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エピローグ

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エピローグ



Tがノースラングルに「移住」したニュースは、翌日には僕らの耳にも届いていた。

海に面した北の街の人々は、諸手を挙げて異世界転移者を歓迎し、そして山の中の蛮人揃いのサウスラングルに見切りをつけた慧眼と判断を褒めたたえたという。さらに街の人らは深くTに同情した。なんでもTは山の中の南の街で「過酷」な日々を送り、学園の教師として「酷使」され、「虐待」に近い扱いを受けていたのだという。


サウスラングルの面々は、やるせなさに沈んだ。休みを終え、学校に戻ってきた生徒たちは「俺たちT先生に悪いことしたのかな」「でもあそこまで言われるようなことはしてないよなあ」とお互いに確かめあい、ため息交じりで新学期を迎える。Tに関わったサウスラングルの人々も「あの優しく穏やかな人格者に見捨てられるなんて」「我々は配慮に欠けていたのだろうか」と反省と悲しみの入り混じった言葉を、街のあちこちでつぶやいた。


そうしてサウスラングルとノースラングルの不仲は一層深まるのだった。


失ったものもあるが、新たに得たものもある。

ノースラングルから「移住」した、異世界転移者の加藤陽兵青年だ。

オートバイを乗り逃げされ、帰りの足を失ったカトウは、かつてTが学園内に住み込んでいたことを知ると「じゃあ俺もそこに住むか」と図書準備室の次のあるじとなった。

Tが担当していた時間割を、カトウが引き継ぐ期待は、学園関係者の誰もがしていたが、当の本人は「俺、頭悪くて人に教えるとか無理」と一蹴し、時間割はT赴任以前のものに戻った。

学園長の顔を立て、カトウは「臨時教員」「週一程度の特別教師の授業」を受け持ったが、しぶしぶといった顔だった。

そのくらいは受け持たねば、カトウは「学校に居候する無駄飯くらいの人」になってしまう懸念を僕はするのだが、彼はそんな心配など、よそ吹く風だ。

Tと引き換えに得た異世界転移者に対し、市長もさっそく行動に移っていた。学園に訪れ、要望書をさりげなく提出し、挨拶代わりのおねだりをしていく。

「K先生、どうでしょうか。以前に北の街で開発途中だったホットカーペットをこちらで完成させるのは」

「あー、俺そんなこと言ってたっけ」

「おっしゃってましたよ。鉄線が発熱して絨毯自体を温めるという画期的な発想。鉄の材料は豊富に採取できますし、ここはぜひ完成させて、北の愚民をぎゃふんと言わせましょう」

「それなあ。北の国はめちゃくちゃ寒かったから欲しいなーとは思って言ったけど、作り方とかよく分からんわ」

単に欲しいものを口にしただけ。その事実にめげず、市長は異世界最先端技術を諦めない。

「K先生、それならオートバイをこちらで生産するのはいかがでしょう。こちらにお越し頂くとき、颯爽と乗ってらしたのは噂に聞いております」

「ああバイクねえ」

「ここで再現なさって、大量生産し自転車を駆逐し代わりにオートバイをぶいぶい言わせるのです、北の民どもがハンカチ噛んで身もだえするほどに、乗り回すのです」

「市長さんさあ、ゴムの作り方知らない?」

「はあ、ゴムですか」

「ニートだった頃さあ、世話になってたじいちゃん家が二輪屋だったから、ある程度機構は分かっていたつもりだったんだわ。試作品もなんとか動いたし。ただ乗り心地は最悪。緊急時だから動かしたけど、二度と乗りたくないし。

テラ西暦1818年に鉄帯タイヤ自転車ドライジーネが発明されたのね。鉄タイヤの二輪なんて、当時とても乗れたもんじゃなかっただろうね」

「……はあ」

「自転車のタイヤがゴム製になったのは西暦1869年のファントム号って言われている。だからまあ50年は気長に待ってよ市長さん。俺もこの世界でゴムが開発されるの、首をながくして待ってるからさ。バイク開発はそれからってことで」

