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レモネード  作者: 蟻田みな
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誰にでも秘密がある

2 誰にでも秘密がある

 サガが引っ越してきてから二週間ほどたった。あれから日雇いのアルバイトをしているらしい。

 サガは相変わらず色は白く、唇は赤い。線の細い体つきに似合わず、手には傷やタコができていた。

 今そのタコのある右手で箸を持ち、筑前煮を食べている。もちろん自分で作ったものではない。作った人ははれもんだ。

 「檸檬」の一件の後、サガはたびたび水口家で夕食をともにするようになった。学校帰りのれもんに誘われることもあれば、れもんの母の香子に誘われることもある。毎日の日銭にすら困るサガにはとてもありがたいことだった。

 今日は香子、れもん、サガの三人が揃っている。一人増えただけでちゃぶ台の上には隙間がなく、おかずが並べられる。

 「ご飯が終わったら、ブドウがあるから二人でおあがんなさい」

 香子が早々に夕食を済ませ、席を立つ。食器洗いは僕がやります、というサガを制して香子はもう洗い始めている。

 「お母さんは食べないの?」

 れもんが訊ねる。香子はいつだって自分に遠慮しているように見える。

 「職場でいただいたから、いいのよ」

 香子はこれから夜勤だ。働いている病院ではまだ小さい子を持つ看護師が多いから、夜勤に入れる人は少なく、代わりに香子が引き受ける。

 じゃあ、二人とも戸締り気を付けてね、と言って母は今日も仕事に行く。

 「夜勤、もう少し減らしてくれればいいのに…」

 れもんが食器を洗いながら一人ごちる。敬語禁止、とサガが言うのに最初は慣れなかったが、ようやく普通に話せるようになってきた。

 「お母さんのこといつも心配してるね。れもんは」

 ふと気が付くと横にサガがいて、洗った食器を拭いている。人に対しての境界線をひらりと飛び越えるサガは、れもんの名前を知って以来、何の気負いも下心もなくさらりとその名を呼んでいる。

 実はれもんはいまだサガとは呼んでいない。サガ君と呼ぶのは、れもんより年上のせいもあり、抵抗がある。サガさんと呼ぶのはなぜか甘い心地がして、恥ずかしい。

 あの、とかちょっと、とかでしか呼び止められない。サガがれもんと呼ぶように、自然に呼べる日がくるのか。たまにれもんは考える。

 食器洗いを終えると、ちゃぶ台の真ん中にブドウを置き、二人で食べた。

 サガの細く白い指に、ブドウの紫が似合う。

 「おいしい?」

 「ものすごく。日本は果物が美味しい」

 サガはどんな食べ物でもとてもおいしそうに食べる。行儀がいいとか、そういう訳ではなく、ただ食べたときの表情が幸せそうで、それもわざとらしくない。

 しかし、れもんには気になることがあった。

サガは決して小食ではなく、むしろ女のれもんや香子より、はるかに多い量を食べるのだが、以前より痩せたように見えるのだ。

 実はれもんや香子が夕食に誘う理由はそれだった。時に病的に見えるほど、サガは痩せて見える。 

 「わたしの分も食べてください」

 ブドウの入った白い皿を、サガの方に押しやる。

 「また敬語でた。どうして?ブドウ嫌い?」

 人懐こい笑顔でサガは押しやられた皿を、れもんの方に戻す。

 「…ちょっと痩せたように見える」

 気にしているかと思い、今までは言わなかったことをれもんは初めて口に出した。思わず小声になってしまう。うつむき加減で言い終え、顔をあげてみると、向かいには何とも言えないような、寂しそうな、怒っているようなサガがいた。

 「日雇いの仕事、きついから」

 表情を少し緩めて、苦笑いの表情でサガは言う。心配しないでよー、とちょっとおどけた調子で続ける。

 男のほうが嘘をつくのがうまいと、れもんは思っている。嘘をつくときの男の顔を、れもんは知っている。小学4年生のとき、父から教わった。サガはそのときの父の顔をしていた。

 嘘をつかれるのは悲しい。嘘をつかなければならない相手の境遇を可哀そうだと思い、嘘をつかれた自分をみじめに感じる。

 「それならもっと食べないと」

 一番いい方法は、嘘を見なかったことにすることだ。つかれた嘘を、嘘だと思わず、本当のことにしてしまう。目の前にいる少年は日雇いの仕事でへとへとで、食べても食べても太らない。

