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第四部6

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第四部6


クレイも、名前も知らない下級生たちも一生懸命慰め、力づけてくれた。味方がいる頼もしさが、恐怖を和らげる。彼らの厚意に応えたい。怪我ひとつなく無事に帰還させたい。僕はこの気持ちを脚本内でぐちゃぐちゃ綴らず、こねくりまわさず、ストレートに言葉と行動で報いるのだ。

「みんなには感謝する。感謝の気持ちは僕の言動で返すつもりでいる。でもどうすればいいか、案もないし、現状も充分把握していない。謝罪は試みたけど、無駄だったのは報告しておく」

「そうか、謝罪は効果がなかったか」クレイが眉を寄せる。「では彼は意図を持ってここに君を引き寄せ、最終決着の場にしようと考えているのかもな」

「決着の場……」

「おれたちがここに到着し、Tは入れ替わりに去っていった。おれたちは教室の現状を急いで把握し、君の目を洗う為、水を取りに一階へ降りようとしたが、辿り着けなかった」

「どういうこと」

「油まみれだった、階段が」下級生のひとりカイラは、初期から同行していた内のひとりだ。

「一階の階段が特にひどくて油の海だった」ルイセは、カイラと双子の呼吸で会話をする、これまた初期組のひとりだ。

油漬けにされた階段……ラングルフォートの裏口を通行止めにした油攻め事件を彷彿とさせる。Tが去り際の短時間で油びたしにするには、入念な下準備が必要だったはずだ。最終決着の場というのは核心をついているのかもしれない。

目はまだ少し霞んでいたが、教室を出て確かめてみる。動くたび「こっちを忘れるなよ」とばかりに、右足の爪の痛みも訴えてくる。

念のためハンカチで巻いてから、階段の手すりを掴む。トラップはないようだ。

足の幅の段は、端から端、上から下まで油にまみれていた。靴の底を濡らし、油断すれば足を滑らせる。逆に言えば用心さえすれば通行は可能だし、隔離、孤立の決着の場としては不完全だ。

「ずっと包帯を変えていないが、足は大丈夫か」

クレイの心配をありがたく受け取り、僕は行けるところまで降りてみようと進言する。怪我があろうと、視界が不完全だろうと、奴の思うままになる気はない。

「エバハルト先輩、目がまだよく見えなかったら、ぼくの肩に掴まってください」

小さなセンタスは、繋がれていた生徒だ。首の跡は痛々しく、身長も僕の胸くらいまでしかない。学園内でも最年少に近いんじゃないだろうか。

「ありがとう、いたわってくれて。でもセンタスも自分をいたわってあげて。君だって被害者だったんだ。辛かった記憶、心細かった体験が傷になっている」

小さな少年は、肩を揺らし戸惑っている。

「みんなで協力して君を助けた。こんどはここから脱出する。皆の力を合わせる必要があるだろう。僕は怪我人で視界もおぼつかない。でも出来る限りのことはする。センタスも、無理しない範囲で協力をしてくれればいい」

意図を呑み込んだのだろう、少年は安堵の笑みを見せた。

年上の面子ではない、代表委員の義務だからでもない。僕はそんなものに拘らず、生まれて初めて人をいたわったのではないだろうか。

「もうすぐ二階の教室です、気を付けて」

「油の海にくるぶしまで浸かります、注意して」

ルイセとカイラに緊張の色が混じる。彼らの名前を僕は、センタスと自己紹介を交わすときに聞いて、心に留めていた。双子のような口を利きながら、まったく血縁関係のない不思議な二人を、僕は、寮監代理だからではなく、年上だからでもなく、ルイセとカイラだからこそ怪我ひとつしないでほしいと願った。

用心しいしい、四階から二階まで降りてきた僕たちは、警告の内容を目の当たりにした。

二階の教室まえの廊下に、油は液体ではなく粘物の固まりとして陣取っているようだ。何か混ぜ物でもしているのだろうか、濁った色の固まりは靴が浸かるほどの高さがあり、うかつに足を踏み込めば、僕たちはハチミツの罠にひっかかったアリと変わらなくなるだろう。

