#3
「……そろそろこのあたりで休憩しておくか」
腰につけていた懐中時計を確認しながらにそうつぶやく。
「私、まだまだ動けるよ?」
「気持ちはわかるが、休息は大事だ。……特にこういう場ではな」
まだ元気であると主張してくるシラギクではあったが、俺は首を横に振る。
送りの霊穴は、地下に完全に入り込んでいる。その都合、昼夜の感覚が麻痺する。
そのため、狂ってしまった時間感覚に引きずられて補給や急速のタイミングや頻度を見誤り、知らずのうちに体力の消耗が激しくなってしまっていたりする。
そんな状況下でアンデッドからの襲撃を受けようものなら、手痛い傷を受けかねないし、万が一の場合には死に至る可能性まである。
だからこそ、決まった時間にしっかりと休息をとるということが、直接的な生存率に繋がってくる。
ひとまずの周辺の安全は確保できている。送りの霊穴の内部ではあるので、ずっと安全というわけにはいかないだろうが、少なくともしばらくは大丈夫であろう。
「とりあえず、夕飯の準備をするが。シラギク、どれくらい腹が減ってる?」
「うーんと、あんまり減ってない、というか。ほぼ減ってないかな」
「……そうか。まあ、それでもひとまず食べておけ」
そう言いながら、俺はシラギクに携帯食料を手渡す。
食欲がなくとも、無理にでも食べておくことは存外に重要である。
味気のないもので済まないな。と、俺がそう言うと。シラギクはフルフルと首を横に振りながら、携帯食料を受け取り、口に含む。
簡素な紙に包まれただけの、ビスケット状の食料。これだけでは口がパサつくので、一緒に飲み物も渡しておく。
「ほんとに味がしない」
「……まあ、美味しく食べる目的のものじゃないからな」
俺はそう答えながらに、自分の分を齧る。うん、やはり美味しくはない。というか、まずい。
とはいえ、軽量で手早く食べられ。そして、栄養価が高く。それでいてそこそこに安価なので、慣れ親しんだ味だったりする。美味しくはないが。
手早く自分の分を食べ切ってしまってから、ササッと野営の用意をする。
まあ、野営とは言っても雨風の類が起こる場所ではなく、逆に危険視すべきはただならぬ冷気であるため。火起こしと防寒具の用意だけではあるのだが。
パチ、パチ、と。小さな音を立てながら、焚き火がオレンジ色の火の粉を少しばかり飛ばす。
暖かな火にあたりながら、少しばかりの安堵の息を漏らす。
ここまで、ずっと冷気にあてられ続けていたから。久しい温もりである。
毛布を一枚シラギクに渡し、もう一枚を身に纏う。
雪山用の特殊な毛布だということもあり、とてつもない寒さを誇る送りの霊穴の中でも、少しばかりの安息の地を用意してくれる。
シラギクも、受け取った毛布を俺に倣うようにして身に纏う。
にわかには信じがたいことに、シラギクは寒くないとのことだったが。とはいえ、それでもこの状況下で冷気からくる体力の消耗は可能な限り抑えておくべきだろう。
「その毛布の中なら、寝ても大丈夫だ。周辺警戒なら俺がしておくし」
「でも、それだとリンドウさんが寝れないんじゃないの?」
「心配してくれるのはありがたいが、俺なら大丈夫だ。こういう状況なら慣れてるから。それとも、シラギクは万全の体力じゃない状態で有事に備えられるのか?」
「……わかった。ありがとう」
シラギクは納得してくれた様子で、壁に背中を預けながらにゆっくりと呼吸を整える。
しばらくすると、規則正しい呼吸とともに彼女の様子が安定する。
「さて。……俺も、やるべきことをやるとするか」
シラギクが眠ったことを確認しつつ、俺はひとつの包みを取り出す。
丁寧に布で包んでおいたそれを開く。ちょうど、シラギクを救助した直後。拾ったもの――シラギクの小指である。
「この状態で、なんの問題なく動けている時点で、平時の状態ではない、よなあ」
小指が欠損しているというのに、それに気づいている様子もなく。当然、痛がっているとか、そういう素振りもない。
「しかし、はたしてこの欠損が。どの要因によるものなのか」
単純に考えれば凍傷と考えるのが筋であろう。なにせ、この寒さである。