 ただ目の前の人が言うことを、真実だと思わなければ。

 「じゃあ、食べちゃうよ」 

 サガはいつもの調子で笑って、ブドウをつまむ。

 世の中にどのくらいの嘘が溢れていて、その嘘に傷つけられる人たちがいるのか。れもんには見当もつかなかったが、幸せな嘘だけが本当になればいいのに、と思った。

 *

 サガとの交流がれもんの学校生活に特別変化をもたらしたか、というとそんなことはない。

 相変わらず、お昼は一人で弁当を食べ、休み時間は図書館にいる。

 ただ学校で過ごす時間の大半を、サガとの夕飯について考えるようになった。不思議と前よりも授業の時間は短く、学校が早く終わるように感じる。

 これでいいのかという気持ちと戸惑い、サガと出会って以前より朝が憂鬱ではなくなった。

 久しぶりに華子に会いたいと、れもんは思った。華子に会いに、恩田古書店に今日は寄って帰ろう。

 昼休みの予鈴がなり、廊下を歩いている途中、大きな姿見がありれもんの姿が映った。

 前髪が少しの伸びている、頬のあたりにニキビが一つある。今週は美容室に行き、ドラッグストアにも寄ろう。

 *

 今日の夕暮れは赤く、紫がかって町を染めている。港でコンテナを下す日雇い仕事から、サガは帰る途中だった。

 髪の毛は少し伸び、耳にかかるほどになっている。Tシャツの上に、固めの素材でできたカーキ色のジャケットを羽織り、首にタオルをかけている。

 サガは一人で町を歩いていると、今自分がどんな顔をしているのかが、無性に気になるようになった。鋭い目つきをしていないか、人間の顔をしているか。

 れもんや香子と夕食をともにするようになってから、だんだん自分がこの町から離れられなくなっていると感じる。

 アパートに帰ると、れもんはまだ帰っていないようだった。昨日言われた一言が、まだサガには引っかかっている。

 痩せすぎていることは自分でもよくわかっていた。なぜなら必要な栄養をとれていないから。

 サガは食器棚の奥にしまいこんでいる、母の形見の空き瓶を取り出した。

 見るたびに自分が母にしてしまったことを思い出し、やるせない気持ちになる。

 こんな気持ちでれもんには会えない、とサガは思い、アパートのドアに貼り紙をして外に出た。


 グランパはほどほどの混みようだった。この店でナポリタンを食べた日から、気が向くとここに来る。

 店長の名前が北雄一、ということも通ううちに知り、今では北さん、サガ、と呼び合うほどに親しくなった。

 「北さん、こんばんは」

 サガが座るのはカウンターの左から二番目、店奥にあるトイレに近い場所だ。もっと夜が深くなると、グランパには近くの飲食店で働いている人たちがやって来る。店長の北がもともとバーテンダーだったせいもあり、昼間より夜の方が繁盛していた。

 「サガ、ちょっとすぐ食べ物だせないかも。悪いな」

 「大丈夫。何か手伝いますよ」

 北が忙しいとき、サガは店を手伝う。もっともサガに出来ることと言えば、たまっている食器を洗ったり、おつまみを客に出したりするなど簡単なことだけだ。

 それでもサガが持っていくと、大体の客、特に女性客は喜ぶ。年配の女性に人気があり、それをわかっている北は飲み物の注文をわざと取りに行かせたりする。

 「本当に芸能人にでもなればいいのにねぇ」

 客が少し引け、サガにナポリタンが出されると、北がカウンターの中から話しかけてきた。片手にはウイスキーが入ったグラスが握られている。

 「売れるかなあ」

 サガは苦笑した。

 「なんていうか、華がある。何かそばに人が自然と集まるような。そういう華がお前にはあるよ」

 北は二十歳の時から、夜の世界にいるせいか、サガのような人間をたびたび見てきた。

 「にしても、最近痩せすぎじゃねえの?どっか悪いのか」

 「…仕事、体力使うから」

 胸に漬物石を落されたように、サガの気持ちが沈む。人と関わるということは、秘密をいつまでも秘密にしておけないという代償を伴う。

 もう少し、オレンジ色のランプが灯るこの店にいて、北と話したいと思ったが、ナポリタンを食べ終わると、サガは店を後にした。

 *

 れもんは風呂から上がると、ニキビに効く化粧水を手に取り、顔につけた。

 鏡に映ったれもんの顔は、長く風呂に入りすぎたせいか、赤く火照っている。

 今日はサガに会っていない。

(外で食べるので、夕食はいいです)

