#25
「とりあえず逃げるぞ!」
繋いだアカネの手を引きながらに、俺は森の中を走り始める。
こちらに気取られているということを察知したのだろう、音を立てずに近づいてきていた先程までとは打って変わって、勢いよく近づいてくる。
「ちなみにアカネ、聞いておくが。今こっちに近づいてきているやつらとは交戦しても大丈夫なのか!?」
「ふむ、それは勝てるか、ということかい?」
「それもなくはないが。どちらかというと、宗教的な問題だ」
いちおうはここは聖域であり、かつ、追いかけてきているのは聖域に住み着いている存在である。これで手出しをして、あとからそいつらを斃すのは罪であるとか、聖域で戦闘行為をすること自体が問題である、なんて言われようものならやってられない。
……まあ、諸々を天秤にかける必要がある都合、たとえ宗教的に問題がある行為であったとしても、最悪の場合は攻撃を仕掛けることにはなるが。
「正教会としては、特段そういうことを取り決めてはいないはずだよ。そもそも、罰則があったとしても正教会としては確かめようがないし。そもそも、誰がやるのか、という話だ」
「……ああ、そういえばここは聖女しか入れないんだったな」
それならば。たしかに大前提として罰則のしようがないし、する理由もない。
聖域には聖女しか入れないのだから、聖女にしか事は起こせず、事を確かめることもできない。
それゆえ、いちおうは聖女が斃して別の聖女が報告ということもできなくはないが。
しかしそうすると必然的に聖女が罪を背負うこととなり、正教会としては外聞が悪い。
ならば、最初からそんな罪状など出来上がらないようにしておいたほうが都合がいい。
……まあ、そもそも話を聞く限りでは、聖女が入ってきた場合には、こうして敵意を見せてくることもないらしいので、戦う理由もないのだろうけれど。
「やつら――私たちは聖霊と呼んでいるが、彼らは私たち聖女の修行を手伝ってくれる存在だ」
「…………それ、本当に戦っても大丈夫なやつなのか」
パッと聞く限りでは、俺はともかく、少なくともアカネは敵対するべき相手ではない気がするのだけれども。
しかし、そんな俺の心配を気にする素振りは一切見せず、あっけらかんとした様子で「大丈夫だよ」と。
「そもそも私は、どうやら聖霊たちに好ましく思われていないようだからね。今更というお話ではある」
「……それ、大丈夫ではないんじゃないのか?」
聖女の修行の手伝いをしてくれる存在から疎まれてるって、それはそれでどうなんだ、という話である。
というか、今回こうして追われている現状は、ただでさえ嫌われ気味のアカネが来たところに、なぜか聖女じゃないはずの俺が併せて侵入してきているから、殊更過剰な警戒をされているから、なのでは。
あるいは、俺の侵入を、鬱憤晴らしの大義として掲げる都合のいい存在として扱われているだけな気もする。
……考えていたら、頭が痛くなりそうだ。
「ともかく、問題はないよ。戦うこと自体にはね。ただ、オススメはしないかな」
なるほど。アカネがあえてこう言ってくる、ということは本当に避けるべきだろう。
面白がって戦うべきでない相手に戦っても大丈夫だ、ということはあるかもしれないが。わざわざ戦闘の回避の進言を冗談でやる理由がない。
「強いのか?」
「んー、強くはない、かな。多分。私自身、直接に対峙したことはないから、そのあたり正確にはわからない」
嫌われていたとはいえ、曲がりなりにも聖女。
聖女に対しては協力的だという聖霊とアカネがわざわざ対峙する理由もないために、その詳細がわからないことは当然と言える。
「単純な戦闘能力っていうだけなら、間違いなく私やリンドウの方が圧倒的に強い。特に聖霊は直接の攻撃手段をほとんど持たない」
曰く、体格の差などもあり。それこそ子供の殴る蹴るとは大差がないレベルになるとのことだった。……なるほど、たしかにそれならば致命になることはほぼないだろう。
――だが、
「でも、君なら十二分に理解していることだろうけれど、戦闘は必ずしも、強いほうが勝つとは限らない」
その場その場で発生するイレギュラー、戦闘における駆け引き、相性、運。常時目まぐるしく変貌していく戦場と様々な要素を、より正確に把握し、利用して。そのうえで、互いの実力がぶつかる。
