二部1
二部1
父母訪問日の朝、起きた時からある落ち着かない気持ちの理由はひとつだと僕は思う。
調理実験が成功するか不安なのではない。
両親が遅刻せず到着するかの心配でもない。
家と学園という異なる世界が融合を果たす日、二者に足をかける人間が内と外の仮面を使い分けられるかどうかの懸念によるものなのだ。へまをすれば明日から自分の立ち位置が変わってしまう。仮面の重要さを熟知している者だけが感じ取る武者震いなのだ。
学年主席のフランツを見ればいい。
彼はいち早く訪れた両親と、小さな弟を前に照れくさそうにしている。木のまたから生まれ、教室でもそのように振舞っていた男の、仮面の使い分けの不手際さ。
僕らの前では教科書かノートか辞書しか持ったことない腕が、弟を抱えてぶんぶん振り回しているのだ。
他の人は忘れていても、僕は覚えている。フランツはT先生には父母訪問会の説明をするとき、ものの見事な塩対応だった。興味なさげなあしらいの数日後、心から父母訪問日を満喫するだらしない顔。そのギャップを僕は一貫性のなさと見做し、決して好意的に評価しない。
問題児アクシスは、イベント日であろうと徹頭徹尾ポリシーを貫くようだ。
正門を見下ろす中庭の柵によりかかり、取り巻きたちとアクシスは、クラスメートの肉親なら陰口を叩き、知らない生徒の両親でも、独断的な点数付けを仲間内で行う。
訳も分からず採点される訪問者たちは眉をひそめ、ひそひそささやく。
ラングルフォート学園問題児の問題行動によって、学園の評価が落ちるのはもちろん嫌だが、それ以上に僕は、先に挙げた厳密な吟味を必要とする仮面の使い分けの集中力に、水を差されるのが困るのだ。
昇降口を出た僕は、正門をくぐり坂を降りていく。
学園の正門へいたる道は、幅は広いが長い九十九折の山道で、(馬の)息継ぎ所を挟む険しい斜面もいくつかある。
街で使われる箱馬車は、必然的に重さで速度が鈍り、道の端で渋滞を起こしてしまっている。
ただの荷馬車や、幌だけつけた馬車はリズムよく登攀していくが、しかし数が多いため、こちらも渋滞気味だ。
ノロノロ運転の御者の顔に目を凝らし、僕はなんなく父さんを見つけ出した。
手を振ると、馬足を緩め「おはよう、サイト」と父さんが微笑む。
僕はすぐ先の第二グラウンドが、訪問者用に解放されていることを伝える。第二グラウンドからは校舎につながる裏階段もある。
手綱を操作し、分かったと父さんは馬の首を巡らせた。ゆっくり進む馬車の後を歩きながら、僕は後部幌を見つめる。
白いマフが帆の隙間からのぞき、女性の手が現れ、幌を持ち上げる。
「母さん」
「……お久しぶり、兄さん」
ボンネット帽を赤いリボンで止め、小麦色のおさげを揺らすのは妹のネリーだ。
「ネリーか」
「まるで二者択一の悪いほうが来たと言いたげ」
リボンを結んだ顎をつんとそらし、妹の口調にはトゲがある。
「誰もそんなこと言ってないだろう。ひねくれ者だな。今日、母さんは?」
「昨夜、ダニエルが熱を出してしまって。母さんはずっと看病についていて、気づいたら朝になっていたって。とても今日は来れないわ」
「……そう」
ダニエルは弟で、僕との年齢差は14もある。まだ小さいから発熱もしきりに起こる。
荷馬車が第二グラウンドに到着し、馬が足を止める。三人乗員の予定が、急遽、父さんとネリーの二人になって、さぞかし軽かったのだろう。馬の上機嫌な鼻息も、今は癪に障った。
僕の母さんは、世間でいう「産後の肥立ちが悪い」タイプだ。
長男の僕を産んで、しばらくその状況にあった母さんは、次の子を出産するまでやや時間がかかった。
ネリーと僕の年の差は5つだ。
エバハルト家の二人目の子供が生まれ、母さんは不調を引きずり、父さんは負担が増した農作業に精一杯。物心ついた僕は、サポート役として、子守りとしてなくてはならない存在だった。
泣く子をあやし、おむつ替えも行う。父さんから火を使う許可をもらったあとは、火傷を負いながらも離乳食だって作った。
僕はネリーの兄であるより、むしろ親である自負のほうが強い。
そのせいだろうか。自我の芽生え始めた少女の小生意気さを、反抗期と捉えてしまうのは。
「ネリー。リボン直せよ。縦になってるぞ」
裏階段をのぼり、校舎に入る直前、僕は注意した。父さんは馬をつないでから来るので、僕は一足先にネリーを連れて学内を案内する予定だ。
「……」
黙って顎のリボンを解き、たどたどしく結びなおすも、縦のままだ。