という貼り紙がアパートのドアに貼ってあり、こちらが誘っていないのに、わざわざ書置きを残したサガをずうずうしいと思い、ただ書置きがなければ今日もサガの夕食を用意していたであろう自分にいらいらした。

外でガチャリとカギを回す音がして、すぐにばたんとドアが閉まる音がした。サガが帰ってきたのだ。

古いアパートの壁は薄く、冷蔵庫をばたんと閉じる音も聞こえる。あちらの音が聞こえるということは、こちらの音も聞こえるということで、れもんは部屋で聞いていたラジオの音量を少し絞る。

れもんは自室のざらざらとした砂壁に耳をつけてみる。こんなことをしている自分をやましく感じるが、昨日のサガを見ているとそうせずにはいられなかった。

サガは突然ここにやって来たように、突然いなくなるような気がする。

砂壁はひんやりとしていて、熱く火照った頬が冷やされた。れもんは気持ちよさに目を閉じた。

翌日、れもんは学校帰りに恩田古書店に寄った。前日に寄ったときは平日だったこともあり、店番は叔父がしていた。店の上に恩田家の住まいがあるのだが、そちらにも華子はまだ帰っていなかった。

結局れもんは携帯電話を持っていないので、叔父に明日行くことを言づけて、帰ってきたのだった。

「いらっしゃい、れもんちゃん。昨日ごめんね」

「急に来たわたしが悪いから」

久しぶりに会う華子は、少し日に焼けていた。

「沖縄行ってきた?日に焼けたね」

れもんが何気なく聞いてみると、華子はちょっと表情を曇らせた。

「ううん、これは職場の人とのテニス焼け。あの人最近忙しいんだってー」

れもんは話題をかえよう、と思った。こういうとき自分に恋愛経験があれば、もっと話題を膨らませて華子の相談相手になれるかもしれない。れもんにとってまだ恋とは読むもので、するものでも、落ちるものでもなかった。

「駅前のケーキ屋で、クッキー買ってきたんだけど、食べない?」

華子は店番を父に任せ、れもんと二階に上がった。

「お父さんね、なんでうちの娘はれもんちゃんみたいに本を読まないのかね、ってよく言ってるよ。あんなに本が好きならうちの子になればいいのにーって」

れもんは自分の家の下に、たくさんの本があることを想像し、わくわくした。そのうち店の中で衣食住をしてしまいそうだ。

「そんな生活天国だなあ」

クッキーを食べながら、れもんはやや上を向き呟く。

「どうしてそんなに読書が好きなの?」

華子は本を読んでいるより、外に出かけ、体を動かすほうが好きだ。おいしいランチを食べ、可愛い雑貨屋やカフェに行くだけで満ち足りた気分になる。華子は物語を必要としない人生を送ってきた。物語を必要としない人は、自分が人生の主人公になっていることを当たり前に享受している。そしてそれが当たり前ではない人がいることに気が付かない。

れもんは少し考え、慎重に言葉を選んだ。

「本はさ、ほとんど見かけは変わらないでしょ?」

「うん」

「表紙があって、紙の上に文字があって、また裏表紙で閉じられてて。でも、中身は開くまでわからなくて、全て違うじゃない?」

「うん」

「そこが好き。開くまでどんな世界が本の中にあるかわからなくて、だから開きたくなるし、読みたくなる」

れもんが一番ときめく時間は、図書館から帰る時間、書店から帰る時間だ。自分がまだ知らない世界を、鞄の中に携えている。その瞬間がたまらない。

「今まで言葉に出して言ったことはなかったけど、そういう理由かな」 

いざ、言葉に出すと恥ずかしくなってきた。れもんは恥ずかしさを紛らわすために、紅茶を飲んだ。

「そういえば、家に来たのって何かあった?相談とか」

「ああ、華ちゃんってどこの美容院行ってる?いいお店あったら行ってみようと思って」

華子は驚いた。

「髪形変える?家にファッション誌あるけど見る?れもんちゃん、どんな感じが好み?」

矢継ぎ早に華子に質問されて、れもんはちょっとたじろいだ。れもんの中にもこんな少女になりたいというモデルはあるが、それは多分ファッション誌の中にはない。

華子はすっかり浮かれていた。常日頃かられもんを垢抜けさせたいと思ってはいたが、興味がないれもんに無理強いはしたくなかった。

「理想は一応ある…」

「だれ?わたしも知ってる人?」

自分にとっての憧れは吉屋信子の小説に出てくる少女たちだとは流石に口に出せなかった。

華子と談笑し、叔母の好意で夕飯もごちそうになり、帰る頃には8時を少し過ぎていた。

「また、遊びに来て。今度はわたしがアパート行くから。例のお隣さん。サガ君だっけ?会ってみたいし」

「ありがと、華ちゃん」

そういえば、といいかけて、華子からある紙を手渡せれた。

「これ町内で回ってるチラシなんだけど、最近ここの近所で犬とか猫がよく怪我をしてるみたいなの。変質者のしわざかもってお知らせ来てたから気を付けてね。自転車貸そうか?」