それこそ、以前に相対した冥府の主。やつの強さは俺なんかよりも圧倒的に上。最終的にはシラギクとの協力の素で斃すことに成功したが。仮に俺の実力とシラギクの実力を合算しても、まだ冥府の主には届かないだろう。
それなのに俺たちが勝てたのは、冥府の主の中に常時焦りという感情があったということや、シラギクの相性や閃光弾の機転など、そういった要素までもが複合的に合わさったがゆえの結果だった。
そして、同じことが、今回は立場を逆にして起ころうとしている、と。アカネはそう言っている。
聖霊の戦闘能力は高くない。それこそ、俺やアカネが単独で相対しても撃破が容易である程度だという。
だが、それだけでは、決着はつかない。
「そうだね。具体的な例をひとつあげるとするならば。ここ聖域は、聖女以外が入れない、と。そう言ったね」
「……ああ、なぜか俺は入れてるけどな」
「やはり愛の力は偉大だね!」
「ふざけてないで真面目に言え!」
いちおうは敵から逃げている最中なのだ。ただでさえアカネは身体が幼くなってしまっている……いや、勝手に幼くなりやがったのだが、その都合で少々足元がおぼつかなくなっております、かつ、相対的に木の根なども大きくなってしまっているために躓きやすくなっている。
ふざけたことを言っているような余裕がある場面ではない。
「この聖域を覆い、聖女以外を拒んているその結界。それを維持し、管理している存在が聖霊だよ。それ以外にもしているけどね」
「……なるほどな」
それならば、たしかになおさら、戦闘能力のみで勝敗をはかるべきではないだろう。
ここの結界がどのような仕組みで働いているのかがわからないが。物理的な防御として作用しているのか。あるいは精神や認識に干渉して、当人の意識外のうちにそのまま外に出るように仕向けているのか。
高防御か、あるいは、搦手。どちらにせよ、たしかに厄介である。
「たしかに、接敵しないに越したことはない」
幸い、聖霊たちとは距離がある。かつ、こちらのほうが移動速度も少しではあるが速い。
単純な追いかけっこであれば、こちらのほうが優勢だ。
気をつけるべくは――、
「なんだい、リンドウ。こっちを見て」
「なんでもねえよ。そんなことよりこっちなんか見ずに前を見とけ。絶対に転んだりするんじゃないぞ」
追いかけられている最中に足を止めることがあれば、一気に不利に転じかねない。
身体が小さくなっているアカネが転ばないように、というのは、小さなことではあるが、同時に重要な事項であったりする。
しばらくの逃走の後に、なんとかひとまずは振り切ることができたようだった。
とはいっても、ここは聖霊たちにとって慣れ親しんだ庭である。そう長く安心してはいられないはずだ。
ひとまず軽く息を整えながらに現状の把握を、と。そう思っていた俺の前では、依然として元気そうな様子のアカネが居た。
子供の体躯にしてはかなり強引なな走り方を強要させたはずだが、その有り余っているように見える体力はどこから沸き上がってきているのやら。
……まあ、嫌な結論づけをするならば、彼女がアカネという人物であり、聖女であるがゆえという答えであれば、出せはするのだが。
「しかし、逃走に集中していたせいで現在位置が少しあやふやになっちまったな」
森の中という方向感覚を喪失しやすい場所ではあるので、もちろん羅針盤は持ち込んではいるが。しかし、大急ぎで逃げている最中に方角など確認できるわけもなく。
「まあ、大雑把な向きはわかりはするから。無いよりかはずっとマシなんだがな」
懐中に入れていた羅針盤を取り出すと、蓋を開けて方角を確認。……走ってきた向きを考えると、やはり、アカネと合流するまでに歩いてきた道から少しズレてしまっているようだった。
とはいえ、元の道へと戻ろうとすると再び聖霊と鉢合わせてしまいかねない。
詳細が不明な方向へと進む必要が出てくるが。しかし、致し方ないだろう。
幸いというべくか、聖域は大きな括りで見れば円形の形をした範囲がそう呼ばれているため、方角を違えたとしても、距離は変われども、外には出られる。
なんとか聖霊から逃げ切りつつ、聖域から脱出すれば、任務達成となるだろう。
「……とはいえ、なにはともあれ、補給は必須か」
カバンから携帯食料と水を取り出すと、半分をアカネに差し出す。
その意図をわからなかったわけでもないだろうに。しかし、彼女は微妙そうな表情のみを浮かべる。
「なんだ。腹が減らないわけでもないだろうに」
「いや、それ、まずいでしょう?」
