第四部3
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第四部3
僕の右足の親指の爪はぽっかりなくなっていた。患部に衛生テープをひと巻きする。
盛り上がったピンクの肉に、じわじわ滲む朱色の出血が隠れ、一息つく。
しかし、右足に体重をかければギクリと意気をくじく痛みは継続し、テープにじわりじわりと染みだす微細な出血は、僕の気力を削り取っていくようだった。
「その上から包帯を巻いておけば、ソックスまで血がにじむことはないだろう」
保健室までひとっ走りし、衛生テープと包帯を持ってきたクレイから、僕は包帯を取り上げる。
「自分でやるよ」
他人にやらせるより、痛みの波を把握している自分で巻いたほうが、痛みに呻く姿をさらさずに済む。
「んで、お前の足の爪を剥ぎ取っていったのは誰なんだよ」
アクシスが焦れたように聞く。僕は不器用に包帯を巻きながら、見ていないと答える。
「下級生二人を突き飛ばして、廊下に逃げていったけど」
「お前ら見てたのか」
二人の下級生は椅子を寄せ合って座っていた。
「暗くて……あまり」
「突然で……ほとんど」
視線を泳がせ、誰とも顔を合わせまいとする態度が気にかかる。
とにもかくにもこの部屋は、ベッドの下も上も調べつくし、ほかに隠れている人間がいないことを確認した。
問題は隣の部屋だ。下級生が「ベッドの下に誰かいる」と放棄した隣の寝室にも「誰か」がいるのなら、ラングルフォート学園は今夜、二人以上の不審者がうろついていることになる。
よりにもよって寮監の教師が不在のこのときに。
隣の部屋はモップの封印を外し、ドアを開けっ放しにしてクレイが見張りに立ち、アクシスがベッドに屈みこんで探索する。
「誰も居ねえ」
すべてのベッドの上と下を探し終えたアクシスが断言した。複数犯よりは単独犯のほうがまだ安心できる。
「こんなもんがベッドの下にあった」
アクシスが持ち帰ってきたのは、透明のボトルだった。
手に取ってみて、あれ、と僕は思った。
「ガラスじゃないんだ……これ。透明なのに。それにすごく軽い」
それは大人の手の、中指の先から手首くらいの高さをしている。片手で握れば半周できる直径の「分からない」素材の瓶は、透明のボディ、オレンジの蓋、中は底にかぶる量の粉が入っている。
「中身は金属の粉っぽいな」
クレイが掌にひろげた粉末は、赤褐色の黒が強目のものだ。金属特有のにおいがある。
「ガラスよりも柔だな、これ」
アクシスがボトルを握った右手に力を込めると、ボコォともグシャともつかない音がした。
あっ、と二人の下級生が同時に声を上げる。
「その音、ベッドの下で誰かが床を殴った音だ」
「その音、ベッドの下で誰かが何かを壊した音だ」
僕たちはひとつ解答を得た。下級生が耳にした音はこれだったのだ。
しかし、ひとつの解答はさらなる疑問を生じるさせる。
「誰か」はわざわざベッドの下に潜ってボトルを潰したのか?
「誰か」はいつどのようにそこから脱出し、僕に襲い掛かったんだ?
こつこつ、とクレイ=ナハルトが不思議な素材のボトルを爪で叩く。
「こういう不思議な素材の道具を持つ人間は、限られていると思うんだ。君たちは知っている顔を、本当に見なかったのかい?」
再度問われた下級生二人。
「……見てないよ」
「……暗かったもん」
彼らは信じたくないのだ。信奉の更新をしたくないのだ。そして僕も、悪い予感を受け容れたくない。
暗かった、と言えば照明だ。ガス灯の元栓を見に行ったアクシスは成果をあげずに戻ってきたのだ。報告を聞かねばならない。
「ガスの栓は全壊だ。ありゃひねっても回しても点かねえ」
アクシスの報告を、僕はどこかで予測していたのかもしれない。下級生二人は不安そうに壁のガス灯を見上げる。
「明かりが復旧する見込みは立ちそうにないってことだね。それだったら、無事なランプのガスがあるうちに、避難するプランを考えておこうか」
雨は相変わらず強いが、風を伴っているわけではない。レインコートと長靴で重装備すれば、街まで着けないこともないだろう。現状で確認できた強盗とおもわしき侵入者はひとりであるが、二人以上でないと確証はない。下級生を抱えていることだし妥当なプランだと僕は思っていた。