下を見ると、厚い油の層は二階の廊下から15段下まで階段をすっかり覆っているようだ。接続している本館の廊下までは油の脅威は届いていないようだが、照明の消えた真っ暗な廊下には油以上の脅威が待ち構えているかもしれない。

「教室は大丈夫だった」二階の教室を調べ終えたクレイがドアから顔を覗かせた。「中に入ってくれ」

教室に入り、ドアを解放したまにする。階下で動きがあればすぐ分かるだろう。しかし大量の油……Tの真意は何なのだろう。僕は火をつけることくらいしか思いつかない。クレイに直実に打ち明けてみる。

「火責めの可能性は確かにある。危険を冒して二階まで降りてきたのはそれへの対策も兼ねている」

ああ、と僕は手を打つ。

「たとえ火をつけられても、二階なら窓から脱出できるね」

「それともう一点、油の具体的な量や種類を観察する意味もあった。おれの見た限り、油は食物用の廃油だ。大量の油は滑床の害をもたらすが、同時に、大量すぎることが放火の害になりにくくする」

「ごめん、頭がまわらない」

ハッとクレイが口を押える。横を向き、頭をかきかき「直したつもりで直っていないんだな、この癖は」と自嘲的につぶやく。

「鍋に油を注ぎ、油の中に点火したマッチを入れる。マッチは消える。冷たいままの油は火を点けても燃焼する力がないからだ」

「うん」

「鍋に入れた油を熱し、クロケットを揚げられるぐらいに熱くする。ここに点火したマッチを入れれば、たちまち火の海になる。温かい油は燃焼を加速する力を持つ」

「油の温度が重要なんだね」

「そうだ。温まった油が、燃焼温度に達しているかどうかが重要なんだ。

階段の広範囲に冷たく溜まったままの油は、松明を近づけようと火矢で打とうと、一瞬で燃え上がるようなことはない。温まった範囲から、じわじわと燃えあがるしかない。着火せずに消える可能性も高い」

「分かりやすい説明、ありがとう。廊下や階段が一気に炎の海に包まれることはないって、分かったのが有難かった。理解しやすく言い換えてくれたのにも感謝するよ」

柄にもなくクレイは照れ、背中がかゆい人みたいな仕草をする。

「ま、まあ、その……自分勝手に理論を述べ満足するよりは、やっぱり、人に判ってもらう方が快感だと知ったからな」

こんな場合だというのに、僕は心を和ませていた。

ふいに、アクシスの取り巻きが言っていたことを思い出した。

『せっかく言ってもらってるのに、すいません。おれ、せっかちな性格なんですね、きっと』

比較的まともな性格の彼が、アクシスなんかと一緒にいることを、僕は非難口調で論じた。

今となっては顔から火が出るほど恥ずかしい。最初から100%を求める僕に、胸襟をひらく相手どころか、親友と呼べるものが出来るはずもなかったのだ。気づかなければ、僕は孤独の王として一生を過ごしていたかもしれない。


クレイの指示を受けた下級生たちは、教室内をせわしなく動いていた。

ルイセとカイラはせっせとカーテンを外している。センタスはバケツを窓の外に向けて、雨水を集めている。

満水になったバケツに、外したカーテンを丸めて沈め、濡れカーテンを何枚も僕とクレイは用意した。

また、カーテンの一部は裂いてロープ状に結び、窓からスムーズに降りられるよう準備した。

開け放したドアから伺う階下は、動きが生じる様子はない。

たとえTが、異世界最先端の着火器具を用意しているとしても、準備段階で音なり気配なりで察知できるだろう。たとえ器具が大きな炎を起こそうと、大量の食物油の燃焼温度が壁になり、一気に燃え上がることは決してない。