「食えないほどじゃないし、栄養価的には優秀なんだぞ?」
味は決して優秀とは言えないが。
「いや、私はいいよ。別に食べなくても大丈夫だし」
「いや、いくら無尽蔵な体力があるように見えるからって――」
「私を誰だと思ってるの?」
言葉を遮るようにして、アカネが自信満々にそう言ってくる。
それを言われてしまっては、もう、なにも言い返せなくなるん。それこそ、俺たちからすれば理外の方法で栄養補給ができるとか言われてしまいかねないし。
しかし、その言い分が通用するのが、聖女であり。そして、アカネという人物であった。
まあ、食べなくていいのなら、それはそれで。俺の分の食料に余裕ができるわけだから、構わない、と。そう、思いかけて。
「……いや、やっぱり食っておけ」
受け取りを拒否するアカネに対して。それでも俺は携帯食料を渡した。
露骨に嫌そうな顔をするアカネ。現在の彼女の見目も合わさって、まるで子供のように見える。
普段の、民衆の前に立っているアカネからしてみれば、似ても似つかない様子だ。
「たとえ食わないで生きていけるとしても、お前は人間だ。食べることをやめるべきじゃない」
「ふぅん。……まあ、それなら食べるとするよ」
そう言いながら、アカネは口の中に携帯食料を放り込むと。程なくして、その表情を歪ませる。
そして、すぐさま水で口の中の内容物を腹の中に流し込むと、やっぱりまずい、と。
「私にも、飴のひとつでもくれてもいいと思うんだけどね」
「あいにくそんな都合よく持ち合わせてはいないからな」
おそらくは、わかっていて言っている。それでいて、シラギクとの扱いの違いについてを議題にイジってくるつもりなのだろう。
「せっかく以前飴をあげたというのにね。おいしい、飴を」
「残ってたやつも全部シラギクにあげたからな」
随分といたく気に入っていた様子で、送りの霊穴から脱出してひとしきり事が落ち着いた頃合いに、彼女に残っていた飴を全部渡した。
「しかし、そこまでおいしいを強調するとは。そこまでいい飴だったのか、アレ」
「……その口振りだと、まさか、一個も食べなかったの?」
そう言ってくるアカネに、俺は首肯で答える。
送りの霊穴の中にいる間は貴重なシラギクの精神安定剤だっただけに下手に俺が減らすわけには行かなかったし、脱出してからは飴を気に入ったシラギクにあげたわけだから、当然ひとつも食べていない、と。そこまで考えかけて。
たしかに、貰い物にひとつも手を付けずに全部を他人にあげたとなると、少し体裁は良くないか。
「……悪い。今度、買っておく」
「いいわよ。……リンドウが思っていたとおり、送りの霊穴の中で必要になると思ったから、カバンの中に押し込んだだけだから」
使途としては意図したとおりで、正しい、と。アカネはため息混じりにそうつぶやいていた。
そう。使途としては。……アカネとしては、ひとつくらいは俺も食べるだろうと思っていたのだろう。
「ったく、人にキチンと食べておけと言いながらにまっずい携帯食料を食べさせるくせに。自分は味に頓着しないなんて、はたして人に説教できるたちなのかしら」
「それ、は……」
たしかに、絶妙に否定しづらい。常食にしないためにと意図的にまずく作られているとの携帯食料を、手頃だからという理由で忙しい頃には常食にしているからこそ、なんとも言い返しにくい。
食事をとってはいるが、食事を楽しんでいる、とは言い難いだろう。
「あ、そうだ。リンドウ。私、欲しいものがあるんだけど」
「……だから、食料は携帯食料以外にないって言ってるだろ」
「大丈夫大丈夫。欲しいのは子種だから」
「おい、文脈どこに行きやがった」
今の話の流れでする会話じゃあないだろう。
俺は大きくため息をつくと「食べ終わったのなら、さっさと再出発するぞ」と。
聖霊たちから距離を離せたとはいえ、いつまた見つかるかはわからない。
早くに聖域から抜け出すためにも、行動は早めていくべきだろう。
「それじゃあ、はい」
スッと、手を平をこちらに差し向けてくるアカネ。
「なんだ、その手」
「おや、忘れたとは言わせないよ? 転ばないように、と繋いでいてくれたじゃあないか」
「…………」
そういえば、そんなことをしていたな、と。
いくらか躊躇われるが。しかし、これでアカネが素直に付き従ってくれるのなら、安いものではある、と。
少々無理やりに自身を説得させると、彼女の手を取り、移動を再開した。