「そのプランだが、白紙に戻したほうが無難だ」
険しい横顔でクレイが言う。タオルを首に巻いた彼の、首の裏側や髪に泥の跡が残っているのを見つけ、正門に関する報告もよくないものだと直感する。胸が苦しくなった。
「正門周辺、ランプで照らせる範囲はすべて土砂で埋まっていた。相当に大規模な土砂崩れだ。夜間で目が効かないあいだは強行突破は避けるべきだとおれは判断する」
「あの轟音は山が崩れて、土砂が落ちた音だったんだね……」
声が沈み、気持ちが重くなる。正門は土砂崩れ、裏門は油まみれ、土砂降りはひどくなる一方で、僕の閉じ込められた箱は外から際限なく痛めつけてくる。
「明るくなりゃなんとかなるだろ。教師も街から戻ってくるんだろ」
「あ、うん、そうだった。代理の教師が監督に来てくれる手はずだった」
「代理の教師が正門を通ろうとすれば、土砂崩れに気づき、撤去なり救助なりを依頼してくれるだろう。それなら勇み足はせず、籠城に徹して一夜明けるのを待つのが良策かな」
クレイが室内を見渡す。ドアはひとつ、窓もひとつ。ベッドもある。洗面台からは水も湯も出る。一晩すごすには十分すぎる設備だ。
「なるべく部屋の外には出ない。出るときは遠出しない、行動時は二人以上でペアを組む。こんな感じでどうだろう」
「いいんじゃないかな」
方針を定めることで、全員の表情がしゃきっとした。
見知らぬ生徒の寝室が、一晩を過ごす安全地帯にとって代わり、安心感がもたらす温かさが心地よい。
下級生ふたりが、窓際の洗面台に集っている。頭をくっつけんばかりにして、一つしかないコップを取りあう様子が微笑ましい。
僕もすこし喉の渇きを覚えていた。次にコップを借りようかな、そう思い立ちあがりかけたときだった。
金切声があがり、ブリキのコップが床に落ち、泡を食った下級生二人が壁の際まで後ずさる。
悪いタイミングで体重をかけた僕の右足は、爪のない親指に不要の出血を強い、僕は立ったまま悶絶する。
唾を飲み込み、足を引きずり、脂汗を流し、僕は洗面台までの距離を詰める。寝室の幅をこんなに長く感じたのは、ラングルフォートの生徒になってから初めてだった。
「?」
じりじり進む僕の足元を、何か小さい影がよぎった気がする。なんだろう。窓の外の葉擦れが作った影か。
いや違う。今夜は雨の壁で、外から入る光も影もないはずだ。
「どうしたんだい、いきなり泣き出して。何があったか説明して」
僕より先に洗面台に駆け寄っていたクレイが、下級生たちに問いかけている。
「蛇口から黒いのが出てきた……」
「小さくて短い蛇。東の国の見知らぬ蛇」
「暑い地域の蛇だから、熱湯パイプに隠れてたんだ」
「西の樹木に卵がついて、学園の植木で孵ったんだ」
上級生三人は途方に暮れて顔を見合わせる。
「蛇口だから蛇が出る。くだらねーガキの冗談だろう」
アクシスは口汚く切ってかかるが、クレイは重い表情を停滞させたままだった。
「いや、聞いたことがないわけでもないんだ」
「どういうこと」
「怪奇クラブのリープがノートをまとめてくれているんだ。Tの授業で聞いた話、テラで起こったという事件を。彼好みの収集だから、ヒヤリとしたり、ドキッとする噂話が主なんだが……」
『東の国で織られる高級絨毯が輸入され、店で売られた。
手触りをためそうと手を入れたところ、何者かに噛みつかれた。
病院に運ばれたがその人は死んだ。絨毯を調べたところ、いくつもの蛇の卵と蛇が見つかった。
暑い砂漠の国の毒蛇だ。ラグの中は温かく、卵が孵るのにいい環境だったらしい』
『砂漠の国に生えていたという珍しい木を育てていた。
木の手入れをしていたとき、膝がチクリとした。なんだろうと見回すが、原因はわからない。
膝は、日が過ぎるにつれむずむずしはじめ、さらにこぶ状に膨らんできた。
そしてある日、こぶが破裂し、大量の蜘蛛が這い出てきた。
木を調べたところ、幹の裏側に蜘蛛の繭ができていた。砂漠の蜘蛛に卵を生みつけられてしまっていたのだ』
誰もが押し黙っている。雨の音が強く支配し、鉄の箱に閉じ込められた自分を嫌が応にも意識してしまう。
「くだらねえな。そんなのただの噂話だろう。新聞に載ったわけじゃないんだろう。記者が裏を取ったわけじゃないんだろう。被害者が届け出たわけじゃないんだろう。危険だったら輸入とかしてるわけがねーだろうが」