いざとなったら窓の逃げ道もある。

だから大丈夫だ。

そう言い聞かせるが、鼓動はなかなか落ち着いてくれなかった。不安の爪が後ろ髪を引っかけてくる。

「そうだ、エバハルト。いまの時間は?」

クレイに聞かれ、僕は壁の時計を読み上げる。夜明けまでまだ五時間あった。

「アクシスが出かけてから三時間か。往路でアクシデントがなければノースラングルに到着している頃だとは思うが、復路を考えるとまだかかるな」

積雪時は難儀だった北の街への道も、今はそのくらいの時間で通れるようになっていた。

豪雨のなか出かけて行ったアクシス。彼はノースラングルへ行ったのか、目的は何なのだろう。

「……アクシスには、ある人物を迎えに行ってもらった。おれたちでは対処できない現象に、対抗できる唯一の人材」

「対抗する力を持つ人。それは誰?」

「君もおれも、ラングルフォート学園の生徒も、サウスラングルの民も、誰もが知っている有名人だよ」

ノースラングル住みのそんな有名人、思い当たるところがない。アクシスは誰を迎えに行ったんだろう。その人物は果たして現状を突破しうる鍵になるのだろうか。

現時点で打てる策はすべて打ち、全員でプランの確認をする。クレイが口を開いた。

「プランAは、Tに動きがあったとき、各々定めた方法で対処する」

カイラが手を挙げる「はい、火の手があがったら消火」、ルイセが続き「二人で濡れカーテンを広げて対処」、センタスが「手に負えないと判断したら窓から脱出」と、年下の少年たちは頼もしく言った。

「窓から脱出する方法はプランBとしておくね」僕は言った。「プランBは手に負えなくなった場合の他に、朝の五時半を迎えたときも自動的にこれに移行する」

なんで五時半? と年下の三人は不思議そうに顔を見合わせる。

窓の外、すなわち塔の周りは崖状になっていた、悪天候があいまった今、状態は最悪の底を呈しているだろう。

携帯ランプの燃料は救助や作業の際に使い切っていた。目視の効かない中での避難は危険すぎる。

僕とクレイが話し合い、安全と怪我をする恐れ、Tの巻き添えになる危険、日が昇る時刻などを秤にかけ、譲歩に譲歩を重ねたのが五時半だった。晴天なら太陽が昇る。雨天でも、怪我せず脱出するくらいには明るくなるはずだと期待して。

噛み砕いて説明しながら、時間は夜明けまであと二時間というところに迫った。

Tが動いた。階下に生じた白い影に、僕とクレイは教室を飛び出し、油の海の際に立って見下ろす。

薄暗い廊下に佇むTの姿。白衣を羽織り、右腕には上着のようなものを抱えている。反対側の手にはちいさな紙袋を下げている。

こんな状況でなければ、教え子のため教室に向かう教師そのものだっただろう。

そしてあまりの無防備な軽装さに、僕はりつ然としている。

マッチやライター、もしくは火炎を放射する異世界の装置などを持ち出してくれたほうがまだ、肝を冷やさずに済んだことだろう。

ターゲットを追い詰めるためなら、布石を惜しまず、準備を怠らず、掌の上で泳がす仕組みをも構築させる異世界転移者のT――彼がかつて言っていた「鋭い刃物より鈍い刃物が恐ろしい」――だとすると脅威のかけらも害意の片鱗も見せない今の彼が、いちばん恐ろしいのではないか。

脳が今までにない早さでめぐる。足元に打ち寄せる大量の油。僕を引き寄せる罠。隔離させ、最終決戦の場と決めたこの場所。火の海になる可能性は低いとクレイは推論した。僕たちよりはるかに知恵を持つ異世界転移者の彼が、それを知らない筈はない、一度はその懸念を持った僕は、どうして心を開ける友人に打ち明けなかったのだろう。ああ、どうして……。

