美女と野獣と
17 美女と野獣と
サガが好き。
それは唐突に湧いた感情では無かった。海に行ったときから?血をあげると決めたときから?名前の秘密を、明かしたときから?わたしはサガが好きだった。
恋人、作らないで。ずっとご飯を食べに来て。わたし以外の人の、血を吸わないで。
もう一度そっとサガを盗み見た。オレンジ色の光に、大好きな横顔が縁どられている。まだ先ほどの女の人に捉っているようだ。でれでれとした笑顔を向けている。
「わたし、もう遅いし帰ります」
サガに送ってもらう約束だったが、れもんはこの場を離れたかった。他の女性と仲良くするサガと同じ空間にいたくなかった。
「え、帰るの?一人で?」
「そんなに遠くないし、今日はありがとうございました」
「れもんちゃん。もし帰るならなんで帰りたくなったかサガに言わないと。あいつ今日をすごく楽しみにして、この後の準備していたんだよ。言えないうちは待っててあげて、俺からのお願いだよ」
北はカウンターかられもんのまなざしを追っていたので、帰る理由には見当がついていた。罪作りなやつ。
北に促されて、再びれもんはカウンターに座った。帰りたい理由なんて言えるわけがない。じゃあ少し眠くなったので寝ててもいいですか、とれもんは北に訊ね、カウンターに突っ伏した。
カウンターのれもんに、茶色のブランケットがかけられている。本格的に眠ったれもんは、すうすうと寝息を立てている。店は閉店し、サガは先ほどまで女性客がいたテーブルを熱心に拭いている。
「れもんちゃん、寝ちゃってるけど大丈夫?」
「いいんです。寝ていてくれた方が、準備しやすいし」
北は洗い場にあった食器類を洗い終えると、サガに店の鍵を渡した。
「じゃあ、俺は帰るから。火の元、戸締り気を付けてくれよ」
「了解です。お疲れ様です」
にっこりとサガが笑顔を見せている。北はこの笑顔が良くない、と思った。
「サガはいつもれもんちゃんの前で、そんな感じで笑ってるの?」
「そんな感じって、まあ多分」
「たまには真顔でいろよ。笑顔から人は気持ちを読み取れないときもあるんだから」
じゃあ、お疲れさんと北は帰って行った。
サガはさっきの言葉の意味を考えてみたが、よくわからなかった。
準備が整ったので、あとはれもんは起こそうとサガはれもんのそばまで寄った。少しためらったが、れもんの左耳の辺りに手を寄せ
「わっ!」
と声を出す。
びくっと肩が揺れ、寝ぼけ眼をしてれもんがサガを見る。
「サガ?」
「もう店終わったよ。北さんも帰った」
にっとサガが笑い、二本の犬歯が光る。
「奥のテーブル行こう。準備してあるから」
寝起きで頭がぼんやりしているれもんは、言われるまま奥のテーブル席に行く。
「デザートだけ北さんに出さないでもらったんだ。一緒に食べようと思って」
テーブルの上に、赤いテーブルクロスが敷かれ、小さなキャンドルに火が灯されている。金色の燭台に光が揺れて、綺麗だった。
「すごいね」
そのテーブルの上に、デザートが置かれた。丸く白い皿の上に、ドーム型のチーズケーキと果物が盛られている。小さな生チョコレートも周りに散らされている。
「コーヒー俺が淹れるから、食べよう。れもんのブッシュドノエルも切るから」
「こんなきれいなケーキの横に置くの?」
れもんは気後れした。サガは全然気にせずにブッシュドノエルも持ってくる。
「じゃあ、乾杯しよう」
メリークリスマス、とコーヒーのカップをかちんと合わせた。変な乾杯、とお互い顔を見合わせて笑った。
「美味しいケーキだね。これも北さんが作ったの?」
「まさか。これは駅前のケーキ屋さんが作っているのを注文したんだ」
