#30
「……最悪の寝覚めだよ。本当に」
左腕が、熱を持つ。それが痛みであるということに、遅れながらに知覚する。
チラと視線を遣れば、自身の愛刀によって少しばかり肉が斬れた左腕。……大丈夫、動かなくなるとか、致命的なほどではない。
それよりも、今優先すべきなのは――、
「へえ。意外だよ。まさか、聖霊の精神干渉を振り切るとは」
俺の真下にいるアカネ――なぜか俺がアカネに覆い被さるような体勢になっており、その下にいた彼女は、本当に驚いているような表情を浮かべながらにそう言ってくる。
精神干渉――先程まで見せられていた夢が。いや、過去の記憶が、すなわち聖霊が見せてきたものである、ということだろう。
なぜ、俺とアカネのその背景を知っているのか、ということについてはひとまず置いておくとして。どうして、こんな記憶を思い起こさせられたのか、ということは明白。
「ついに、君が約束を守って私のことを殺してくれるかと思ったんだけどね」
ふふふ、と。楽しげに笑いながら、アカネはそう言う。内容は、決して笑い事などではないが。
俺の腕を斬りつけた刀は、別に俺自身を狙ったわけではない。
あのまま刀が振り下ろされた先にいた存在――アカネを守るために、咄嗟に盾にしただけである。
初めてアカネと会ったとき。その晩に、あの森の中で彼女と結んだ約束――もとい、依頼。
それは、彼女のとある望みを叶えてほしい、というもの。人並みの、子供のような、そんな望み。
しかし、皮肉なことに。他者の願いを叶えることができる彼女にとって、自分自身のそんな些細な望みこそが、どうしてとてつもなく遠いところにあり。
それが叶わない、と。そう、ある意味確信めいた感情を抱いていた彼女は、その依頼に、もう一つの条件を付した。
「――それが叶わないのならば、私を殺したいほどに嫌ってほしい」
彼女の容姿、そして、声が。かつてのものと重なっていることもあってか。その言葉は、俺の心をひどく揺さぶった。
アカネは、そのトチ狂った性格と思考から、己の責務を全うしないことを赦さない。
才を有しているのにそれを果たそうとしない他者はもちろん。自身に対しても、当然ながらに……いや、むしろ。もっとも苛烈な採点基準を課しながら。
だからこそ、彼女は逃げたいと考えることはない。それは、自身の責務を放棄することだから。
けれども、彼女のその半端な依頼には。殺したいほどに嫌ってほしい、という望みには。どこか、助かりたいという願いが見えた。
「……俺は、お前の本来の願いが、まだ叶わないとは、そうは思っていない」
アカネのことは、嫌いである。クソ女だし、関わりたくもない。
だが、殺したいほどではない。少なくとも、今のところは。
殺してやったほうが楽になるだろう、と。そう思うことはある。しかし、それと同時に。アカネが囚われている思考の鎖は、死ですらも彼女の精神を解放しない。
たとえ、彼女が本来の願いを、半ば諦めているとしても。
「それに、俺が請け負った任務は。殺したいほどに嫌ってほしい、であって。殺してほしい、ではないからな」
「……相変わらず、堅いのか、屁理屈がうまいのか」
「お前ほどではない」
苦笑いをしながらに、そう言ってくるアカネ。
まあ、仮に俺が彼女のことを殺したいほどに嫌っており、いざ殺そうとしたところで。おそらくは、殺せはしないだろうが。
それほどに、彼女の持つ聖女としての権能は強力であり。かつ、アカネが囚われている責務という呪縛から、回避しようのない死を拒まざるを得ないからだ。
世界はアカネに味方をするし、アカネはそれを使うことができる。それほどの権能を彼女は有しており。
その代わりに。アカネという個人としての、ありとあらゆるものを世界は蔑ろにする。
「ひとつ聞いておきたい。聖霊は、お前の味方なのか?」
「うーん。どちらでもない、が正確かな。基本的に聖霊は聖女に対して好意的に接するんだけれども。私の場合は少し事情が変わる」
この聖域が聖女にとっての修行の場であるのには、いくつかの理由がある、と。アカネは言う。
ひとつは、聖霊の作り上げた結界の存在である。これにより、本来ならば聖女以外が入ってくることができないために、聖女は修行に専念をすることができる。……今回は、なぜが俺が入ることができているし、そのせいで聖霊に目をつけられているのだが。
そして、別な理由として。聖霊の能力が聖女の修行にとって都合がいい、ということがある。