最大級の悪寒が僕の背を下り、膝が凍り付き、肺が霜で覆われ、立つのも喋るのも困難に陥った。

「……あ、油。油を……」

「どうしたエバハルト」

「僕たちの知っている油は冷えていると燃えない……でも、もし異世界に冷たくても燃える油があれば……燃焼温度が低い油を作ることができるなら……」

サッとクレイの顔から血の気が引いた。

僕たちはまたもやTの掌だった。かつての現象、裏門にまかれた油は、食物廃油だった。あれは追い詰める布石のひとつであり、同時に思考を水路付けする罠でもあった。

「プランB!」

切羽詰まったクレイの叫び声に、教室に待機していた下級生たちが飛び上がり、ドアを閉める。あとは計画通り窓から脱出してくれるはずだ。

同時にそれは、Tを行動に移させる合図でもあった。白衣の左手が翻り、紙袋の中身がぶちまけられる。軽く細かい粒子なのだろう、小麦粉かもしくは粉砂糖か。空中を舞い、階段が白く覆われ、それは僕たちの高さまで届いた。たちまち鼻がむずむずしはじめ、喉がいがらっぽくなる。クレイが腕を伸ばして僕に触れた。

「シルエットは下で動かないままだ。奴はまだ階下にいる」

カプサイシンで視界が万全でない僕をフォローしてくれたのだろう。

バンと音がしドアが全開になる。下級生三人がひきつった顔して、廊下にまろびでる。なぜ逃げないっ、とクレイが動転して叫んだ。震えておぼつかない下級生の指が示すのは、教室の窓の外。崖の下に見おろす木々は、禍々しいばかりの赤い光線を、縦横に張り巡らせていた。一見、無作為に交わっている赤い光は、今の僕に、そして追い詰められた下級生に、あるものを想起させた。

(……文字)

(赤、光、熱線……Eの文字……)

視界の端で動くものに、僕はハッとした。窓の外から、階下に視線を戻せば、Tの右腕がフォームを描き、彼の上着が放り投げられるところだった。放物線を描き、階段の四段目ほどが放物線の頂点だろうか、あとは油の海に落ちるだけの存在に、僕は胸騒ぎがおさまらない。息ができず、耳鳴りがうわんうわんサイレンのように響き渡る。

何かが起こる。予感に空気と体がこわばりつく。

白い上着、毛糸素材のおそらくセーターか何かだろう。それは白い粒子が滞空する空間で、突如、膨張した。威嚇する猫が全身の毛を逆立てるように、毛糸の上着がぶわりと膨れ。表毛が一斉に逆立ち、極細の繊維を天に向け、微粒子の粉と反応し、火花を発し、青白い炎をまとうのを――僕の壊れんばかりに見開いた瞳が見ていた。

セーターの化学反応に呼応し、油の海が拍手喝采を鳴らす。少なくとも僕にはそう聞こえた。炎上を歓喜で迎える悪魔の拍手――。

白閃が目を射抜き、油の海面がまばゆく輝く。燃え立つ油の表面は、まるでよく訓練された猟犬のように一陣のラインを駆けのぼってくる。

大量の廃油の中に巧みに隠されていた「低燃焼温度の油」は、階段の2/3をまっすぐに燃えながら登り、残り五段のところで二股に分かれる。

僕とクレイを狙い撃ちするように。

Yの文字を描いて終止符を打つように。

閃光が頭上で炸裂し、空気中の粒子が火花で連結し到達すると、間髪入れずに、炎の猟犬が目標物にとびかかる。その0.1秒前、立ち尽くす僕の体がぐいと引っ張られた。クレイが僕を後ろに下げ、下級生ともども壁に押し付け、自分は僕らの前に両手を広げ立ちふさがったのだ。

白熱する光の渦、小爆発を連面と受け継いだ集大成の大爆発、そして油の燃焼力で力を付けた炎熱、三面からの攻撃にクレイの体が光に包まれる。

「……あ、ああっ……」

まだ目が眩んでいた。耳がキンと麻痺していた。

ただ手が触れていた。油にまみれた床に落ちた眼鏡に。

背中が気配を感じ取っていた。吹き飛ばされ壁にぶつかり、倒れ伏したままピクリともしないクレイの気配を。


世界は一変していた。

空気中の白い粉は一掃されていた。代わりに飛び散った油が壁や天井、手すりにおぞましくどす黒い模様を作っていた。

階段下から二階へ、Yの文字を描いたラインは未だ燃焼している。周囲の廃油がじわじわと温められ、嫌が応にも上昇する温度は、僕に多量の発汗をうながす。パチパチと空気が揚がり、不純物が跳ねる油面の雑音が、僕の精神に刺さる。