異世界転移者に開発を依頼するはずが、逆に依頼されてしまう始末だ。

「乗り心地が悪いだけなら、別にオートバイの作り方教えてもいいんじゃないですか」

来客のためのお茶を、食堂からカトウの部屋まで運んできた僕は言った。しおしお萎んだ市長が早期に撤退してしまったため、僕の労のたまものお茶は手つかずのままだ。

「あー、作り方だけねー、うーん」

「作るのは他人に任せて、快適な乗り心地が確保されるまではカトウさんは乗らなければいいんだし」

遠い昔にこんな会話があったのを思い出す。あのときはTと市長とのやり取りで、設計と製造の責任所在を変えたことで、痛ましい事故が起こった例を挙げていたっけ。

「いやー、まあ俺、教えるの苦手だしー」

そんな理由かとがっくりくる。がっくり来るといえば、昨日の初授業もそうだ。

「カトウさん、いくら教えるのが苦手だからって、昨日のあれはないでしょう。休み明けの新しい異世界転移者による特別授業。みんな期待して待っていたでしょうに、何ですか『自習』って」

「だって本当に教えることなかったし」

Tが教えていた頃の、知らない世界を見聞するような魅力的な授業を期待していた層は、明らかに落胆しただろう。Tへの思い入れが強かった者は、憎い北の街から入れ替わりに来たK先生に敵意さえ持ったかもしれない。教師陣などは早くも「頼れない同僚」レッテルを貼り、居ない者扱いしているとも聞く。

Tには赴任直後に結成されたお世話隊が、カトウの為には結成される様子もなく、代表委員も忌避する姿勢を見せるので、こうして元代表委員で顔見知りの僕が、こまごまとした雑用をこなしている日々だ。

「俺の面子や立場を心配してくれてすまないな、サイト=エバハルト」

「別に心配してる訳じゃあ」

「だよなぁ」額に手をあて、カトウは大笑する。「だったらいいじゃん。俺、皆の期待とか特別視に応えるつもりないし」

彼の言葉がいろいろ突き刺さる。

そうなるまでの経験を、僕はTとの出会いからの短い期間に積んできたのだ。

ふと思う。オートバイが奪われたあと、カトウは北の街に戻るのを「かったるい」とコメントした。歩いて帰ろうとすれば帰れない距離ではないのに。Tの残した偉業と比べられる場所に、留まらなくても済むのに。

もしかして彼は自堕落な言動に本音を隠し、わざとサウスラングルに残留したのではないだろうかと、僕は考えるのだ。


カトウの部屋を出て廊下を歩く。北塔へ続く階段の「立ち入り禁止」札が業者によって剥がされている最中だった。

油まみれになった階段の、クリーニング工事は急ピッチで行われ、明日から北塔生徒は以前通りの教室で授業を受けることができる。分散して西南北の教室に間借りしていたこの数日は、肩身が狭かった。

階段だけでなく学園の外にも内にも、Tが残していった大量の爪痕。それらの補修費用はすべてカトウが払っている。

訴訟や損害賠償をノースラングルに請求すると息まく者も多かったが、「全部俺が払いますから」とカトウに取りなされ、なし崩しになった。

「あーあ、T先生戻ってこないかなあ」通りすがりの生徒たちの声が耳に届く。「なんでよりにもよってノースラングルなんだよ」

「遠い祖先の鉱泉権と塩を交換した不平等売買の再来だよなあ。今回の異世界転移者の交換って」

カトウによる影の支援を知らない生徒が言いたい放題言うのを聞くと、腹が立つし、悲しくもなる。僕はやはりカトウを心配しているのかもしれない。

「やあ、エバハルト」振り返るまでもなくクレイの声だと分かった。「階段の工事は完了したな。トイレ前の床のほうも終わってたのは見たか?」

「まだ見てないや。激しく燃えて床まで焦げていた場所だよね」

「ああ、高温と閃光を発生させるテルミット反応というらしい」クレイの両手が持ちあがり、目がらんらんと光を帯びる。「テラでは酸化還元の基本的な反応に分類されるそうだ。ここまで科学が発達している異世界なら、マッチや火打石を使わずに着火させることなど、赤子の手をひねるようなものなのだな。毛糸が空気に触れ火をおこしたり、空気中の大量の微粉が起爆剤になったり、おれは被害側の身ではあるが、実にすごいことだと思っている」

「うん、すごいね」

「すごいといえば忘れてはいけないライデン瓶だ。ガラス瓶とアルミ、針金。現地調達の材料だけで、手すりを使う者にショックを与える。テラの原理はことごどく、目から鱗を落とさせるものばかりだ」