「直ってない」
「誰かさんがよく世話を焼いてくださるので、わたくし、リボン結びができない子になってしまいましたわ」
手早くほどいて、さっさとリボンの蝶を作る。最初からこうしていたほうが早かった。
「はい、これで校内を歩いても恥ずかしくないレディだ。で、案内だ。ここは本館一階で、目の前にあるのは美術室。壁に飾ってある絵は、僕の学年のものだから、探せば僕の描いたのもあるよ」
「……すぐ分かりましたわ。母さんの顔」
百枚以上展示され、僕の絵は目立たない端にあったが、さすが身内。一目で見つけてしまった。
小麦色の豊かな髪、つつましげなハシバミ色の瞳、母性あふれる笑顔。美術の先生は「慈愛が感じられていいね」と褒めてくれたけど、僕はまだまだ優しさを表現しきれていないと、満足はしていない。
「お前もさ、リボン結びできるようになった方がいいよ。母さんだって10歳になるかならないかの頃には、結び方マスターしていたし」
「……なんだか兄さんの世界の女性は、母さんコピーしか存在してはいけないみたい」
「はぁ?」こういうとき育ての親としてどうすればいいのか。「誰もそんなこと言ってないだろうが」
「そう、それは失礼ましたわ」
エバハルト家の三人目の子供にあたるゲオルグが産まれたとき、母さんは言った。
「家族が増えるのはほんとうに嬉しいものだわ。この子が育つのを見守る幸福な日々は、まるで光さす道を歩くよう。けど、ネリーのときと同じように、私はまた、あなたにもサイトにもネリーにも迷惑を…」
母さんの言葉をみなまで言わせはしない。
「大丈夫だよ、母さん。ネリーの面倒を看て、僕はもう育児のベテランだ。エバハルト家の長男として、母さんのフォローも父さんのサポートも担っていける。母さんが望むなら、家族はいくらでも増えるべきだよ」
僕と9歳ちがいのゲオルグ。末子のダニエルは14歳の差。ただ一人の女児、ネリー。ネリーのときは何もかも初めてな育児だったけど、母さんにそっくりな髪と目の色をした小さな妹を、母さんのように淑やかで優しい子になるよう、一生懸命育てたつもりだったんだけどなあ。
「やあ、サイトくん。その子はもしかして妹さん?」
ネリーを連れて、北塔の階段をのぼりはじめると、降りてきたT先生に声をかけられた。
ネリー・エバハルトです、と上品なネリーの自己紹介に、僕はいい点を与えてやれそうだ。
顔立ちが似ていると思ったんだとT先生は微笑み、名乗りを上げ、ついでに異世界転移者だと付け加えた。
「兄がお世話になっておりますわ。実家に届く手紙によると、兄は異世界の菓子に目がないようで、先生にご迷惑をおかけしたりしていないかと」
正門裏門以外にも出入口があれば良かったのに。ネリーをそこから連れて行けば、階段でT先生とすれ違うことも、こうして立ち話することもなかっただろう。
「そんなことはないようだよ。まあ今日の調理実験に関して、サイトくんは熱心に準備していたけれど」
「まあ、調理実験。もちろんお菓子なのでしょうね」
「サイトくんの北塔は、レインボーラムネを作る予定だよ」
「まあ夢のような名前のお菓子」
「確かにネーミングインパクトはここが一番強いね。南塔のバームロールも美味しいことは美味しいけど、名前で想像がつきにくいしね」
僕はネリーの手を引く。
「もういいだろう? 教室へ行くぞ」
「兄さん、わたくし、バームロールを食べに行きますわ」
「はぁ? なんだよ、それは。レインボーラムネはいいのか? 食べたいって言っていただろう」
「ええ。レインボーラムネも食べますわ」
「じゃあ僕の教室に来なくちゃ」
「でも南塔の教室に行かないとバームロールが食べられませんわ」
「レインボーラムネを食べるなら、そっちは諦めろよ」
「バームロールもレインボーラムネもどちらも食べたいですわ」
我がまま振りに僕はブチ切れそうになる。くつくつと笑い声がし、見ると背を丸めてT先生が笑いを漏らしていた。
「ほら見ろ。T先生が呆れて笑っている」
「いいえ、呆れているのではないですわ。今から兄さんの妹思い振りに感心するところですわ」
「どういう意味だよ、それは」
「わたくしの無茶な願いを、兄さんは必ず叶えてくれるからです」
「そうかい。ネリーちゃん。君の兄さんは願いをなんでも叶えてくれる頼もしい人なんだね」
「ええ」
授業開始の直前に、父さんは北塔四階の教室にやって来た。
ほかの車の馬が難儀していたのを助けていてたそうだ。開口一番、遅くなって悪かったなと言ってくれた。
