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一部2

一部2



「図鑑で確認したのだけれども、この世界でもやはりハチやヘビのような害をもたらす生物は存在しているんだね。そしてそれらをわざわざ好む人間も少ないようだ」

また今日、僕のクラスはT先生の授業を受けている。

図鑑を役立ててくれた事実に、僕はちょっと鼻が高くなる。先日の別人のような顔を見た記憶は、過去のものとして薄れつつあった。

「そこで皆の実体験に迫りたいのだけれども、生まれて初めてハチやヘビに遭遇したときのこと、覚えている人はいるかな。だいたいは幼少時に初遭遇するだろうから、はっきり記憶しているのは難しいだろうけど」

「先生、オレ、子供のときにハチが部屋に入ってきたの覚えてます」挙手したひとりの生徒が、鼻の穴を膨らませた。「親によると、オレがまだはいはいしていた頃だったそうです。部屋にぶうんと入ってきたハチが、花瓶の周りをぶんぶん飛んだそうです。オレ、火が点いたように泣き出して。びっくりした両親が部屋に飛び込んできて、ハチを追い払ったそうなんですけど」

「なるほど、両親の証言と君の記憶で成り立ったエピソードだね。参考になるよ。ありがとう」

「先生の言う通り、はいはいしてた頃とか、両親が飛び込んできたっていうのは、あとで親に聞いて補足した内容です。

オレがしっかり記憶しているのは、あのブゥンブゥン唸る羽音。背筋がぞわぞわするような、離れていても間近で唸られているような……忘れられないです。今でもハチは大嫌いです」


生徒はみな記憶やエピソードを引き出そうと苦心する。T先生の講義の役に立てればなによりだ、教室はそんな使命感が一筋、空気を貫いていた。

中には空気読めないアクシスのような奴が「俺が赤子だった時、揺りかごにヘビが二匹入ってきたから、結んでなわとびにしてやったぜ」とうそぶいたりする。

こういう奴は教室全体から、冷ややかな視線を浴びせられる。

T先生も「まるでヘラクレスだね」とさらりと流してくれる。

「あ」僕は顔を上げる。ちょうど席の近くをT先生が歩いていた。「ひとつ思い出したんだけど、いいですか」

「サイトくんのエピソードだね。どんな内容かな」

「僕が赤ん坊のころの話です。僕をカゴに入れて農作業に出たと母さんが言っていたので、僕はまだはいはいもできない年代だったかと」

「乳幼児の頃かな、それはすごく古い記憶だね」

「父さんと母さんが畑で作業するあいだ、僕の入ったカゴはあぜ道に置かれていたそうです。ひんぱんに母さんが僕の様子を見にきて、あやしてくれたり、ミルクをくれたりしたんです。

……で、そのミルクが目当てだったらしいです。僕のカゴに入ってきたヘビは」

うわぁとか、ひえーとか、教室のあちらこちらで生じる悲鳴ともつかない声。

「哺乳瓶に巻きついたヘビは、僕の口のまわりに残ったミルクの匂いをかいでいたそうで、様子を見に来た母さんは畑に響きわたるほどの悲鳴をあげて失神寸前だったそうです」

「なるほど、サイトくんの母君はその瞬間までヘビの存在に気づかなかったんだね。赤子の君が泣いたり、助けを求めたりといったシグナルを発しなかったために」

僕はうなずく。

父さん曰く「ヘビの舌が頬に触れても、きょとんとした顔つきで座っていた」とのことだ。

実のところこの話は二人の話であとから補填された部分が多い。僕が色濃く覚えているのは、それから長らく続いた母さんとの蜜月時代だ。農作業中はおんぶ、家事の間は胸に抱かれ、一時も離れることなく母さんの体温を感じ続けていた。

おんぶしすぎて腰を痛め、父さんに諭されても、「大事な家族、初めての家族、かけがえない私たちの家族なのよ」と、母さんは僕を離さなかった。

僕のいちばん古い記憶、生まれて初めて心が暖かくなった言葉だ。


「いろいろな意見をありがとう」

T先生が教壇に戻ったのを契機に、僕は意識を現実に引き戻す。さあ、今日はここからどんな風に話題が発展していくのだろう。僕も、僕の周りも、机に軽く拳をつくり、聞き入る体勢だ。

「乳幼児からつかまり歩きができる年代まで幅広く、ハチやヘビ蜘蛛など脅威を予感させる生物に触れ、反応は二分されたね。恐怖を覚えSOSのサインを出す場合と、何もわからず警戒ゼロの場合と」

そして先生は雷の音を例に、人間に生まれつき備わっている防衛本能について解説してくれた。

感電の恐ろしさを知らなくても、「落雷に当たると死ぬよ」と警告されなくても、僕らは本能的に雷の音を恐れるようにできている。それは先祖から代々蓄積されてきた経験で、DNAに刻み込まれるのだという。

……なるほど、と僕は納得する。嫌悪をもよおすハチの羽音を、ハチの怖さを知らない内から恐れるのも、備わった本能によるものなのだろう。

「でもその一方で、昔から人にとって脅威だったヘビや蜘蛛を平気だったという例もあったね。じゃあ、その人は特別でDNAに防衛本能が刻まれていないのかというと、そうでもないんだよね。