「その件はショックを引きずっているから、今はまだ原理まで知る気にはなれないや」

「そうか、そうだな。失敬、エバハルト。それなら謎の素材の瓶と黒い粉の話はどうだろう。カトウによれば素材は『プラスチック』、黒い粉は鉄粉や炭粉、塩の混合物だそうだ。ちなみにこの黒い粉は、先に挙げたテルミット反応の媒体でもあるらしい。密閉したプラスチックボトルに黒い粉を詰める。これだけで人がいるような物音を発生させるのは不思議で奥深い現象だと思わないか」

「うん不思議で奥深いね」

うなずくとクレイの目の輝きが最高潮に達した。鼻から熱い空気を吹き出し、ここからが本題とばかりにまくしたて始めた。

「だがそれ以上に不思議で奥深いものがあるのだよエバハルト、テラにおけるシェアワールド怪談SCPがそれだ。Tの置き土産はたったひとつだが、テラにおけるSCPはなんとナンバー7000まで奇妙なオブジェクトが存在するそうだ」

「へえ」

「だが惜しいかな、カトウは7000の内の10ほどしか覚えていないのだ」

「それだけ覚えていれば充分な気も」

充分じゃないんだよ、と憤慨したように彼は身振り手振りを熱心にまじえてSCPの広がりの重要さを語り始める。

あの夜に負った火傷も回復に向かっており、クレイ=ナハルトは今日も元気で、今日もカイキさんだった。僕は彼を巻き込んだ形になるのだけれども、それを悔いるでもなく、新たな世界の扉を開き、生き生きしている彼を見ることは、本当に救われる。

「……そんなわけでエバハルト、明日の放課後はどうだい」

「ごめん、何の話だっけ」

「懐の広いSCPワールドをひとりでも多くの生徒と分かち合うためのSCP同好会だ」

「明日の放課後はカトウ先生に頼まれごとをしていて」

「なるほど、それは仕方ないな。君が入ってくれると三人になり、同好会申請が可能になるのだが」

「クレイと僕と、あとひとりは誰」

「センタスだ」

新たな世界の扉を開いただけでなく、仲間もちゃっかり確保しているとは。

「エバハルト、君に加入してもらえると嬉しいのだが」

「前向きに考えておくよ。クレイが喜ぶことなら、なるべく叶えてあげたいし」

図書館のカイキさんは、これから図書館のSCPさんにでもなるのだろうか。僕はそんなことを考え、微笑する。


相変わらず就寝前の静寂は守られていない。

寝室からは祈りの言葉が聞こえてくることはないし、食い物は持ち込まれるし、騒ぎの原因である小集団は血気盛んでやかましい。

まあ、僕もそのやかましい一員なのだからでかい口は叩けないが。

「まずい」

「味が変」

「異世界飯の夢がことごとく破壊される」

寝室に持ち込まれた食い物は、インスタント焼きそば。アクシスが手がけた試作品である。

容赦ない批評を下したのは、取り巻きのチップとドライス、そして僕だ。

休み明け、彼らにあらためて名前を聞くのは照れ臭かったが、聞いてよかったと思う。これまで以上に近く感じられたし、こうして数を笠に着て批評を告げる仲間意識も抱ける。

「カトウが言っていた焼きそばだろうがっ」

「いや、でもカトウが言ってた『インスタント焼きそば』は油とソースのコクが縮れ麺をずずっと口にすすりこまれるイメージじゃなかったっすか? これは何というか死んだ油がスープの残骸と合わさって生小麦粉のなれの果てを口の中に注ぎ込まれたって感じっす」