「父さんが人助けをしたのに、僕は遅くなったなんて文句をいうガキじゃないよ」
「そうか。そうだな、サイト」
僕はさっそく父さんに家のことを聞いた。家を出て寄宿舎に入って三か月。家のほうはきっと大変なはずだ。
「どう、父さん? 家のほうはうまくやっている? ダニエルもゲオルグもまだ小さいし、畑作業の手が足りないんじゃない?」
「ああ。忙しい時期は手伝いの若者を雇ってやってもらっているよ。大丈夫だ」
「……そう」
長期休みは家に帰って手伝うよ、と舌の上まで出かけていた言葉は、喉の奥に押し戻す。
無理に戻した言葉が詰まって、ちょっと息苦しい。
「ゲオルグの夜泣きはどうかな? 毎晩、母さんに迷惑かけていたりしないかな。あの子は甘ったれで、僕がついていないと眠らないんだよね」
「よく言い聞かせているよ。兄さんは立派な人になるため寄宿生になった。お前も立派な男の子になれとサイト兄さんが言っていたぞと。時にぐずるけど、あの子なりに頑張っているよ」
「……そう」
肩に手を置く感触がする。
「サイト。家のことを思ってくれるのは嬉しいが、サイトはサイトで学園生活を楽しんでくれるのが一番だ」
……学校生活を楽しむ、か。
なんでだろう、父さん。僕は急に、楽しまなければならないことが義務に感じられてきたよ。
話題を変える。さっきまで居たはずのネリーが、いつのまにか教室内に見当たらない。
「ところでネリーのこと見かけた?」
「ああ、階段ですれちがったよ。学内を探検し、調理実験の時間になったら、南塔の教室に行くって」
僕は苦い顔になる。まったく、あいつは。
「何しに来たんだよ、本当。兄の勉強姿を見て、母さんに報告するのが長女としての勤めだろう。だいいち、身内も知り合いもいない教室に紛れ込むなんて、淑女のすることじゃないぞ」
「まあ、そう言うな。学校という場所が珍しいのだろう。あの子は大きくなっても、学校という通う場所があるわけでもないのだし」
「女に学校は不要だろう。勉強するわけでもなく、一生、家のことをして暮らすんだ。そういうものなんだから」
「……そろそろ席についたほうがいいなサイト。母さんへの報告分は、私が見ているよ」
教室後方に並ぶ父兄の人数が増えてきた。代表委員があわただしく、教壇周りの支度を整え始める。父さんに小さくうなずき、僕はそばを離れた。
前半はいつもの授業風景と変わらずに終わった。後ろを気にしなければこんなものだろう。
机を真ん中に寄せて大きな机にする。ここが公開実験のメインステージだ。白い布を敷き、材料や器具を用意する。並行して司会が父母にむけた説明を開始する。今日のお題、それを選んだ理由、実験が勉学にどんな意義をもたらすか、などだ。
授業の延長という便宜上、内実はお菓子作り大会であっても、何らかの学術的意義が必要だろうと、先回りしてくれたのがT先生だ。
「異世界にはエナジードリンクという飲み物があります。意気を高揚させる爽やかな後口のソフトドリンクで、古代の医者はリンゴ酢にハチミツを混ぜたものを万能薬だと推奨していた記録があるそうです」
この口上はT先生が用意してくれたものだ。父母たちから感心の声が上がる。
「リンゴ酢にハチミツ。またその後は水割りの酢にハーブを加えた飲み物が戦いに赴く兵士のお供だったという歴史もあるそうです。つまり酢を飲みやすくしたものがエナジードリンクの祖先ということなのです」
酢は体にいいけれども飲みにくい為、異世界の人はさまざまな工夫をしてきたこと、その集大成をここで再現すると述べ、教室の空気は期待に高まる。
「酢の飲み辛さは甘味と香料と炭酸でほぼ緩和できます。重曹とクエン酸でソーダ水を作るかたわら、僕たちは同じ材料で異世界菓子にも挑戦することにしました。T先生直伝のレシピ、レインボーラムネです」
司会がラムネに言及する。僕はラムネ作成班のひとりとして、動き始める。二種の粉に砂糖を加え、レシピ通りの着色料を混ぜ、木の型で固める。僕たちの班が量産しているあいだに、エナジードリンク班ができあがった飲料を父母に振る舞う。
「まあ、なんて鮮やかな色なのかしら」
「これは疲れた兵士も回復する、活力に溢れた飲み物だな」
評判は上々だ。ラムネの方も徐々にできあがり、銀のバットにおさめたものが父母の間に回される。
白に青にピンクに黄色。目に映る華やかさ、コロコロした愛らしさが、思わず歓声をあげさせる。
一斉に伸びた手が、あっという間にバットを空にした。
