#27
「走れているか、アカネ!」
「ああ、なんとかね。それよりも君の手は安心するね」
「そんなふざけたことを考えている暇があるなら、しっかりと前を見てろ!」
逃走中だとは思えないその発言にため息をつきながら、しかし、真っ直ぐに森の中を駆け抜けていく。
先程までよりかはいくらか太陽の光が入ってくるようになっただけにまだ周囲の様子は見えやすくなったが。それでも暗いは暗い。それこそ、よく見ていないと木の根などに足を引っ掛けてしまいかねない程度ではある。
「一、二、三……五体になってやがるな」
明け方の森の静けさの中には、全くといっていいほどに似つかわしくない逃走劇を繰り広げていることもあって、何体かの聖霊に気づかれてしまっていた。
だが、幸いにも先手を打てているという現状、やつらがこちらに気づいたとしても、反応が一瞬遅れる。
元々の速度がこちらのほうが高いという都合、その一瞬の差で開く距離は僅かにして大きい。
それこそ、正面衝突、鉢合わせでもしない限りは中々追いつかれることはないだろう。
……その一方で、振り切るというのもひと苦労にはなりそうだが。
「ちなみに、聖域の外までどれくらいってお前ならわかったりするのか?」
「ふむ、そうだね。最初にいたところから見れば半分は超えている、というくらいかな? リンドウがどの方向へと進むかによって変わってくるとは思うが」
まだ半分、と見るべきか。あるいはもう半分、と見るべきか。
まあ、得体のしれない聖霊に追われながらに進んでいる、と思えば悪くはない進捗なのかもしれない。
……そうはいっても、実際のところでいうと。聖域から抜けたところで聖霊が追いかけるのをやめてくるかというと、その実はわかりはしないのだが。
とはいえ、俺自身が聖霊という存在を知らなかったし、他の奴らの話でも聞いたことがなかったところを見るに、意欲的に外に出ようとはしない種族なのは察しがつく。
帰還をするという意味合いも、ひとまずの安全圏に逃げるという意味合いもあるし、聖域を早々に抜け出すべきだろう。
「ちなみに、リンドウ。君に聞きたいことがふたつほどあるんだけれど」
「……なんだ。くだらないことを聞くんじゃないぞ」
「くだらないことなんかじゃあないさ。それじゃあ、まずはひとつめ。いつになったら私と子作りをしてくれるんだい?」
「くだらないことを聞くなっていったばっかりだろうが!」
俺が大きな声で文句を言う。しかしアカネは面白そうに笑いながら「いやいや、大切なことだろう」と。
……いや、たしかにアカネの主張としては俺と子作りをしたら帰る、ということを言ってきている事実はあるし。百歩譲ってアカネにとってはそうなのかもしれないが、それにしたって話しかける状況を考えろよ、状況を。追いかけられてるんだぞ、現在進行形で。
「これがひとつめの質問。そしてふたつめだが――」
「これでこっちもどうでもいいことなら起こるからな?」
「まあまあ、安心してくれていい。こっちはちゃんと、今の君が気にしないといけないことだろうから」
「……は?」
現在の俺が気にしているのは、聖霊との距離である。
逃走しているという立場である以上、追いかけてきている聖霊との距離は重要である。あと、聖霊の数も。
先程から更にしばらく時間が経ったということもあり追いかけてきている聖霊の数も増えている。ざっと気配を探っただけだから、正確とは言えないが。後ろに八体ほど追いかけてきている。
「随分と後ろばかりを気にしているようだが。……前はいいのかい?」
「いや、お前とは違って、ちゃんと転ばないように足元は見ているが」
「まあ、それも大切だけれども。もっと先も、気にしておくほうがいいんじゃないかな」
「……あ、しまっ――」
気づいたタイミングでは、既に遅い。ただ、俺が判断ミスをしていたという事実のみが残る。
たしかに、後方へと意識を遣ること自体は重要ではある。先述のとおり、追いかけてきている聖霊との距離は逃走の上での重要な要素のひとつだ。
だが、ベースの移動速度ではこちらのほうが勝っている、という都合。そこまで注力して気にし続けなければならない、というほどのものでもない。基本的に、真っ直ぐに逃げていれば追いつかれることがないのだから。