背後の下級生たちは壁に接して団子状になったまま、ショックが抜けず動けないでいた。

炎が照明の代わりを果たし、階下の姿がよく見えるようになっていた。こちらを見上げるTの顔。勝者の笑い。

「これを、ゲームだ……勝負だなんて定義したくはないけれど……そういう視点で結論を出すなら、負けたのは僕だ……いわゆる敗者というやつだ……」

Tが顔は向けず瞳だけ動かし、こちらを注視する。

「僕は負けた。でも……あなたは勝ったんだろうか……Tさん」

今まで一度も浮かんだことのない色が、彼の顔に生じる。

いや……僕は前にもこの色を見たことがある気がする。

僕の声はTに届いているのだろうか。聞こえているのだろうか。炎の燃え盛る音が大きくなり、黒煙の量が少しずつ増し、彼の姿をかき消す。

煙を少し吸い込んでしまった僕は咳をする。

周囲の燃焼音は止まず、まるで僕はクロケットになって調理中の鍋にいるみたいに、あちこちで油の泡が弾けるのを聞いている。僕の声は届かなくてもおかしくないだろう。でも喋るのを止めようとは思わなかった。

「友人に指摘されたことがある。僕はワンハンドポーカーのルールを守っていないのだと。

相手が額にくっつけ提示するカードを、僕は一方的に見るだけで、僕のカードは見せていないのだと。

なんだそんなこと、と僕は分かった気になった。カードをちゃんと見せている振りをした。僕は最後の最後まで、指摘を正しく理解していなかったんだ。ルールを守らぬ理不尽を、皆に押し付けてきたんだ。僕は、やっと、やっと……気づいた」

温度を増す熱気が産毛をチリチリ焼く。

焼死の二文字が頭をよぎる。黒焦げの僕の死体は、SPCの存在感をより濃くするのだろうか。糸屋の娘。それはただの輸入物ではないのかもしれない。もしかしてT自身が創造したのかもしれないとふと思った。

「気づけたのは、Tさん、あなたに負けたお陰だ」

ぶわりと黒いものが下で広がる。それは火災で生じた煙が澱んだだけなのかもしれない。けれども僕には、彼がずっと堰き止めてきた感情の、封印が解けて溢れ出してきたように感じた。

ぽっと下に明かりが生じる。小指の先ほどの青い炎が立ち上っている。教壇に立っていてもおかしくない穏やかな顔が、ライターの炎で青白く照らし出される。

油の表面がざわめきだした。海でおぼれた亡者が海面に白い手を突き出すように、波を立て、表面にうなりを起こす。

唾を飲み込み、僕はクレイを後ろに押しやった。足を引きずり下級生たちに近づき、盾の役目を万分の一でも果たすことを切望し――歯を食いしばった。


雨音を裂き、地を割り、壁を揺るがす音響が出現したのはその瞬間だった。

脳をシェイクし、耳の血管をぷちぷちさせる、それは前代未聞の爆音で、山の真っただ中を突き抜け校舎に接近してくる。

工場で淡々と働く機械の音を思い出すと同時に、野生の暴れ牛を連想させる、人工と野生、正反対のものを強引に合一させてしまったようなこの爆音の正体は何なのだろう。

間髪入れずに、激音が炸裂する。これまでの音が波状で空気を割ったとすると、これは棘だ。全身を不可視の槍が通過していく錯覚に、脳がくらくらし、体がよろける。棘の激音が過ぎていったあと、豪雨は続いているにもかかわらず、工場の機械と暴れ牛のタッグも顕在だというのに、僕の脳は静まり返ったと錯覚してしまっている。