赤子のころ平気だったヘビや蜘蛛を、今でも平気で触れられるという人は手を挙げてみて」

教室からは誰の手も挙がらなかった。ホラ吹きアクシスは別件としても、僕のほかにも赤子のころヘビや蜘蛛を怖がらなかった生徒が何人かいたはずだ。

しばらく待ったが誰も手を挙げないので、僕は安心して「今はヘビが駄目な自分」を受け入れた。

「テラの科学者でミネカという人が、興味深い実験を行っているんだ。

一匹の猿を生まれてから隔離して育て、ヘビに接したことのないようにする。その猿をヘビと一緒の部屋にしてみる。すると猿はヘビを怖がらなかったんだ」

……ふうん、と僕は興味を引かれる。何も知らない条件下では、毒持ちの危険な生物を恐れたりはしないのか。本能に警戒が刻まれるのに必要なものがあるのだろうか。

「ミネカの実験は次の段階に突入した。今度はね、生まれて隔離して育てた猿と、外で育った野生の猿、そしてヘビを部屋に入れた。そうしたらね」

T先生が声を潜める。

知らず知らずのうち、僕たちは息をひそめ、唾を飲みこみ、次の言葉を待ち受けていた。

「……どうなったと思う……?」

今まで一度も聞いたことのない、Tさんの低音ボイス。背筋がぞくりと粟立ったのは、僕だけでないと信じたい。

頭上で爆発せんばかりの割れ鐘の音がとどろく。

入学してから三か月、こんなにも心臓に悪い終業の鐘の音ははじめてだった。周りの席は皆、悪夢から覚めたような顔で、胸を抑えている。

「おっといけない。時間が来てしまったね。

僕はテレビのCMみたいに意地悪く引っ張ったりはしないから、答えを言うけどね。

野生育ちの猿がヘビに驚いたのを見て、隔離されて育った猿も、ヘビを怖がるようになったんだ。

つまり猿は……人の反応で、恐怖を学習したんだね。

詳しいことを知りたいなら、自分で調べてみるか、それとも僕のところに来ればいろいろ解説してあげられるよ」


図書当番の時間を利用し、僕は自分で調べてみることにした。

実験者の名前ミネカで探そうとして、僕は気づく。あるはずないのだ。実験をしたのはTさんの世界の人なのに、すっかり僕は彼の話術に取り込まれ、僕は一時的にもテラ生まれのエバハルトと錯覚してしまったのだ。

頭を切り替え、恐怖や恐れをキーワードにしていくつかの書物をセレクトする。

斜め読みだったが、だいたい内容は把握したと思う。

――乳幼児時代は、ヘビと添い寝して平気だった僕は、今は大の苦手になっている。それは両親から学習したから。

ヘビが苦手で庭に現れると大声で悲鳴をあげる母さん。あんなに大声あげる母さんは、他にはないからね。

駆けつける父さんは険しい顔をしている。ヘビが毒蛇だったときはもっと怖い顔になる。厚いブーツに履き替え、肘まである手袋をし、収穫用の3メートルはある大鎌で物々しく準備すれば、物心ついた僕が恐ろしさを学習するのに充分なのだ。

つぎに蜘蛛とハチについて考察する。

――僕は特にこれらは恐れない。両親も嫌悪してないから、学習の機会がなかったんだ。

納屋の隅で母さんはミツバチを飼っている。「ハチさんはね、いい虫なのよ」が口癖の母さん。ハレの日の特製おやつもこの蜂蜜から頂戴しているとなれば、僕はハチ嫌いになる理由がないわけだ。

父さんは蜘蛛が苦手だと聞いたことあるけど、小さいものなら指でつまんで遠くに放れる程度で深刻な嫌悪はない。前に「母さんが掃除好きで助かったよ」と僕に打ち明けたことがある。確かに家の中は、蜘蛛の巣なんて発生したことないし、まれに小さな蜘蛛が天井裏から落ちてくるだけだ。

こんな環境で育った僕は、蜘蛛とハチを恐れる学習はしなかった訳だ。

気づけば昼休みの時間も半分以上過ぎてしまっている。カウンタの席に戻り、急いでパンをぱくつきはじめる。

空腹も忘れさせ、熱心に調べ物をさせるTさんの切り口はほんとうに見事だ、またひとつ賢くなれた――そう満足してしまった僕は、結局なにも分かっていなかったのだ。

斜め読みした書物の内容も。

恐怖を学習する、その意味も。


翌日の午後、僕は教師から雑用を依頼され、資料を抱えて廊下を歩いていた。

図書館から借りだした資料は大きく重く、ふらついてしまった僕は、廊下を曲がってきた生徒とぶつかってしまった。

「あっ、ごめん」

ばさりと手から図鑑が落ちる。

「こちらこそ、先輩。すみませんでし…」

曲がり角には小学年の生徒が二人。ぶつかったのはその内ひとりだけみたいだ。そのひとりも、驚いて尻もちついただけで、怪我らしい怪我はない。ラングルフォート学園の規範にそって、紳士らしく謝罪しようとする姿勢は、しかし何故、途中で止まってしまったのだろう。眼を見開き絶句しているのだろう。わなわな震え一点を凝視しているのだろう。

(……図鑑? 図鑑の表紙?)

