ランチは隣同士で
9 ランチは隣同士で
サガとれもんが海に着いた頃、北は一人で店を開けた。今日は一人で店を回さなければならないのだが、こんな日に限って開店から客が途切れない。レジに客が並ぶタイミングも、なぜか重なる。午前中はてんやわんやで仕事をこなしていたが、昼食時のピークが過ぎると、少し客足が途絶えた。
自分用に淹れたコーヒーを、カウンターの中で飲もうと、椅子に腰かけるとドアが開いた。
やれやれ、と思いながら接客用の笑顔をつくり
「いらしゃいませ。何名様ですか」
と言う。
客は恩田華子だった。北はすぐにわかった。高校を卒業してからもう、十二年ほど月日は流れていたが、恩田さんはまったく変わっていない、と北は思った。
「藤野サガ君、今日お休みですか。わたし彼の知り合いなんです」
カウンターに腰かけながら、北をまっすぐに見つめ、華子は言った。コーヒーひとつお願いします、とも言った。
「かしこまりました」
まさか、彼女は気づいていないのだろうか。一応同じクラスになったこともあるのに。平静を保ちながら、北はどのタイミングで打ち明けようかと思案した。
水族館は家族連れで混んでいた。小さな子供の泣き声、笑い声、なぜか歩くとキュウと鳴く靴音などで満ちていた。
サガとれもんはさほど魚に興味が無かったが、ひとつひとつの水槽を丁寧に眺めていった。
「うろこがキラキラしているね」
とサガが言い、
「これは鰯。塩焼きにするとおいしい」
とれもんが答えた。
「小さな斑点があるよ」
とサガが言い、
「鱒だって。鮭に似ている味がする」
とれもんが答える。
不意にれもんが立ち止り、だめだ、と声をあげた。
「水族館で食べたら美味しい、とかそんな話する人いないよね。どうしてもスーパーで並べられている魚と、結びつけちゃうみたい」
ごめん、とサガに謝った。サガは
「食べられそうにない魚見てみよっか?」
と近くにあったクラゲの水槽にれもんを連れていった。
クラゲはミズクラゲという種類で、水槽に無数にいた。水槽はライトアップの色が、時間ごとに変わるようで、れもんとサガが見ている間にも赤、オレンジ、黄色、緑と色を変えていた。
クラゲは、命がそこにあるとは思えないほど、透きとおっていた。水の流れがあるのか、ゆっくりと上下にいったりきたりを繰り返している。
クラゲになりたい、とふとれもんは思った。クラゲにもクラゲなりに悩みがあるのかもしれないが、れもんから見ると、クラゲは、人間の悩みからほど遠いところにいる生き物に見えた。ふわふわ泳ぐ姿は神々しかった。
水族館を出た後、芝生が広がる広場で昼食にした。海岸から少し高い位置にあるせいか、海が眺められる。
「温かい麦茶と、コーヒー、どっち飲む?」
れもんが弁当とともに二本の魔法瓶を取り出し、サガに聞く。
「お弁当と一緒に麦茶飲んで、食後にコーヒー貰おうかな」
とサガは答えた。
二人でプラスチックのカップに注がれた、麦茶を飲む。あったけーと、温かいと、それぞれサガとれもんが呟いた声が重なった。
弁当の中身は卵焼き、甘辛いたれのかかった唐揚げ、アスパラベーコン、プチトマトとサラダ、それにおにぎりが三種類だった。鮭のと、ツナマヨと、枝豆とゆかりを混ぜたもの。
サガはものも言わず、弁当を食べた。三種類のおにぎりも、きちんと一個ずつ三つ食べた。いつも母と一緒の食卓では、美味しいを連呼するサガが、無言で食べていることが、れもんには嬉しかった。
弁当を食べ終えると、先ほどのカップに熱いコーヒーを注ぎ、二人で飲んだ。
「れもんが朝淹れたの?これ」
サガは一口飲んで、ほっと息を吐き、訊ねる。
「そうだよ」
「美味しい。俺が淹れるよりずっと美味しい」
サガはグランパでコーヒーを淹れる練習をし始めたことを話し始めた。