この極限レベルの冷気の中で、あの薄着で横たわっていたシラギクの身体のことを考えれば、まず凍傷になっていないわけがない。
だけれども、それにしてはシラギクがあまりにも寒がっていない。
まあ、もはや冷気云々についても完全に感覚が麻痺してしまって感じ取れていないのかもしれないが。
ただ、それだけではない。シラギクが身体の疲れを覚えていない、というのはひとまず置いておくにしても。空腹を感じていない、というのはなかなかに違和感が強い。
極限状況下にあるためにそのあたりの欲求関係の諸々が壊れてしまっているという可能性もありはするが。そうであったとしても、シラギクがここ数日、食料という食料のないこの送りの霊穴にいながら、それらを一切気に留めるような様子を、シラギクは見せなかった。
そういう側面を鑑みると、シラギクがまともに生きているようには、とても思えない。
だが、シラギクは間違いなく動いているし、喋っている。
携帯食料も食べ、水も飲んだ。その事実だけはたしかなことで。
すぐ目の前にあるシラギクの身体が、死体であるとは到底思えない。
「他の可能性としては。……あんまり考えたくはないが」
シラギクが、既にアンデッド化しているというもの。つまりは、身体が腐敗してしまっているがゆえに指が落ちてしまったという可能性。
アンデッドが摂食するなんて話は聞いたことがないが。とはいえ、そうだと仮定すると、シラギクがこの極度の冷気の中でも平気であることや空腹を感じていないこと。そして、アンデッドが蔓延っている送りの霊穴のなかで、今の今まで生きていられたことなんかにも合点は行く。……いや、アンデッドだった場合は、生きていないのだが。
だがしかし、こちらにしてもやはり疑問がいくらか残る。
シラギクの応答が比較的まともなのである。
無論、正常とは呼べない応答もある。たとえば、彼女が行っていた拍手について。
シラギクは手のひらで行う拍手が当然であると発言しておきながら、自身の行動では手の甲で拍手を行っていた。
そういう側面を見れば、やはりシラギクが正常ではない、という判断はできるのだが。しかし、仮にアンデッドだとすると。それはそれで違和感も多いのだ。
アンデッドはその本能から生者を仲間に引き込もうとする。有り体に言ってしまえば、生きている者を殺そうとする。
ちょうど俺がシラギクと出会ったときに襲いかかってきていたアンデッドがそうであったように。
だがしかし。現状、シラギクはそういった素振りを――俺のことを害そうというような行為を見せていない。
それに、多少の応答の違和感こそあれど、シラギクの思考がまともであるように見えることも、疑問を加速させている。
高位のアンデッドであればまともな思考が備わっているために、理屈の上では俺とシラギクが交わしていたような会話も可能であろう。
あるいは、シラギクがリンドウに対して、うまく生者のフリをして近づき、隙を伺っている、であるなどの可能性も考慮できる。
だが、それらは高位のアンデッドであれば、という可能性である。
低級アンデッドでは偽装はおろか会話すらまともに成立できないだろう。それこそ、言葉など交わさずに、まず真っ先に襲いかかってくる。
しかし、基本的に高位のアンデッドになるためには、時間がかかる。シラギクがいなくなってしまった時期などを考慮すると、その可能性はかなり低いことになる。
「……全く、いったいなにが起こってるっていうんだよ」
目の前のシラギクに対して、俺は少しばかりの愚痴を漏らす。無論、眠っている彼女には、そんな言葉聞こえることもないだろうが。
ある意味では生きているようにも思えるし、ある意味では死んでいるようにも見える。
どうしてだか、目の前の彼女は。生者と死者の両側面を併せ持っているようにしか見えないのである。
「ああ、本当に気分が悪い」
不意に、クソ女の顔が脳裏によぎる。
今になって、アカネの言っていた言葉の意味がある程度理解できてくる。
やはりアイツはクソ女だ。
シラギクの生死についての言及をぼかしていたのも。