むしろこの場で最も警戒すべきだったのは、鉢合わせ。俺自身の自覚にもあったように、これ以外では追いつかれる見込みがなかったからだ。
返して言えば、これが発生してしまうと、一気に形成が逆転しかねない。俺たちの、不利へと。
通常の敵ならば、接敵したところを強引に突破するという手段が取れなくはないが。聖霊は詳細が不明な上に、アカネ曰く、接敵が非推奨な相手である。
だからこそ、最も気にするべきだったのは、前方。
逃走方向に聖霊がいるかどうか、だった。
そして、そちら側への集中を削いていた俺は、既に近距離にまで迫られてしまった聖霊の存在に。今になって、気づいた。
視界に入れられる範囲にまで、聖霊に接近されている。
直接に視認するのは、今回が初めてか。
人の子供くらいの姿ではあるものの、仄かな光を纏いながら宙に浮いている様子は、やつらが人ならざるものであることを知らしめてくる。
「アカネ、悪いが手を離すぞ!」
「不本意ではあるが。まあ、いいだろう」
きゅっと握りしめられていた手が離されて、両手が自由に使える状態になる。
前方には待ち構えていたと言わんばかりにこちらに近づいてくるおそらく聖霊と思われる姿が三体。こいつらを回避するというのは困難であろう。
後方には追いかけてきている八体の聖霊。立ち止まれば、こいつらに追いつかれかねないために、その選択肢はない。
「なら、一か八か」
走りながらに、佩いていた刀を抜いて、構える。
はたして効果を示すかどうかは不明瞭ではあるものの。しかし、ここで立ち止まることもできない以上、やるしかないだろう。
アカネがいる場所を確認しつつ、前方の聖霊に焦点を合わせる。
見てくれが子供なだけにどうにもやりにくいところが無くはないが。しかし、そんなことを言っている暇もない。
そのまま走りながら聖霊へと突っ込み、そのまま横一文字に斬りつける。
「どう、だっ!?」
聖霊の持つ能力の可能性のひとつとして、高防御があった。これで進行を防がれてしまっては、どうしようもなかったが。
しかし。振り抜かれた刀は、抵抗なく聖霊の身体をふたつに分ける。
どうやら、こちらではなかったらしい。
ひとまず前に進めそうである、と。そう思いかけたその瞬間。
しかし、猛烈な違和感が湧き上がってくる。
たしかに聖霊を両断したはずである。だがしかし、それにしては、斬った感触が、無い。
「ああ、クソ。テメエ……」
振り返って確認した、聖霊の姿。
ふたつに分かれた、それらの身体は。その形を一瞬ブレさせて、そして靄となって消え去る。
「精神干渉の使い手かよ……クソが…………」
見えていたその姿が幻であったと気づいたときには、もう遅い。
酩酊にも睡魔にも似た、猛烈な思考の障害に、頭が、身体が眩む。
平衡感覚が喪失して、重力により身体がゆっくりと地面に引き寄せられる。
「アカ……ネ……」
せめて彼女だけでも逃がそうと、身体と視線を動かそうとするが。しかし、鉛のように重くなったそれらは、どちらも動こうとしない。
アイツならば、うまく逃げられると思うけれども。
そんなことを考えているうちに、俺の思考は濁流に呑まれ、微睡んでいった。
* * *
日が高く昇った昼。街の広場の、その中央。
その少女は、民衆の真ん中にいた。
誰もが褒め称え、誰もがまつりあげ。
歓喜と称賛と、喝采と羨望。そして、欲。
そんな民衆の感情によって成り立った城の上に、彼女は君臨していた。
そんな姿に、俺はひどく同情した。
まだ齢にして五つか六つ、せいぜい高く見積もっても七つ程度に見える。俺より幼いか、同じくらいだ。
そんな頃合いに、あれだけの期待を押し付けられるというのは、酷な話だろう、と。
建物の陰の中から。干し肉に齧り付きながらそんな様子を眺めていた。
そうして最後のひと切れを口の中に放り込んだタイミングで。路地の奥からそこそこ立派なヒゲを蓄えた、壮年の男性が声をかけてくる。
「おい、リンドウ。仕事を頼んでもいいか」
「おっさん。俺はまだ子供だぞ。そんなのに頼んでて恥ずかしくねーのかよ」
「お前の食い扶持を用意してやってるんだろうが。七歳のくせに家出してんじゃねえよこのクソガキが」
相互に悪態をつきながらにも、仕事の話は仕事の話。それはそれとしてキチンと行う。