チップは容赦なかった。

「カトウが言っていた『口直しのキャベツ』『なくてはならない紅ショウガ』の代用にぶちこんだ野菜が酷く、調理者にセンスというものが存在するのか疑わしくなる」

ドライスはドライに言った。

アクシスは顔色を赤にも黒にも変化させている。

「麺も加薬も問題だけど、いちばんは味付けだと思う。塩とソースがいちばん不味く感じる配合になっていて、そこに余計な味が混じって、舌の苦行が加速されているんだよ」

「カトウが塩焼きそばとソース焼きそばが、二大焼きそばだと言っていたぞ」

「だからって二つを混合させる必要はないと思う」

「辛子マヨネーズ味が定番だと言っていたから、混ぜた」

「それだけじゃないでしょう」

「スパイシー味って聞いたから、スパイス混ぜて、バター明太ってのもあるから、バターも入れた。バジル味だからバジルも…」

「統一感がないうえに過剰なんだよっ」

「足りないよりはいいだろうがっ」

すっかりむくれたアクシスは、同室のピーターに絡み始めた。

「てーか、なんで手前ん家はアスパラなんだよ。キャベツでも作ってればいいじゃねえか。脳みそサイズがベストサイズ。『旦那、キャベツをこんな小さい内から収穫していいんですかい』『それ以上おおきくなれば、調理に頭が追いつかんではないか』『でもこれ大人の拳ほどしかありませんぜ、旦那』って、そーゆーキャベツをだ」

キャベツがなくて代わりに入れた野菜がアスパラ。たったそれだけの理由で災難に巻き込まれたピーターが、僕にすがる。

「……エバハルト元代表委員……」

「ちょっとアクシス」

「なんだよ」

「やめてもらっていいかな、そういうの」

「そういうのってどういうことだよ」

鼻を鳴らし、長机に足を乗せ、ふんぞりかえった態度に既視感を覚える。

「とりあえず謂れのない悪口。寝室への飲食物持ち込み。それと机に足」

挑戦的な笑みを消さずに、アクシスは「やめなかったらどうなるんだ?」と煽ってくる。僕は間を置く。

「やめてくれなかったときのことは、辛いから考えないでおくよ。

アクシスがやめてくれたときのことなら考える。寝室の規律改善、その指導が誰によるものか伝われば、僕は代表委員に復帰する可能性がある」

ぽかんとアクシスが口を空けた。寝室が一瞬ざわめき、そして止み、空白が訪れる。

ややあって、アクシスが足を下ろした。焼きそばの残りを袋に詰め、戸棚にしまう。チップとドライスの食べかけも一緒に収納していた。むくれた子供のような顔で、僕のおうかがいを待つ。僕は気づかないふりしてベッドに戻りカーテンを締めた。

消灯後まもなく、カーテンが外から揺れた。深く長い溜息のあと、アクシスの声が聞こえる。

「……お前が代表委員おろされたのって、元をたどればTの所為だったもんな。奴がノースラングルに脱走したことで、学校で起こした色々な事件、うやむやになっちまったもんな」

アクシスの言う通り、器物破損、放火未遂、傷害の未遂もすべて、本人不在ということで罪状の顕在化はしていない。カトウの口添えと僕らの説明は、学園長と一部の教師に伝えられたのみで、未だ多くの人間がTを偶像化しているように真実は闇の中に葬られている。

「なにもかも、めでたしめでたしって訳にはいかないだろうけどさ、でもまあ、元に戻りたいと思ってるなら、協力するのもやぶさかじゃねえし」

「あのさアクシス」

「なんだ」

「僕は代表委員に戻りたいなんて言ってないよ」

「……はあ?」

「戻る可能性があるのを示唆しただけ」

カーテンの向こうでゆっくりと人型に集っていく怒気。「ああっ!?」とカーテンが全開にされる直前、するりとベッドから僕は抜け出す。隣のドライスのベッドに避難する。僕の枕を掴んで追いかけてくるアクシス。枕の羽根が散り、枕本体が狙いをはずれて誰かのベッドに飛び込む。なんだなんだと他の生徒たちが起きだす。ランプが灯され、お返しの枕が飛び交い、運悪く見回りの教師が通りかかり「何をやっているんだこの寝室はっ」と怒鳴る。