サガは腹をすかしていたようで、あっという間にデザートを食べ終えると、れもんのブッシュドノエルを厚めに切り、フォークを立てる。
「美味しい。ケーキ屋さんにも負けないよ」
れもんはお腹いっぱいだったので、薄めに切って少しだけ食べた。確かに手作りにしては、まあまあ美味しかった。
「北さんって話しやすい人だよね」
れもんはサガの淹れたコーヒーを飲みながら話した。酸味が少なく苦みの強い、れもんの好きなコーヒーだった。
「聞き上手なんだよ。お店に来るお客さんからも人気だし」
「わたし身近にあれぐらいの年の男の人っていないから、緊張していたんだけど、なんか雰囲気が柔らかくて、親しみやすかった」
「でも、でもおじさんだよ?」
サガを見るとちょっと困ったような、驚いたような顔をしている。
「それは、そうかもしれないけど、いい人だよ」
れもんが言うと、サガは真顔になってコーヒーを飲んだ。すすったせいでずずっと音が出た。
サガが黙るので、れもんも黙った。二人が静かになると、店のBGMが響いた。
「あ。これって」
「気づいた?『美女と野獣』のサントラ。さっき変えたんだ」
曲がダンスシーンで使われていた曲になる。
「この曲が一番好き」
「俺も」
ね、といってサガが左手を上にし、れもんの方に差し出した。
「なに?」
「いや、ちょっと踊ってみない」
「踊るってなにを」
「『美女と野獣』のダンス」
無理だよ、と言いながら、サガに手を取られ、店の中央の空いたスペースに二人で立つ。
「俺も知らないし、まあ気楽にね」
サガの右手が、れもんの左手を掴み、サガの左手はれもんの腰の辺りに添えられる。
「とりあえず、横に動くよ」
足を踏まれそうだな、とれもんは警戒していたが、サガが動いたとき足がもつれて、ブーツの踵でサガの革靴を踏んだ。
「いってー」
「ご、ごめん。ごめん」
その後、くるくる回ってみたり、横に動いて見たり、ダンスっぽい動きを二人でしてみたが、予想以上に難しくやめにした。
「慣れないと難しいんだね、これ」
「なんでダンスしようと思ったの?」
サガはちょっと照れたように、顔を赤くして
「映画見てたとき、れもんが羨ましそうだったから」
と言った。
あのときはどちらかと言えば、落ち込んでいたのだ。美女になれない自分に。自分が入り込めない世界に。
「羨ましそうに見えたの?」
「うん。違った?」
違うとも、そうだとも言えない。れもんは密かに『美女と野獣』に憧れていたのかもしれない。亜種と人間の恋。お互いだけが通じ合う心。
「俺さ、今こうして仕事をして生きていることをたまに奇跡みたいに思うんだ。この町に来たときには考えられなかった。今の俺には居場所がある。その居場所があるのはれもんのおかげなんだ。だかられもんにお礼がしたくて。本当にありがとう」
胸が熱くなった。思えばサガは孤独だった。れもんも孤独だった。孤独と孤独が隣り合って、優しい気持ちが生まれた。
れもんはもういいや、と思った。恋人とか付き合うとかそういうことはいらない。サガのことは好き。でも打ち明けはしない。
「わたしも今年はいい年だった。サガに出会って変わったと思う」
「いい方に?」
「いいほうに」
れもんは笑った。きっと今いい顔をしている、サガを見てそう思わせる笑顔だ。
サガも笑う。笑顔になるだけでこんなに安心する。こんなに嬉しい。どうして北さんは気持ちがわからない、と言ったのだろうか。
二人で後片付けをして、鍵を閉め、アパートまで帰る。
いつか二人でパフェを食べた日には、考えられない夜道だった。れもんのブーツの踵が道路を歩くリズムが、ゆっくりとだが小気味よく響いた。アパートまでは十五分だが、二十分かけて二人は帰った。