
いつしか。いつものアカネのいたずらっぽい笑みが戻っていて。
「それじゃあ、リンドウ。今から、一緒に子作りをしよう」
「考えうる限り最悪の回答をどうもありがとうクソ女」
そして、おかえり。待っていたぞ、全く。