ギルドマスターから依頼書を受け取ると、その中身に目を通す。
「護衛依頼? それこそ俺じゃ不適格だろう」
護衛には当然ながらに実力が要求される一方で、それ以外にも信用と信頼という側面も要求される。
要は「この人に護衛を任せても大丈夫だろうか」という安心感であるとか、あるいは「こんな護衛がいるのだから襲うのはやめよう」という牽制であるとか。
その点、俺はとてつもなく不利である。ギルドマスターは俺のことを知っているから信頼と信用がある一方で、依頼者はそうではない。
見てくれも実年齢もともに子供である人間に、はたして信頼と信用があるかといえば、まあ無いに等しい。
……いや、子供だから変な智略を働かさせない、というような別ベクトルの信用を確保できる可能性は無くはないが、それを差し引いても実力不足などのデメリットのほうが勝るし。そもそもそんな子供のくせにギルドで依頼をとって働いている時点でそんな純朴なわけがない。というお話でもある。
「まあまあ、今回に関しては下手な大人があてがえない事情があってな」
「なんだそのワケアリな物件。余計に受けたくなくなってきたんだが。やけに報酬も高いし」
「……それに、護衛相手もお前と同年代だし、ちょうどいいんじゃないかと思ってな」
「依頼者に判断力がないからって適当に差配していいわけじゃないと思うぞ」
苦い顔をしながらに俺がそう答える。しかしギルドマスターはどこか面白げな顔をしながらに「ちゃんと考えているさ」と。
「それで、誰なんだよこの依頼者」
「……相変わらずというかなんというか。やっぱりお前はこういうのには興味がないのな」
「その言い振り的に、正教会関連か?」
「まあ、そうといえばそうなんだが」
「なら、俺は余計に不適当だろ。言っちゃ悪いが、ロクに信仰してねえし。そのことをおっさんだって知ってるだろ?」
倫理的な観点などもあり、いちおうは正教会の信徒ということにはなってはいるものの、逆に言えばそれだけ、でしかないのである。
敬虔な信徒はおろか、一般的な信者にすら劣るような行動と心持ちでしかない。
自分のために祈る気なんてさらさら無いし。強いて言うならば、依頼なんかで他人の遺体なんかに遭遇したときに、せめてもの気持ちで最低限手を合わせる程度である。
「まあ、正教会関係者ではあるんだが、この依頼者の名前は、どちらかというと正教会すら置き去りにして独り歩きしてるよ」
「へぇ、そりゃすごい」
曲がりなりにもこの国の最大派閥の宗教である。それを置き去りにするとは、相当な偉業を成し遂げたのだろう。それも、俺と同年代だと言っていたあたり、とてつもない人物である。
「それで。受けてくれるかい? リンドウ」
まあ、君のことだからきっと受けてくれるだろうとは思っているけれど、と。俺がまだいっさい反応していないのに、ギルドマスターはそのご立派なヒゲをなでながらに言ってくる。
…………たしかに、あまり断る気もなかったが。
「せめて、先に依頼者の詳細を教えろ。その後に判断をしたい」
とはいえ、ただでさえワケアリにしか思えない案件なのである。現状年齢しか聞こえていないのに、それで安請け合いなど正気の沙汰ではない。
「まあ、それについてはわざわざ詳細を伝えるよりも早い方法があるさ。なんの偶然か、それとも必然か。リンドウがこんなところにいたからな」
「……はあ? なんだよ、その要領を得ない回答は」
俺が首を傾げていると、ギルドマスターは顎で小さく広場の方を指し示す。
その光景は、先程とあまり変わらない。ひとりの少女を中心に、たくさんの民衆が群がっていた。
「てっきりお前がここにいるもんだから、彼女のことを知ってると思っていたんだが」
「あの真ん中のやつか? いんや、全く知らねえ。たまたま見てただけだ。かわいそうなやつがいるなあって」
「かわいそう、か。彼女のことをそう評するのは、たぶんお前だけなんだろうな、リンドウ」
そう小さく笑いながらに、ギルドマスターは言葉を続ける。
「その、かわいそうなやつ。そいつが、今回の依頼者だ」
「…………へぇ」
普段は別に、依頼の内容であるとか依頼者がどんなやつなのか、ということには興味がないのだけれども。
少しだけ。ほんの、少しだけ。興味が湧いた。




