旅の途中、時々獣
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体力には自信のある私も、ここまで歩き続けるのは初めてだった。歌姫の血を継ぐものとして人間離れした、言ってしまえば化け物並みの体力と力を誇るルカお兄様も精神的に疲れてしまっているようで、太陽がちょうど真上を通過する頃、私たちは初めてゆっくりとした休息を取ることにした。
「………」
運良く倒れていた木に隣同士で座って、沈黙を過ごす。
「……エリザベス、お腹は減ってないか?」
靴だけは履いているものの、姿は寝巻きのまま。家を出る時に廊下に置いていたラックからルカお兄様が咄嗟にコートを取ったから良かったものの、それすらなかったら凍え死んでいるところだった。
今は昼だからいいけれど、夜になったらどうなることか。
昨晩は出くわしていないけれど、今晩は森に潜む獣に会うかもしれない。そう思うと背筋が凍る気がした。
「大丈夫よ、ルカお兄様」
覇気のない声で答えても、嘘だということはバレバレだった。ルカお兄様は渋い顔をして考え込むと、立ち上がって言った。
「少し辺りを見てくる。使えるものや食べられるものがあるかもしれない。エリザベスはここにいてくれ」
本音を言えば、一人にはなりたくなかった。けれど、私だって本好きで、冒険の方法はある程度心得ているつもりだ。
探索は絶対に欠かせないもの。食べ物だけでなく、周囲に人がいるのかどうか、獣の巣はないか。そういったことを怠った人間から死んでしまう。
「うん、分かったわ」
幸い、ルカお兄様は剣を持っている。
軍に迫られた時に反撃のため殺した兵士から奪った剣を、どさくさに紛れてそのまま持ってきたのだった。
美しく磨かれた銀の剣は、クレイモアという種類のものだ。
近年使われ始めたサーベルのような剣で、我が国の軍が使うそれはとにかく鋭い。レイピアのような切れ味を持っていながらも、クレイモア、大きな剣という名の通り、レイピアより重いため貫くというよりは斬るということに向いている。今のところ、クレイモアが究極の片手剣の地位を保持しているといっても過言ではないだろう。
それを歌姫の家の男が振るうのだから、性能は本来の五倍あると言える。
ルカお兄様はちらりとこちらを振り返りながらも、スタスタとその場を離れていく。
黒色の大きくて分厚い、裏側に短い毛の付いている冬にぴったりのコートを羽織ったその姿は熊のよう。その背中は大きくて頼もしくて、今、一人じゃなくて良かったって心から思える。
「ルカお兄様がいれば、まだ、大丈夫よ」
私一人になったわけじゃない。平気。ルカお兄様は最強だから。母様も父様もマリアも、みんな死んでしまったけれど、まだ私とルカお兄様がいる。
フレイ家は、死んでいない。続いている。ここに在る。
「何がなんでも生き残って、フォード家とパラミア王家を倒すんだわ」
どうやって倒すのか。そんなことは、分からない。何も想像が付かないのだ。家族が死んだことだって、今こうして寒い中旅をしていることだって、夢だったら良いのにって思うくらい、現実味がない。涙さえ枯れたかのようにもう出てきてくれない。
「本当に苦しい時って、涙すら出ないのね」
──感情が限界を迎えて、機能を停止したみたいだわ。
そのまま、ルカお兄様が来るまでぼうっと過ごした。
辺りには草木しかないし、太陽は皮肉にも眩しいし。
やることも出来ることもない。
「ルカお兄様みたいに戦えたら良かったのに……」
そこで、ニャア、とルナが鳴いた。
黒い毛を逆立てて、威嚇でもしているみたいだ。
「どうしたの? ルナ」
私から離れるようにして器用に後ろに下がっていくのを見て、様子が変だと気がついた。
もしかしたら、獣でもいるのかしら。
そう思い至った時にはもう遅くて、後ろに、そう、私の後ろに、大きな大きな熊がいた。
茶色のような、黒色のような、曖昧な毛の色をしたその熊は二メートル近い背丈だ。
そうして長い爪を見た時、気がついた。
今、自分が椅子にしているこの丸太。
「切り倒したのは、熊だわ……」
わなわなと震えるしかなくて、とりあえずルナを守るようにして立ち塞がってみる。
「あ、え、っと、どうし、よう、そうだ、ルカ、お兄様、呼ばないと、あ、でも、叫んじゃだめ? かな?」
シャーッ!とルナが言うたびに熊がグワァアー!!と倍の声量で返してくるもんだから、私の心臓が止まってしまいそう。
「ちょっとルナ! 静かにしてよ!」
こんなところでこんな死に方したら母様と父様に怒られちゃう! マリアに笑われちゃう!