ペン画の水棲生物。なんの変哲もない生き物の図画だ。怖いものなどなにもない。

手を伸ばし拾い上げようとする。

瞬間、張りつめていた空気を、剃刀でバッサリ断ち切ったような感覚が生じた。

「う…うわぁあああああああっ」

尻もちついた側が、ひきつらせた顔から叫び声を発したかと思うと、衝突していないもう一人も、火が付いたように泣き出す。僕は現状についていくことすらできない。

(なんで……どうして……泣き出すんだ……?)

下級生の彼らは、涙混じりに怖い、怖いと訴えている。

そして僕は、目の前の意味も分からず泣き出す二人が怖い。

「おい、どうした」曲がり角からさらに現れるのは男性教師だった。「代表委員がどうして下級生を泣かしている?」

猜疑の眼で見られ、僕はぎょっとする。襟についた代表委員のピンバッチがこういうときは煩わしい。

「ん? なんで図鑑が落ちている? 投げたのか? 殴ったのか? 事情を説明してもらうぞ」

僕は暗たんたる気分で、心の中で溜息をつく。


「ああ、そりゃ災難だったなあ」北塔四階の教室、窓際の、僕のひとつ後ろの席のハリスが同情してくれる。「説明して分かってもらえたんだろう」

「証拠不十分で保釈って感じだけどね」

僕は教師に釈明した。ぶつかってはいないこと。図鑑ははずみで落ちたこと。

泣いていた生徒の片割れも「先輩は何もしていません」とフォローしてくれたものの、男性教師の疑惑は最後まで晴れなかった。彼の「行ってよし」は、再犯を何度も繰り返した元囚人が刑期を終えて出獄するときにかけられる「もう戻ってくるなよ」と同じくらい疑い深い声だった。

「それで、ガキどもが泣いた理由は分かったのか」

「分からない」

「じゃあ図鑑が原因だな。お前の方角からは普通に見えるけど、ガキの方角から見ると化け物に見えるとか」

図鑑を取って正面から見る。普通のイルカの画だ。天地逆にしてもう一度。イルカはイルカだ。鬼にも悪魔にもならない。

「やっぱり変わらないよ。上から見ても、下から見ても、イルカはイル…」

カタンと鋭い落下音が僕の言葉を遮った。床を筆入れが滑ってくる。

筆入れの落とし主は、二つ前の席のフランツだった。学年主席を維持し、常にマイペースで飄々とした態度を貫く彼は、これがたとえ教師の説教でピリピリした空気の中でも、素知らぬ顔で拾うだろう。

そんな同級生が今、滑り落とした筆入れを拾い上げるでもなく、立ちすくんでいる。

白いかんばせには、陶器のような青白さが同居し、瞳はガラス玉のように無機質で、筆入れを映してはいるが、認識してはいないそんな感じだ。

いいようもない不安感が、泥水のように僕の足元から染みてくる。

(なんで、そんな……怖いものを見たような顔をするんだ……?)

低学年の生徒も、フランツも、学園を徘徊する名状しがたい化物を恐怖し、警戒する本能がDNAに刻まれているのに、どうして同じ学園生の僕は刻まれていないのだろう。

僕の本能は学習が足りないのか。

静かに屈みこみ、フランツは筆入れを拾う。彼は僕の顔もハリスの顔も見ず、低い声で発した。

「その話は……やめておいたほうがいい」

フランツが去っても、僕とハリスは声もなく顔を見合わせつづけていた。

「あー、なんだ。あいつ、顔色青くして、声を震わせて、風邪でもひいているのかな」

「風邪……そうか。風邪だったのかもね」

それなら仕方ない。いつもと違って見えるのも、動作がスムーズでないのも仕方ない。

「よかったあ、風邪だったんだ」

「はあ、なんだそりゃエバハルト。よかったって」


真相を知ったのは翌日、廊下で耳にした立ち話からだった。

本館の廊下、情報通と名高い西塔クラスの生徒が号外を配る記者のように、生徒たちを集めてニュースを披露していた。下級生たちの間に広がる、怖いうわさという触れ込みだ。

通りすがった僕は、少し足取りを緩める。

『赤いイルカという言葉を20歳になるまで覚えていると死ぬ』

その内容を耳にして、目が点になった。白紙に陥った心がじわじわと憤りの色に染まっていくのを自覚する。

ついでに僕は代表委員だということも自覚して「子供騙しのバカな話を広めるんじゃない、教師に報告するぞ」と注意してやれば良かったかもしれない。

こんなしょうもない噂話のために、僕は教師に疑惑の目で見られたのだ。

フランツもフランツだ。学年主席がなに下らない噂を真に受けているんだか。

その場を離れながら、不機嫌はしばらく引きずりそうだった。


……でも。

もしも今の僕が、この先に待ち受ける運命を知っていたならば、噂のイルカを……赤いイルカの呪いを……鼻であしらうことなど決してしなかっただろう。


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