チラシには不審者注意!の文字が大きく書かれており、その下に地図、発見された猫、犬の写真までついている。

「ひどい…」

「ひどいでしょ?この辺治安いいのに。本当に気を付けてね。お母さんによろしくね」

れもんは駅前の明るい通りを通って帰った。

帰宅後、また砂壁に耳を付けてみたが、サガは帰っていないようだった。

 

 サガがれもん宅でブドウを食べた日からもう4日が過ぎているが、あれからサガの姿を見ていない。夕飯時に香子にまで

 「れもん、最近サガ君どこか行ってるの?」と聞かれる始末だ。

 知り合って間もなかったが、サガ、れもん、香子の三人で食卓を囲むことにすっかり慣れてしまった。

 二人だと遠慮しがちな、鍋料理も三人だと気兼ねなくできると、香子は喜んでいた。

 「体調悪いとかじゃないかしら。今度何か作ってお隣持ってってあげたら?」

 「お母さんが行った方が、体調見れるしいいんじゃないの?」

 いくら親しいとはいえ年頃の娘が、男の部屋に入ることに何か不安はないのだろうか。

 「れもんの方が、仲良しでしょ。歳も近いんだから」

 香子はいたずらぽく笑い、れもんを見る。

母は何か勘違いしてはいないだろうか。

 「そんなに仲良くもないよ」

 れもんはブドウを食べた日、サガが何かを隠していることに気が付いてしまった。本当に心を許しているのであれば、秘密を話してくれるはずだ。

 れもんは少しサガに恨みがましい気持ちになっていることに気が付き、自嘲した。

 自分こそ秘密を話す勇気がないくせに。

 サガを責めるのはやめよう。誰にでも隠したいことはあり、それに他人が踏み込むのはマナー違反なんだから。

 その日れもんは壁に耳を付けなかった。ベッドの中で、イヤホンでラジオを聴きながら夢うつつになっているとき、意識の遠くでドアがばたんと閉じられる音を聞いた気がした。

 *

 その日サガに出会ったのは本当に偶然だった。

 れもんは日曜日の午後、華子が行っている美容院に行ってみた。色んな髪形を勧める美容師に、決然と

 「前髪を少し切って、毛先を軽くすいてください」

 と言い、あとは美容師にまかせた。

 できあがった髪形は、いつもの三つ編みを下した姿とそんなに変わらなかった。しかし、全体的に野暮ったい印象だったセミロングが、少し女子高生らしくなった。

 「今日お休みなんだから、アレンジだけしてみる?」

 美容師はれもんの髪を軽くへアイロンで巻き、全体にスプレーを振りかけた。少し乱された髪の毛からは、ふわりと整髪料が香った。

 セットされた髪形をショーウィンドウで気にしつつ、駅前の通りを歩いた。

 いつもは地味な服を着ているが、一応美容院ということで赤いギンガムチェックのワンピースに、白いカーディガンを着ていた。れもんなりの精一杯のおしゃれである。

 新書をチェックするため大きな書店に寄って帰ろうとしていると、向かいからサガが歩いてきた。サガはうつむき気味で歩いているせいか、まだれもんに気が付いていない。

 サガは相変わらず痩せたままだった。ただ以前より頬に赤みがさして、健康そうに見える。

 れもんの横を通り過ぎようと、サガがしている。れもんは思わず振り返り、サガの肩に触れた。

 「あの、れもんですけど」

 サガはびくっと肩を震わせて、振り向いた。

 「れもんー?」

 あーびっくりしたーと、サガが笑うのでれもんは少し安心した。知ってて無視されていたらと思うと、いたたまれなかった。

 「ごめんなさい。どこか行くの?」

 「ちょっと調べ物がしたくて、バスで図書館まで行ってきた」 

 ほら、と綿でできた簡素な鞄にいくつかの本が入っている。

 「何の本?見てもいい?」

 れもんが覗き込もうとすると、サガは鞄さっとを閉じた。

 「エッチな本だったらどうするの?」

 そのまま鞄を片手に持ち直し、手に下げる。

 「それは、多分軽蔑する…」