「おおーい」闇を渡り、緊張を砕く、なんとも呑気な声。「高科だろう? 俺だよ、加藤だよ」

高科って誰だっけか。思い出すのに少し時間がかかった。

そうだ、Tの本名だ。

カトウというのは、確実に知らない人だ。

「っても、とっても短い一時期だけ同級生だった俺のことなんて覚えてないだろうな、はははっ。でも俺は、この世界でお前に再会できてうれしいよ」

悪天候、停電の学園、油にまみれ出火している危険な環境に、なんてあけすけなんだろう、なんて朗らかなんだろう。僕は場違いを咎めるより先に、そんな風に感じていた。正体不明のカトウの声が、親近感に満ち溢れているからだろうか。

しかし階下の気配はちがったものだった。空気が固く収縮し、息を殺しているのが感じられた。まぶしい太陽を見つめた嫌光性の生物が日陰に潜るように、タッと廊下を蹴る冷たい足音は、カトウからも、ターゲットの僕からも遠ざかっていく。

「今からそっち行っていいか。……ってどこから入ればいいんだろうか。非常灯も点いてないみたいだな。なあ、アクシスくん。山道案内の続きで、学校案内を頼むよ」

アクシス。

その名に僕の体は弾かれたように動き出す。教室の窓に飛びつき、僕は大声を張り上げる。

「アクシス、こっち、北塔の二階の教室」息を深く吸い、情報を正確に伝えるため呼吸を整える。「外側は正体不明の赤い光線が走っている、危ないかもしれない。中は階段が油まみれで火もついている。気を付けて」

ついでに僕は教室の隅に落ちていた濡れカーテンを拾い上げ、火の強い箇所にかぶせて処置する。

「ああ、これはひどいなあ」まもなく階下に二つの人影が駆けつけてきた。二人のうち初顔の青年が腰に手を当て現場を見回す。「下のほうはこっちで消火しておくよ。君たちは二階の窓から脱出できる?」

声から判断すれば、この人がカトウなのだろう。もうひとつの人影がアクシスだったので、消去法で青年がカトウなのだと判断もできる。

だがやはりカトウ青年と僕はまったく面識がなかった。

アクシスは険しい雨の山道を、面識がない青年を迎えに行ったというのか。

「ああ、自己紹介がまだだったな。いきなり登場した怪しい人間のいうことなんて、信じられないよな。

俺は加藤陽兵。あいつと……高科と同じ、地球の日本ってところからの異世界転移者だ。ここといってもノースラングルの方にな」

山を越えた北の街ノースラングル。僕らの住むサウスラングルと仲が悪いが、そこに居ることは誰もが知っている――もう一人の異世界転移者。

あっ、と叫んだ僕は口の閉じ方を忘れてしまう。

『おれたちでは対処できない現象に、対抗できる唯一の人材』

『君もおれも、ラングルフォート学園の生徒も、サウスラングルの民も、誰もが知っている有名人だよ』

……クレイ! 背後のクレイを思わず振り返る。彼はゆっくり意識を取り戻しながら身を起こしている最中だった。

「それで話の続きだが、二階の窓から脱出できそうかな。怪我人いるみたいだし、難しい?」

「……いえ、おれは動けますから」眼鏡のすすを払いながら、クレイが答える。「ただ塔の外は足場が悪く、日の出もまだ迎えていないので危険です。それに心理的な抑圧もあって難しい」

「暗い点はなんとか対処しているから、用心深く来てもらえればと思う。心理的な抑圧ってのは何だろうか」

唇の火傷で声が引き攣れてしまっているクレイに代わって、僕は下級生が怖がっているSCPについて説明する。

「SCPか。なるほど、SCPをこの世界で広めようだなんて、やるなあ高科」カトウの顔はにまにま緩んでいた。「情熱的な糸屋の娘かあ。人体発火事件と結ぶなんて面白いよなあ」