ほんとうに何をやっているんだか。こんな有様では、僕が代表委員に戻る日など見込めないのかもしれない。

それでも、僕は何をやっていると問われれば、今を楽しんでいると答えよう。いつか父さんが願っていたことを、僕は本心から成しているのだと答えよう。


翌日の放課後。

クレイに告げていた通り、僕はカトウとの約束があった。

「おう悪いな、サイト=エバハルト。今日は街の案内を頼みたいんだ」

「どこ行くんですか」

「ラーメン食いたい」

異世界転移者と学校の廊下を歩いていても、生徒たちから羨望の眼差しは注がれることはない。すれ違ったキワキ先生は事務的に会釈をし、連れの僕にも興味を持たない。

肩の余計な力が抜け、それはそれで悪くない気分だった。

「街にラーメン屋はありません。うかつに異世界のメニューを話すのも控えてください。アクシスがまた張り切るから」

わははっと一通り笑うカトウ。

「ええとなあ、タカシナの奴が転移直後に世話になってた家を訪ねたいんだよ」

「テオの家ですか、どうして」

「まあ挨拶っていうか、同胞がお世話になった感謝というか、フォローみたいな感じでだな……」

カトウがサウスラングルに留まるようになって一週間が過ぎたが、入れ替わりにTが後足でかけていった砂嵐のダメージを僕たちは引きずっている。Tと過ごした時間が長ければ長いほど傷は深い。出会いから客員教師赴任まで甲斐甲斐しく面倒みていたテオのお母さんの、落ち込み具合は想像に難くない。

「それなら地図を書きますけど。僕が同行する必要はないですよね」

「それは、さあ。ほら、まあ俺は元ニートだから。コミュニケーション能力、0どころかマイナスだから。サイト=エバハルトくんにお手伝い頂きたいなあと」

意味は未だ知らないが、カトウがよく口にするニートというのは、pleaseみたいな魔法の言葉なのか。

「僕は道案内だけして、あとはテオと遊んでますよ」

そこをなんとか頼むよと、まとわりつくカトウと歩を進めているうちに、街の広場に出た。

さやさや流れる噴水の水の音はやわらかく、漂う水の粒子もどこか甘い匂いがする。春の訪れを身に感じた。

もう一人の異世界転移者と出会ったときは、息も凍り付く厳寒のさなかだったのに。目を細めて僕は足を止め、時の流れに思いを馳せた。

「どうかしたのかい、サイト=エバハルト」

「僕はここでTと出会いました」

古びた石畳が広がり、噴水の水盤は経年劣化でヒビが生じている。ヒビから漏れる流れが不協和音を奏で、この時間は鐘楼の作る影が、なんとも侘しい雰囲気をかもしだし、人気に乏しい街中の一角。

そこで彼は水の中を見つめていたのだ。

「彼は言っていたんです。どうして人は水の中にお金を投げ込むのだろうか、と」

「あいつが好みそうな文化論だなあ。確かに地球はどこの名所に行っても、水があれば現地の金が投げ込まれているな。発祥はトレビの泉ってやつだったと思う。トレビの泉はコインを投げれば願いが叶う御利益がある」

「でも、トレビの泉以外にも投げ込まれているんですよね? この噴水も霊験あらたかな効果はありません」

「そうなんだよな。謂れがなくても水に関連して、それっぽい場所ならコインが投げ込まれるんだ。

俺の地元に、敷地内で幼稚園も経営している寺があるんだ。幼稚園と寺をまたいで池が造られてて、亀を飼っている。亀の休憩所のつもりか池の中に石がいくつか置かれているんだけどさ、この石めがけてコインが投げられているんだよ」

「それは御利益とかありませんよね」

「幼稚園の児童の情操教育のための亀池だもんな。御利益なんかないし、亀にとっては迷惑だし」

ほんとうに謎だ。Tがテラで学んでいたのは、そういう答えの出ない文化論というものなのか。

「……そういやこんな説を聞いたことがあるな。人との繋がりを感じるから、って」

「コインを投げ込むのと、人の繋がりにどう関係が?」

「ある人から聞いた説なんだけどさ」カトウは噴水の水をすくった。「底に落ちているコインの数と同じだけ、投げ込んだ人がいるってことじゃん」

「まあそうでしょうけど」

「人の数だけさまざまな思いがあるんだろうけどさあ、コインを投げる行為に一貫するのは、願いをかなえて欲しいとか、幸せになりたいとか、浄財の意図を持っていたりする。ある意味浅ましいし、欲深だし、自己中心的だよな」

「……」

「最初の一枚を誰が投げ込んだかは知らないけど、二枚目を投げ込む人は、きっと安心していると思うんだ。ああ、自分以外にもこういう人がいるんだ、良かった、自分だけじゃない」