 れもんは下を向いた。耳たぶが熱い。

 「軽蔑するのか!」

 一人でサガは大きな声で笑った。しばらくひとしきり笑った後れもんの顔を見て、真顔に戻る。

 「今日、雰囲気違うけど、美容院行ってきたの?」

 耳たぶの熱が、顔に広がった。

 「変?」

 変だったら、今すぐ帰りたい。トイレを探していつもの三つ編みに戻す。いつもはしないおしゃれをして、ちょっと浮き足立っている自分を、誰かにたしなめられたい気持ちもれもんにはあった。

 「似合うよ。すごくいい。三つ編みも可愛いと思うけど」

 「えっと、それはお世辞?」

 「お世辞じゃないよ。新しい髪も、いつもの髪もれもんぽくていいと思うよ」

 この人からみたわたしは、一体どんな形をしているのだろう。自分で思っているよりも明るいイメージだといい。

 「ありがとう」

 れもんはサガの顔を見た。相変わらず、唇が赤い。まっすぐれもんに見つめられて、サガの瞳が揺れた。

 「…じゃあ、また今度」

 サガはくるりと踵を返し、れもんに背を向け立ち去ろうとする。

 「お母さんも会いたいって!」

 サガは少し振り向き、片手をあげて微笑んだ。その微笑みは以前見た寂しそうな顔だった。

 帰る場所は同じなのに、れもんとサガは別々に帰った。今日の夕飯はカレーなのに。惜しい人。どこかで図書館から借りたいやらしい本でも読むつもりなのか。

 日曜日の午後は、夕方に変わりかけていた。れもんが一週間で一番苦手な時間、それが日曜日の夕方だ。明日からの学校生活へと、スイッチを切り替える時間だ。

 どうして、サガはわたしを避けるのか。

考えまいと思いつつ、サガの首筋の白さを思い出しながら、れもんはアパートまでてくてく歩いた。 

 

 帰宅すると日勤を終えた香子とカレーを作った。

 「髪形いいじゃない。明日からそれで学校行くの?」

 「これは今日だけ。校則で肩より長い人は結ばなけれはいけないんだよ」

 もちろん守っている人は少ないが、れもんは校則違反は嫌だった。

 「お母さん、サガに会ったよ。元気そうだった」

 「夕飯誘わなかったの?」

 「忙しそうだったから」

 残念ね、と一言言うと、香子はもうサガのことは聞かなかった。

 香子もれもんほどではないが、内向的で控えめな性格である。以前はそうでもなかったが、現在は他人と一定の距離をとり、人付き合いをするようになった。

 だからこそサガは二人と打ち解けた。食事のときも話題をふるのはサガで、香子とれもんが聞き役に徹する。

 日雇いのアルバイトの失敗談、自分ではまだよくわからない日本語の意味、町のいいところ。

 サガの話には笑いどころが必ずあり、香子は微笑みながらその話をきき、れもんが時々つっこみをいれる。

 サガがいた夕餉を思い出しながら、やたらと響くテレビの音量を下げて、れもんと香子はカレーを黙々と食べた。

 

夕飯を終えると、れもんは風呂に入り整髪料の香る髪を念入りに洗い、乾かし、自室の姿見の前でとかした。

 顔をななめ45度の角度に傾け、片側に髪を寄せる。毛先が頬に触れてくすぐったい。

 れもんはあらわになった自分の首筋を一撫でしてみる。れもんの首筋はサガのようなピンクがかった白さではない。黄色人種特有のクリーム色がかった白さである。

 お互いの首筋の色が違うように、れもんの孤独も、サガの孤独も違うもので、どれだけ近くにいたとしてもわかりあえることはないのだろう。

 それでもれもんはサガの孤独を、知りたい

と思った。嘘の裏に隠された孤独を。

 自室のふすまがコンコンと叩かれた。香子が顔をのぞかせている。

 「明日の朝食用のパン買い忘れてたから、ちょっとコンビニまで行ってくるわ」

 香子はれもんより先に風呂をすませていたので、もう寝巻に着替えている。

 「私行くよ。お母さんその恰好で行く気?私ならまだ部屋着だし」

 「いいの?明るい場所を通って行くのよ」

 