「聖霊は他者に対する精神干渉の類を得意とするんだ。それこそ、さっきまでリンドウが見せられていたであろう夢のようにね」
「おかげさまで最悪の寝覚めだよ」
聖霊のその能力によって、聖女が成長するために必要な要素を再現していく、というのが彼らの役目なのだという。それ以外にも、現実で聖霊が幻影という能力で実在と非実在の中間となる存在を生み出すことで、修行に必要な要素を用意したりもするのだとか。
ちなみに、聖域の周りに張られている結界についても、精神干渉により侵入者を出口へと誘導するものなのだという。
「まあ、そうした精神干渉系の能力を持っており、対象にとって必要な要素を再現したりするという都合。聖霊にとって、私という存在はどうしたものかと判断に困る相手なのだろうね」
最初、アカネが聖霊に嫌われているという話を聞いたとき。その理由についてはいくつか考えた。
たとえば、アカネが聖女として優秀すぎるがゆえに、聖霊側になんらかの負担が発生しているであるとか。
あるいは、アカネが過去に聖霊に対して無理な押しつけを行っていたであるとかだと思っていた。
だが、現実にはそのどれでもなく。
アカネの心の裡を聖霊たちが見ることができるために。見ることができてしまうがゆえに。
かつての俺が忌避し、そして現在の俺が嫌々ながらも彼女と付き合うことになってしまっているのと同じで。
アカネの願い――心の奥の奥。その奥底。圧倒的な力を以てして押し潰しているその下にある、その僅かに残る望みに。複雑な心境を抱いているのだ。
「なあ、アカネ。やっぱり――」
「君の言おうしていることはわかる。だからこそ、ダメだ、と伝えさせてもらうよ」
さすがに長い付き合いである。
だが、それについてはこちらだって同じ期間付き合ってきているわけである。ここでそう言われるのだって、承知の上である。
「やっぱり、少しくらいなら自由に生きてもいいんじゃないか。聖女とか、役目とか。そういう柵から、離れて」
だからこそ、先んじて否定をされようとも。その言葉を伝えることをやめない。
アカネの姿が。かつて、俺が唯一といっていいほどに珍しく、彼女の弱音を聞いたときと同じ姿だったからか。
あるいは、普段からそう思っていた感情が。いつかの記憶を夢で見せられたからか。
諭すような言葉を、彼女に差し向ける。
アカネはどこか少し困ったような表情を浮かべて、「全く。ダメと言っただろうに」と小さく笑う。
「……相変わらず、君は優しい人間だね」
「お前にゃ負けるよ。俺は別に、自分に利がないのに知りもしない誰かのためになにかをしてやろうって気にはならないからな」
まあ、アカネの優しさの方向性がズレていることはあるけれども。
大多数から非道な仕打ちと評価されるであろう、シラギクに対するあの行為も。アカネにとってはある意味での優しさではあったのだろう。無論、責務から逃げることを赦さないという側面も間違いなくあったが。
「でもね、やっぱりダメなんだよ。私たちは、責任を果たさなければならない。才あるものは、弱きを救けなければならない。それが、才を持つものの責任。そうでしょう? リンドウ」
「それ、は……」
幾度となく聞かされた、その言葉。
もはや、呪縛という言葉すらも生温いほどに、彼女に絡みついているそれに。
俺は、言葉を詰まらせる。
時間にしても、ほんの僅かな時間。表情も、少し変わった程度。
だが、そのちょっとした時間の差が。
「肯定してよ。ねえ。お願いだから」
アカネを、不安に突き落とした。
しまった、ということを自覚した。
俺は、彼女のこの言葉を面と向かって否定することはなかった。
なにせ、この言葉は、彼女にとって呪縛であるとともに。数少ない拠り所であったからだ。
しかし、それと同時に。普段の彼女であれば、こうはならなかっただろう。それほどまでに長く染み付いていることであるし。それ以上に、否定したところで、普段の彼女にはこれに反対する感情が、ない。
だが、今回ばかりは、いつもと事情が違っていた。
良くも悪くも、俺は彼女に向けて諭すような言葉を吐いたのだ。
それは、彼女にとっては救済でありながら、呪縛をより強く締め付ける要因となるものであり。
そんな言葉は、彼女の精神を、大きく揺さぶった。
いや、この表現はおそらく正確ではない。
今のアカネの精神には、大きく影響をしていない。
影響をしたのは、かつての彼女の精神。