「北さんが淹れるのと、俺が淹れるの、コーヒー豆の量も、お湯の量も、温度も、変わらないはずなのに、全然味が違って毎回驚くよ」
もちろん北さんのが、美味しいんだけどね、とサガは言う。
「いつまでたっても上手くなんないの。何が違うんだろうな」
れもんは少し考えて、答えた。
「わたしもお母さんが淹れたコーヒーの方が美味しいと思う」
「そうなの?」
「コーヒーって、人が淹れてくれたものの方が美味しいって感じるんだって。だからサガのコーヒーも誰かが飲んだら美味しいって思うんじゃない?」
今度飲ませてよ、とれもんはサガの方を見ずに、海を見つめながら言った。
サガはずっと思っていたことを言った。
「れもんは優しいね」
きょとんとした顔で、サガの方に振り向く。
「優しい?わたしが?」
「うん。れもんは優しい」
どちらかといえば、他人にも自分にも厳しい方だとれもんは思う。掃除を怠ける同級生には、心の中で悪態をつく。
「全然優しい人間じゃないよ、わたし」
「そういうところが優しいんだって」
まったく釈然としないまま、れもんはサガと、海を見ながらコーヒーをすすった。午前中は晴れていた空は、少し雲が厚くなっている。
「サガとはどういう知り合いなんですか」
北は不自然な話題でもないだろうと、コーヒーを頼んだ華子にカウンターから話しかけた。
「わたしのいとこが高校生なんだけど、その子の知り合い、というか友達なんですよ。サガ君。日曜はお休みなんですね」
あのおさげ髪の女の子か、と北は思った。
「サガ君、お仕事がんばってます?一回しか会ったことはないけど、あの子なんか気になるというか、ほっておけないというか」
「頑張ってますよ。まあ器用なタイプではないけど、人好きのするたちだから」
北はもやもやしていた。自分の知らないところで、華子と知り合いにサガが知り合っていたことや、話をしても全然自分に気がつかない華子に対して。
「ところで、その女の子って西高校ですか」
北はさりげない流れで、華子に同級生であることを気がつかせようとした。
「ええ、わたしと同じ」
「僕も西高です」
「そうなんですか!」
どうだと、北は黒縁眼鏡を外した。高校時代北は眼鏡をかけていなかった。
「…思い出せない?二年のとき同じクラスだった北雄一。剣道部だった」
あっと華子の目が見開いた。
「北君…?浜島君たちと仲良かった…」
「そう!浜島!」
あーとか、えーとか大きな声を出し、テーブル席の客がちょっとこっちを見た。
「わー、割と近くで働いてたんだね。わたしの実家がこのへんで。知ってる?」
「知ってるよ。恩田古書店でしょ」
当時華子は派手でもなく、地味でもないクラスのグループにいた。笑顔で明るいが、我が強くなく、男女問わず好かれていた。クラスの男子で、いいなと思う女子の名前をあげるとき二番目あたりに名前が出てくるのが
華子だった。
ひそかに華子と親しくなろうと、恩田古書店に行く男子も少なくなかった。北もその一人だった。だが娘の身を案じたのか、当時店番に華子がいることはなく、大体頑固そうな華子の父がむっつりと店にいた。
「仕事は、今何してるの?」
「製薬会社の事務だよ。北君はずっとこの店で働いてたの?」
「いや、こっちに戻ってきたのは一年くらい前。俺この店の店主」
「すごーい」
華子が両手を組むような形であわせた。北はその左手に指輪がはめられていないことをさりげなくチェックした。
「長居するつもりなかったけど、もう少しいてもいい?同級生とばったり会うなんて最近なかったからさ」
「もちろん、あ、いらっしゃいませ」
北は入ってきた客の対応をするため、カウンターから水を運ぶ。自分の背中に、華子の視線が注がれているのを誇らしく感じながら、客の注文をとった。