僕らはリアクションに戸惑うしかない。悪い、悪いとカトウが階段下から声を張り上げる。

「そいつ絡みを恐れて、外に出れない、二階から脱出できないってことでいいんだよな?」

「はい……」

「だったら俺はSCP682を引っ張り出してくるよ。その名も不死身の爬虫類。SCP本家のルールで、こいつより強い生物は存在してはならないから。たわし型生物なんて、一口で食われて終わり」

「……は?」

「もしくはSCP096もいいな。タワシちゃんに『シャイガイって人がねえ、SCP10047なんて居るわけねぇって言ってたよ』と囁くんだ。あらゆるものを突き抜ける熱烈な目線を送るタワシちゃん、それをシャイガイさんは『見られた』と判断するのか、いやあこれはオッズを出すのも難しい名勝負ですよ」

「……」

「元祖のSCP173に登場してもらうのもいいな。まぶたを閉じた状態のタワシ生物と、見られている限りは動かない殺戮彫像の173。これ実際どうなるんだろうなあ。タワシと彫像二人きりになった直後、タワシが肉塊になって終わ…」

「あの、ちょっと。すみませんカトウさん」

僕は熱っぽい語りに水を差す。下級生の様子を見ると、予想通り年下の少年たちはぽかんとしていた。

「窓から脱出、できるよね?」

念のために確認すると、みんなコクリを頷いた。

これはあれだ……作戦なんだろう。恐怖の対象よりはるかに恐ろしいものを当て、現在の恐怖を矮小化してしまうという。

「大丈夫です、皆、二階から脱出できます」

「おお、そうか。了解、用心して脱出してくれよな。こっちの消火は任しておいてくれ、おい、アクシスくん。水道とホースがある場所を頼むよ」

アクシス。僕は階下に目を凝らす。壁に手をつき、中腰体勢でぐったりしているシルエット。全身を小刻みに震えさせ、地獄の箱を開けて、命からがら逃れてきたような顔色をしている。信じがたいが、彼がアクシスだ。

カトウに水道の案内を迫られたアクシスの反応ときたら、軽い調子で「もう一度地獄見物に行こう」と誘われたかのようだ。

「あ、あの大丈夫? アクシス」

思わず声が出た。前髪が目を覆うほど深く垂れていたアクシスの顔が、こちらを向き、乱れた髪の間から壮絶な眼差しがのぞいた。

「……さ、サイト=エバハルト。お前が見送りに来なかったら…殴ってるところ……だった……」

お前だけに見送られるのは嫌だと拒絶した癖に、見送りしなかったら殴るって、どういう矛盾なんだ。


カーテンを裂いて作ったロープを、僕が一番乗りで降りる。塔周辺の土壌が、スポンジのように足にめり込む。雨は弱まっていたが、土は保水限界まで水を吸ってしまっているようだ。二番手に降りてくる下級生に警告を投げ、僕は靴幅ほどしかない塔周りをじりじり移動する。

雨粒のあいだを縫って届く、強く白い光があった。カトウさんの言っていた対処とはこれのことだろう。本館前から僕の居る位置まで、貫く一陣の光は、足場の悪い中、僕たちの頼もしい目印となってくれた。固い地面に下級生たちが辿り着き、クレイも足を引きずりながら無事着く。

そして僕らは道しるべになってくれた不思議な物体を、五対の目で観察している。

自転車を一回り大きくしたようなそれは、雄牛が唸るような音を立てていた。乗り物自体が常に振動しており、雨粒を金属の本体が震えて弾き、霧状の雨を全身にまとわりつかせ、初見の物体の神秘性を高めるようだった。

件の光は、ハンドルの中心部分から前方を照らすように据えられた半球の物体が、放っていた。

「これ、あれかな。ノースラングルで開発したけど、サウスラングルでは作れなかった乗物」

「市長がお願いしたけど、駄目だったっていう、自動二輪の乗り物、オートバイ」

カイラとルイセの会話に、僕も思い当たる。そうか、これがあの噂に聞いた乗り物なのか。

前後のタイヤを見る。弾力ある木でできた幅の太いタイヤは、車体の体重をずっしり受け止め、悪路でも山道でも強引に踏破できそうだ。現に、下の山道に、突き破った藪のあと、折れた小ぶりの木などが散見できる。