俺と出会ったときは、まだ、ほんの少しだけ残っていた。彼女の本来の自我。
責任を果たす上で、邪魔である、として。普段は押し潰されているアカネという少女という存在が。俺の干渉により、ほんの少しだけ、力を持ってしまっていた。
だからこそ、普段ではありえないところに。アカネのありえない感情が割り込んできた。
そして、その感情は。
「ねえ、そうだと言ってよ。私たちは、責任を果たさなければならないんだって。人々を、救けなければならないんだって。――もし、そうじゃないのなら」
彼女の深く奥底に、根深く巣食う、思考の洗脳であり、そして、精神の拠り所であるその考えに対して。
「私はなぜ、普通であることを赦されなかったの」
否定の意志を見せたのだ。
聞くところによれば、アカネは物心がつく頃合いには既に聖女としての才能を発揮していたのだという。
つまり彼女のこれまでの人生は、その自覚が生まれた頃からずっと、聖女であることを強いられてきていた。
どれほどの責任を、いつ頃から押し付けられていたのかはわからない。
俺が知りうるアカネという人物は、あの日の依頼の直前に見たときが初めてである。
だが、その頃から既に、今のアカネとそう変わらない程度に勤勉に働いており。そして、あの頃から既に、今に至る、才ある者としての務めを唱えていたことの根深さを加味するならば。それ以前の彼女についても、そう変わらなかったのだろう。
本当に、どうしようもない話であると同時に。彼女が、いかに聖女であることを強いられてきたのか。
一部の正教会関係者以外の、ほとんどの人たちからしてみれば「そんな気はなかった」などと吐き散らすだろう。実際、そんな気はなかったのだから、たちが悪いが。
だが、彼らは間違いなく、願ったのだ。その望みを、その期待を。その重圧を。アカネに押し付けた。
そして、アカネはそれを叶えた。叶えてしまった。叶えることが、できてしまった。
次から次へとそれらはやってきて。子供ながらに、いや、子供だからこそ、必死にそれらをこなして。
そうしているうちに、彼女の周りには変化が起こってくる。
周りからの扱われ方に仕切りが生まれた。
特別だなんだともてはやすそれは。自身と他者とを別物だと決めつける暴力を内在していて。
まずい、と。そう思ったときには、既に遅かった。
願われるままに、望まれるままに。必死に努力を続け、応え続けた結果。
彼女の足元には、舞台が作り上げられた。高い、高い、舞台。
期待と、称賛。喝采のみが鳴り響く壇上。
子供がいくら叫ぼうが、届かぬほどに拍手が鳴り響き。
怖くて降りようとしても、あまりにも高すぎて、どうにも届きそうにない。
そんな場所に立たされたアカネは、ついにはその精神を保てなくなって。
それでも、周りはまつりあげる。
次第に、彼女は自身のこの感情が間違っているのだと思うようになった。
そう。間違っているのは、弱い自分。自分自身の精神が弱いからこそ、周りの期待に応えられないのだ、と。
だからこそ、彼女は自分を殺した。
弱い自分が、邪魔だから。
そうして、虚っぽになった、その器の中に。強い人格を作り上げ、据える。
『才あるものは、弱きを救けなければならない。それが、才を持つものの責任だ』
という。そんな言葉を拠り所にした、いびつな人格を。
「――アカネ」
「嫌だ、聞きたくない!」
彼女の言葉を、肯定してやる。
それが、アカネの願いである、ということは理解している。
かつての俺は、そうした。そして、今までの俺も、そうしていた。
それを否定することは、アカネの精神の拠り所を潰すことに等しいから。下手をすれば、アカネという人物を潰しかねないから。
だがしかし。ある意味では、俺も、向き合うことから逃げていたのだろう。
アカネという存在を、厄介事に首を突っ込むことを、避けようとしている自分がいて。
今思ってみれば、未だに、俺は彼女の前で怠惰にしてたのかもしれない。勤勉に在ろうとはしていたものの、心根は、やはり、そう簡単には変わらなかったのだろう。
アカネが、やはり、俺といるときでも怠惰になりきれていなかったように。
「……でも、大切なのはこれからどうするか、だもんな」
アカネが、言った言葉である。
彼女にとっては、聞きたくない言葉なのかもしれないが。
まあ、クソ女には、ちょうどいい薬になるだろうと。
「それは、違う。そんな責任はないし、己を殺してまでしなくてもいいんだ」