「口どけがなんて爽やかなのかしら」
「舌の上で蕩けてしまうわ」
「ひとつかみ含んで、口の中でホロホロするのが快感だな!」
評判がよすぎて、さっそく僕たちは追加作業に追われる。忙しさの合間を縫って、僕は紙袋を用意した。
「ん? どうしたエバハルト。紙袋なんて」
「うん、家へのお土産。来る予定だったのに、来れなくなっちゃったから」
「授業見物できない人にお土産を持って行ってやるのか。でもなんで二つ? 大きい紙袋と小さい紙袋って」
言葉を濁しつつ、僕は家で待つ三人と、ネリーの為にとそれぞれの袋にラムネを詰め込んだ。
調理実験の終了間際にドアがそっと開き、白衣姿のT先生が顔をのぞかせる。生徒たちだけに、小声で話しかけてくる。
「どうかな首尾は。見た感じ滞りなさそうだけど」
口にマスクをしているせいか、先生の声はくぐもって聞こえた。
「大成功ですよ、T先生」
「見てくださいよ、エナジードリンクとレインボーラムネの人気ぶりを」
ラムネは三度の追加をしたが、もうバットの底にわずかに残っているだけだ。
窓の外は木枯らし吹き、ガラスの隅に霜さえついているのに、父母の方々は冷たいドリンクと爽やかな菓子の虜だ。
「お役に立てたようで良かったよ」T先生はうなずく。「でも最後まで気を抜かないで。片付けまでが父母訪問会だよ。気が緩んで、片付け中に事故なんて、ありえない話ではないからね」
「はい、先生」
「もしアクシデントやトラブルがあったら、僕に言ってね。教室をあちこち顔を出す関係から、今日は僕がそういう対応係に任命されているから」
「南塔も二年も三年も、異世界菓子調理実習やってますからねえ、T先生、あちこち忙しいですよねえ」
「面倒かけないよう心がけまーす」
「そうしてくれるとありがたい。けど個人では対処できないようなトラブルに関しては、遠慮なく僕を頼って欲しいな」
ネリーと再会したのは午前のスケジュールが終わり、自由時間に入って僕が父さんの姿を探しているときだった。
「まあ、兄さんの教室の調理実験には間に合わなかったのね」
しれっとした顔して言う。
「ほら、これ」紙袋二つを押し付ける。「こっちがお前のだ」
「……大きさ」
「家には母さんとダニエルとゲオルグがいるんだから。大きさに差があって当然だろ」
「そうでしたわね。それに優しい兄さんが頼みを叶えてくださったのに、礼より先に文句だなんて、わたくし、レディー失格ですわね」
今度はしおらしくしてみせる。
カサリと紙袋を開き、ピンクのころころを唇にはさむネリー。
「すうっと溶けて、後味がすっきりして……これ兄さんが?」
「ああそうだよ。僕はラムネ班だったから」
「甘いものでお腹がいっぱいになっていても、いくらでも食べれてしまいそう……バームロールも美味しかったですけど」
未練を顔に出すまいと、僕はこのターン「無行動」に徹することにする。
「濃厚ミルククリームが絶品で、とても後引くお味でしたわ」
「……」
「さすが異世界菓子ですわ。わたくし、さーたーあんだぎーというものを耳にして、二学年の教室も伺ったのですけれども」
「二学年の教室まで行ったのかよ」
顔見知りも身内もいないのに。怖いもの知らずの渡り鳥か、この妹は。
「揚げたばかりのさーたーあんだぎー。初めてのお味でしたわ。それから二学年の教室にはT先生がいらっしゃったのですけれど、皆をあっと言わせるパフォーマンスを披露されて」
「パフォーマンス?」
「油を使った鍋があったのですけどね、そこになみなみと油を入れて、煮たてて、そこに手を入れたんですの」
「ええっ、煮えた油」
「父母の方々も、だいたいそんな反応でしたわ。夫人の中には卒倒しそうな方もいて……もちろんT先生の腕は火傷ひとつせず、無事でしたわ」
「うん。僕の教室に寄ったT先生、火傷なんてなくて、まったくの健康体だったよ」
「T先生曰く『テラでは煮えた鉛で同様の実験を行い、皇太子に披露した記録があります。油なんて序の口ですよ』ですって」
その時の、父母たちの驚きと尊敬が手に取るように僕には想像できた。
「ああ。サイト、ネリー、ここにいたのか」
父さんが合流してくる。僕らの肩を押しながら、昼はどこで食事しようかと促す。クラブに所属していない僕は、午後は完全なフリータイムになる。街で昼食をとり、その後はネリーに付き合って買い物か観光になるんだろうな。
(……母さんが居てくれたら)
成功の余韻も、久しぶりの家族の食事も、一層、楽しいものになっただろうに。