ついに限界になって、やや大きな声でルナに叫んでしまった。
あ、やばい、どうしよう。
そう思って恐る恐るルナから視線を外して熊に向き直ってみる。が、いつまで経っても襲っては来ない。それどころか首を傾げるみたいにして動きながら低く、ぐうぅ?と唸っている。
「何かしら…?」
またしても熊はグアァ?となんとも言えない間抜けな声を上げる。こうしていると、ちょっと大きい犬みたいで可愛い。
そして冷静になってすぐに気がついた。
「私の声だわ」
歌姫の声は、ただ話すだけでもやっぱり独特な美しさを維持している。隠しても隠せない才能の氾濫のようなもので、それが今、熊に効いていた。
「こうなったら、モノは試しだわ」
母様のような《聖女》にはまだなれていないから、訓練された動物や気性の荒い獣に効果があったことは少ない。
でもやってみる価値はあると思った。
声を張り上げて、怖がる心を殺した。
大丈夫、熊にだって心はあるわ。
「遥か彼方、溢れる涙
今は遠き、薄れる夢
願いはいつも、暮れては消えて」
タイミングの問題だろうか。
いつもとは打って変わって、悲しい歌を歌っているのは。
「君はいつか、全て忘れて
そして私は、全て背負って」
胸の前に片手を置いて速まる鼓動を抑える。それでも、当主であった母様が死んで初めて歌う歌だからか、緊張していた。フレイ家唯一の《聖女》となってしまった私が、無様な歌を歌ってはならない。そう己を鼓舞して、もう片方の手で杖を強く握りしめた。
「灼熱の記憶に踊る
白夜の世界に眠る」
気のせいかもしれないけれど、杖の先にあるダイヤモンドの水晶がくるりと輝きを描いたように見えた。
「灼熱の記憶を歌う
眠れる君に届くよう」
始まりの《聖女》が歌ったとされる、歴史ある歌の一部だ。
誰が作詞したのか、誰が作曲したのか、どの地域の曲なのか。何も分からない。名前すら誰も知らないのだ。
何故だか、始まりの《聖女》はこの名もない悲しい歌を最初に歌った。その理由は分からない。なにしろ古すぎるのだ。歴史が遠くて、確かなことは少ない。ただこの歌は《聖女》が最初に覚えるべき歌として残り続けている。
いつもの私ならば、この曲は歌わない。
私はいつも楽しい人生だったから、悲しみを伝播させるためにこんな曲を歌うこともなかったのだ。
「業火と共に安らかに、
眠れるように」
歌い終えて熊のことを思い出して見れば、すっかり地面に横になっていた。それも、お腹を上にして危機感無く。
幸せそうな顔だった。私の歌は成功したのだ。
正直、今どんな感情で歌ったのか自分ですら分からなかったから、逆に熊が怒るのではないかと心配だった。
でも、うぁぁ、と力なく吠えているのを見るに杞憂だったようだ。
ついでに言えば、ルナも熊の隣で仲良くごろんとしている。
「おい! 大丈夫か!?」
歌声と熊の声を聞きつけて大慌てでルカお兄様が戻って来た。
「平気よ」
「そうか、なら良かった、が、これは、一体……熊、だよな……?」
その時のルカお兄様の顔は、見たことないくらいに驚愕に染まっていた。