俺に、シラギクの状態の判断を一任して、その上で救助か遺体の回収を依頼してきたのも。
この、シラギクの生きているとも死んでいるとも。その両方の状態とも違うという、奇妙な現状を理解していたからこそであろう。
「……とりあえず、今考えるべきは、この小指をどうするか、だよな」
どういうわけか生きている? 様子であるシラギクだが。はたしてどういう理屈で生きているのかがわかっていない以上、どうにも下手なことをしにくい。
だが、なにかの拍子で彼女の命を繋げているものが途切れてしまう可能性もある。
それこそ、あくまで可能性のひとつとしてではあるが。シラギク自身が、自身の死を自覚する、であるとか。
取り乱すとか半狂乱になる程度であれば、それこそ俺とシラギクの力の差があれば抑え込めるから問題はない。問題になるとすれば、シラギクが現状保っている意識をぷっつりと途絶えさせてしまう場合だ。
生きているとも死んでいるとも。その両方から近くて遠いシラギクの現状から見れば、そうした少しの拍子によって、一気に片側に天秤が傾きかねない。
で、あるとすると。自分の小指が喪われている、ということへの自覚は。そのきっかけとして十分なものになり得る。
「欠損部位を、縫合して意味があるのからわからないが」
とはいえ、シラギクの自認を遅らせる時間稼ぎにはなるだろう。
単独で行動する都合、有事の際に処置をするため、縫合するための道具なら持っている。……良くも悪くも、シラギクの身体は半冷凍のような状態になっているため、欠損部位の損傷も浅い。このまま帰還が成功すれば、それこそアカネがなんとかするだろう。
取り出した針と糸を持ちながら、そっとシラギクのそばに寄る。
すう、すう、と。規則正しく、小さく寝息を立てている様子を見れば、たしかに生きているように見えるのだが。
しかし、冷え切ったその身体は、まるで生気を感じ取ることができない。
「寒さを感じないなら、同じく痛覚も感じない……といいんだが」
そっとシラギクの身体に針を通す。シラギクからは、なんの反応もない。どうやら、気づいていないらしい。
少しだけ安堵の息を漏らす。しかし、なにかの拍子に彼女が起きるかもしれない。俺は手早く針を運ばせ、千切れた指を手とを縫合していく。
「こんなものか」
糸を結び、余計な部分を切り落とす。そっと手で支えていた小指を離してみると、ちゃんと縫えていた様子で、問題なく手とくっついていた。
できるだけ目立たないようには気をつけたが、それでもジッと目を凝らせば糸が見えなくもない。
シラギクが気づかなければいいが、と。そう思いながら、針と糸とをしまう。
「……まあ、どこまでいっても先送りでしかないんだよな」
たしかに、指と手はくっついたが、繋がってはいない。このままではあの小指が動くことはないだろうし。あくまで、シラギクが自身の運命を受け入れることを先延ばしにしただけ。
同時に、俺自身の判断も先送りにしただけ。シラギクが生きているのか、死んでいるのか。その判断が、現状の俺にはできないために。それを考えるための時間を作っただけ。人が、なにを以て死とするものかの、その判断を。
ひと通り不要な荷物を片付けてしまって、眠りこそしないものの軽く急速を取ろうかと思った矢先。ぐぅ、と。小さくお腹が鳴る。
先程食べたばかりではあるが、少しお腹が減った。
「……もう一個、食べるか」
携帯食料は、高栄養価で手軽に食べることができるので便利なのだが。都合、あまり食べた気がしない。
携帯食料をひとつ取り出して、齧る。
慣れ親しんだ、まずい味。
たしか、携帯食料としての機能に不要である他に、栄養価が高いために食べすぎないようにと言う目的で、あえてまずいままにしている、という話を聞いたことがある。
それでもなお、何人かが美味しくしてくれと懇願していたのを覚えている。結構なまずさなのはたしかだった。
そう、まずい。絶妙に薄味だし、なんとも名状しがたい味をしている。
「……だが、無味ってわけじゃないよなあ」
俺はそう言いながら、携帯食料の残りを口の中に放り込む。
うん、まずい。