 れもんは母から財布を受け取ると、徒歩5分のコンビニまで歩いた。

 夜風に秋の匂いが混ざる街灯の下を、早歩きで歩く。朝が嫌いなれもんだが、夜はわりと好きだった。

 コンビニは空いていた。パンのコーナーの一番上にある、6枚切りの食パンを手にとり、会計をすませる。

 少し雑誌の棚を見ていると、サガと似た背格好の少年が、コンビニに入ってきた。

 少年は青年雑誌のコーナーで、漫画をとりかごにいれ、カップ麺のコーナで商品を物色している。帰るときちらりと見ると、スナック菓子等もかごに山盛りになっている。

 れもんはサガの食生活が心配になった。男の人が一人暮らしをしていれば、あんなものばかりを食べるようになるのかしらん、と思った。

 あまり遅くならないうちに、と少年が店から出た後、れもんも出て行った。

 すると、コンビニの出入り口から見て右にある小さい交差点そばに、サガらしき姿を見た。

 正確には交差点のそばから住宅街の狭い小路に入るサガらしき男の後ろ姿を、れもんは見た。

 見て、数秒間先ほどの少年だとれもんは思おうとした。しかし足は自然と住宅街へ歩き出していた。

 あれがサガなのか確かめたかった。サガならば一緒にアパートまで帰ればいい。何も問題はない。

 ただ行ってはいけない、そのような予感もれもんは感じていた。見てはいけない姿だったら?心臓が早歩きのせいではなく、ばくばくと鳴っている。

 辺りに人影はない。静かな住宅街の夜である。月はまだ満月からそう欠けてはいない。街灯とともに明るい月光を道路に落としている。

 サガが入って行った、小路の入り口辺りまでれもんはやって来た。一度立ち止まり呼吸を整えるために、息を吸い大きく吐く。このままついて行かず、帰ってしまおうか、そもそも私はなぜサガを知りたいのか。そうれもんは逡巡していた。だがその逡巡もすぐに破られた。 

 ギニャアー、と伸びるような生き物の声がした。住宅街は静かなのでその声はよく響いた。

 反射的に声のした小路に飛び出すと、道路の真ん中にサガがいた。猫を顔辺りに抱いている。

 だが抱いているわけではないと、すぐにれもんは気付いた。サガが猫の首に顔をうずめている。うずめられた首からは黒っぽい液体が出ている。その液体は猫のだらりとのびた前足をつたい、サガの足元にぽたりと滴り落ちている。

 恐怖でれもんは目を見張った。サガは自分に気付いていない。今すぐこの場から離れなければ、と思ったのだが震える声で

 「サガ…?」

 と呟いてしまった。

 サガはその瞬間、はっとれもんの方を振り向いた。抱きしめられていた猫は、最後の力を振り絞り、サガの腕から脱出した。

 不思議な光景だった。月明かり。住宅街の街灯が二人を照らす。道路の真ん中で、恐れと羞恥と怒りの混ざった目でサガはれもんを見つめ返し、呆然と立ちすくんでいる。顔の半分は先ほどの猫の血で黒く濡れ、首筋に流れ、鎖骨のくぼみに溜まっている。

 れもんは震える足で後ずさった。自分の意思に反して、動かないと思っていた足は、一度動くと、そのあとは思い通りに動いた。

 思い通りになった足を、無我夢中で動かし、れもんは全速力でアパートまで走った。街灯の明かりも同じ速さで後ろへと流れていく。

 アパートのドアをばん、と開け、部屋に入る。激しく息をきらせ、思わず玄関にへたりこむ。香子がびっくりしている。

 「どうしたの」

 香子が心配そうに肩を抱く。れもんの息が落ち着くように、背中を手でさすった。

 はあはあ、と荒い呼吸をれもんは繰り返していたが、香子を心配させてはいけないと

 「帰り道、蛇が出て、怖くて、走って帰ってきちゃって…」

 と切れ切れに説明した。

 「なら、いいんだけど、顔色が悪いわ。横になる?」

 香子から差し出された水を飲み、れもんは

 「部屋で寝るから、大丈夫」

 と言い残し、自室に入った。今の出来事を頭の中で整理するため、一人になる必要があった。

 頭からサガの見開いた目が離れない。街灯に照らされる白い顔と、暗いから黒く見えた血液の対比。

 あれがサガの真実で、自分が知りたかった姿だとしたら、それを暴かれたサガはどうなってしまうのだろう。

 れもんは布団をずり上げる。昔からの癖で、眠れないときは頭まですっぽり布団をかぶる。

 だがその日れもんには、少しの眠りも訪れなかった。白々と夜が明けるとき、れもんは朝焼けをベッドの上から眺めた。

 


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