「漕ぐ必要がなく、登りでもスピードが落ちないなら、アクシスが早く戻った理由も分かるな」

関心しながら車体を見渡すクレイ。スピードに魅せられたのか目が輝きを帯びるが、僕は乗りたくないと思った。

「二人で乗ってきたんですよね、これ。ぼくは乗りたくないなあ」

センタスも僕と同じことを考えていたようだ。皆の視線が運転席とその後ろに注がれる。手前側の運転席は革張りのクッション製だが、二人目が乗ると思われる後ろの席は、言うなれば、鉄の格子のちんけな棚だ。そこに座り山道を踏破することを想像したのか、皆の視線が同情の色を次第に帯びてくる。

矛盾を思わず放ったアクシスに、僕は納得いった。


カトウさんとアクシスの元に着いた時、階段の消火はほとんど済んでいた。とにかく濡れカーテンを積み上げていく作戦に出たらしく、廊下の窓は丸裸になっている。鎮火にほっとした半面、大量の油や外された備品、この後片づけはどうなるんだろうか、事後処理を考えようとするも、頭が切り替わらない。何かが後ろ髪を引っ張り、注意を促すようだ。

「招致に応じていただいてありがとうございます、カトウさん」クレイが進み出て話しかける。「異世界転移者のあなたなら、謎の瓶と黒い粉と異音の関係――電流のガラス瓶――発光の正体を解明してくれると期待しています。ええとあとは、弾けるように燃焼した現象と、ああ他にも沢山知りたいことがっ」

ぶりかえした立て板に水状態のクレイ、消火の余波で髪やら服のあちこち濡らしているカトウさんが気さくに応じている。弾む二人の会話。

「……なあ、エバハルト、聞いたか。発光文字はエナジードリンクで出来るんだそうだ、興味深いよなあ」

感動極まらんばかりのクレイの声が僕を向く。僕も正体を知りたい現象はあるが、今はそちらに注意を向けるべきじゃない気がしてならない。

「アクシス先輩、大変でしたね」

「Dレッドアイの件で怒ってすみませんでした」

ルイセとカイラは、へたばったアクシスの世話をあれこれ焼いて謝意を示していた。

「……手前は初めて見る顔だな」

「センタスです。エバハルト先輩に助けてもらいました」

「下級生は三人いたのか……あー、そういやどっかで聞いた気がしたな。忘れてたけど」

忘れている……僕は、僕たちはその渦中にある気がしてならない。僕たちが失念しているものとは……。

見えない音の圧が、ガラスを震わせ、壁を突き抜ける。ビリビリ足元から立ち上る棘状の音は、ただの起立すら困難にさせる威力がある。

「この音……っ!」

二度目でなければ、僕は立っていることも難しかっただろう。そう、この音を僕は少し前に聞いているのだ。

「俺のオートバイのクラクションじゃん」

カトウが、正門のある方角を向いてつぶやく。明かりを灯し、雨に打たれてぶるぶるしていたオートバイを僕は思い出す。

唐突に音が止む。津波の前後に海の水が大きく引くように、夜明け前の学園はクラクションの一打の直後、ぽっかり沈黙の底が生じていた。

次に起こることを誰もが身構え、針の落ちる音すら聞き逃さないくらいに固唾を呑んでいた。


「誰が何と言おうと、これだけは間違いないことなんだ。動かしようのない事実なんだ。

自分以外のすべてを負かせば、必然的に自分が勝者となる。だから僕は今まに負けたことはないし、これから先も負けないんだ」


直後、耳鳴りを誘発する爆音がひと唸りし、ぬかるんだ泥が大量にまきちらされる水音が混じった。

のちにカトウが「オートバイのエンジン」と教えてくれたエンジン音は、茂みを割り、枝を打ち倒し、あっという間に遠ざかり聞こえなくなる。

それがTが最後に僕に残した言葉だった。

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