「水底に沈んだコインの誰かに続けて自分もコインを投げることで、繋がりを感じるんだ」

「俺のいた日本だけの風習かもしれないけど、初詣ってイベントがあってさ。寺も神社も関係なく、特定の日にわーっと人が押し寄せ、賽銭箱に小銭を投入していくんだ。この日以外、神様なんて意識したことない。祈ったこともない。一年で稼いだ額に比べれば、雀の涙にすぎないはした金をうやうやしく放り込んで、どうか私の願いをすべて叶えてください、無事息災を保障してくださいなんて厚かましい以外の何者でもないよな? だけどみんなやってるし、俺もやっている。

俺は思ったよ。別に願いが叶うかどうかは二の次なんだって。

皆が同じだって確認して、同じことを自分もやって、満足して安心するのが、目的なんじゃないかって」

「自分だけじゃないと、満足して安心する……」

「あー、でも勘弁な。人から聞いた説を俺なりに解釈しただけだから、本来の文化人類学とはかけ離れているかもしれない。本来はもっと洗練された意味があるのかもな」

「大丈夫ですよ、少なくとも僕はカトウさんの説で納得しましたから」

僕はふとカトウに問うてみるべきか迷った。その説を語ったある人とはTのことではないですかと。

噴水の像に留まった白い鳥が、羽音をたてて飛び去り、鐘楼の鐘が鳴り響く。金属の共振が水底に到達し、沈んだコインをキラキラさせた。


……Tさん。僕はもう二度と会うこともない人に呼びかける。

あなたの選んだ道は険しく難儀だ。

あなたは孤高の勝利者を望むと同時に、あなたは人との繋がりを求めている。

自分だけではないと安心したいのに、唯一無二の勝者の座を目指している。

かつては僕もそうだった。僕は過去形で、そしてあなたは現在進行形でひとりきりの脚本を綴っている。

脚本家は自分自身、役者も監督も自分ひとりきり――そうして出来あがったものを見る観客もひとりきりだと、あなたは知っていただろうか。

僕もこのあいだまで知らなかった。僕はそれまでずっと、誰とも分かち合っていなかったのだ。

そんな者同士が出会い、接触し、僕は敗北し傷つく側に落ちた。あなたに負わされた傷は深く、永遠に跡を残すだろう。でも僕はそれでよかったと思っている。

Tさん。僕は傷を乗り越える。周囲の助けを借り、誰かと分かり合える脚本をこれから綴っていく。

だからこれが最後の呼びかけになる。Tさん。僕はあなたの武運も願わないし、破滅の期待もしない。

さようなら。


噴水の寄り道を終え、カトウと共にテオの家への道どりを辿る。

目的地に近づくにつれ、彼がそわそわし、顔を手で覆っては盛大に溜息つくのが目に入るようになっていた。医者に連れていく子供のように、足取りがにぶりだす。

「分かりましたよカトウさん。テオのお母さんへの挨拶、僕も口添えしますから」

「恩に着るよ、サイト=エバハルト。お礼に俺のできることなら何でもしてやるから」

「カトウさんに出来ることは、この世界に住む人なら皆出来ることですね。カトウさんに出来て、この世界の住人が出来ないことっていうのは……ないですよね」

異世界転移者の優勢を否定する容赦ない言葉、情けない顔していたカトウは一転、「仕方ねーもん」と開き直る。

「出来ないものは出来ない。力が及ばない部分は誰かの力を借りる。この場合はサイト=エバハルトに助力してもらう。そういう風に世間はできているんだよ。

でもさあ、俺にしかできないお礼、ひとつくらいはあるだろう、なあ? サイト=エバハルト。なんとか見つけておいてくれよ。

ん、そこの家なのか? うん。じゃあノックするから。うん、まあノックくらいは……俺がな」

僕をドアの前に立たせるカトウは、僕の背後から腕を伸ばし、ノッカーを叩く。

(カトウさんに頼むこと)

(……そうだ。エンゼルパイの再現を頼もうかな)

冬からずっと食べ損ねていた異世界菓子。不器用なダメ尽くし異世界転移者でも材料を揃えるくらいは出来ることだろう。味の再現だって期待できる。唾がわいてきた。顔がにやにやだらしなくなっていくのを感じる。

「はあい、どなたですかぁ」

テオの声が響く。パタパタとこちらに近づく足音は、まるで春の足取りみたいに軽やかだ。

僕とカトウの目の前で、ゆっくりドアが開いた。



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