いつになく饒舌なアクシスが否定をまくしたてる姿が、僕が必死に押さえつけている心を、かえってこじ開けてしまいそうだ。
「ほら、お前もくだらねーって笑えよ」
背中をたたかれ僕は絞りだすように「縄みたいな影が足元を這って行ったのを見た」と告白する。
下級生たちが、火のついたように泣き出した。
部屋を移動することになった。
安全を確認したはずの寝室は、蛇口のひとひねりと、Tの置き土産で、不安と疑惑が蔓延してしまう空間になっていた。
「まあ、仕方ない」クレイがとりなすように言う。「薄暗いランプではベッド下の隅まで照らすことはできない。小さな生物がシーツの隙間にもぐりこんでないとも限らない。ここはひとつ、人間様が爬虫類に譲歩してやるということで」
誰もにこりともしない。
アクシスがモップを両手に構えて先頭を行く。僕とクレイがひとつずつランプを手にした。出発前、一階の寝室を全部回ってみたが、ランプはすべて壊されていた。
破壊行為が人為的なのはもはや疑いようもない。
寝室のランプを壊す。学園の照明を担う元栓を破壊し、停電状態にする。裏門が通行止めになったのも、人の手によるものだった。だったら今夜の正門の土砂崩れも……疑い出すときりがなかった。
(ほかのことを考えよう)
廊下を五人が列を作って進んでいる。クレイのライトは先頭のサポートをこなし、僕のライトは最後尾を照らす。
正直な話、最後尾を指定されて助かっている。右足を引きずり、痛みに呻いては立ち止まることを、僕はちょくちょく繰り返していた。
足の指の先の、ほんのわずかな面積に過ぎない角質化した細胞が失われただけなのに、デメリットが大きすぎた。
体重をかければ血が滲み、動いて空気が流動すれば患部が疼く。ギクリとする痛みを思い出せば、大胆な行動がとれなくなる。
(なんで僕の足の爪なんだろう……)
(誰かは足の爪を挟むのにぴったりな工具らしいものを持っていた)
(あらかじめ用意されていたというのなら……それは……)
ほかのことを考えたはずなのに、結局こうなってしまう。
「移動先は二階の寝室でいいのか?」
先頭のアクシスが聞いてくる。葬列のような足取りの僕たちは誰も返答しない。クレイは眼鏡を白く光らせ、考えに沈んでいるようだ。
下級生二人はぴったりと寄り添って歩いていたが、なぜか突然、廊下の端ぎりぎりに寄っていく。
彼らの視線はこわごわと、廊下に置かれた観葉植物を遠巻きにしていた。
「……土に白いものがあったよ。蛇が孵った卵の殻だよ」
「……絨毯がよじれていたよ。孵った蛇がパイプに這った跡だよ」
二人のひそひそ声は、容赦なく僕の自制心にダメージを与えてくる。
本当にやめてくれ。
通り過ぎる間際に、チラと僕は植物の様子をうかがう。珍しい形の葉、無数の皮で覆われた幹。根本は黒々とした土が覆っているが、一か所白く見える場所がある。ランプを掲げる。多角形をした親指の爪ほどの白い小石だ。肥料なのかもしれない。
(少なくとも卵の殻なんかじゃない)
「無視すんな。もうすぐ階段だぞ。二階に行くぞ」
気だるげなアクシスの右手は、モップを床に擦っていた。絨毯の表面に這ったような跡が残る。
(そうとも蛇の這った跡なんかじゃない)
恐れず堂々と植木の横を通り抜けるのだ。勇ましく腕を振る、その隙間から、植木に絡む白いものを見つけてしまう。
(繭じゃない繭じゃない繭じゃない……)
階段手前でクレイは後戻りしてきた。僕の横に並ぶ。
「足が痛むのか」
「平気。包帯を厚く巻きすぎて、靴がきついだけ」
虚勢だと僕自身がよく分かっている。
そうか、と答えクレイは先に階段を上っていった。低学年二人も踊り場まで到達しており、アクシスは二階の廊下から身を乗り出し「遅えよ」と急かす。
一段目に足を持ち上げる動作が、ピリリと痺れる痛みを足の親指にもたらす。こんなところにまで足指のふんばりが必要なのか、畜生。罵りたい気持ちを堪えながら、安全第一を優先に階段の手すりに手を伸ばす。
「あ」
青い稲妻が僕を包む。眼球がずるりと押し出され、舌がもぎ取られそうな勢いで突っ張る。金属の手すりを伝い、僕の手のひらを突き抜け、体中に拡散された青白いショック。照明のない廊下で、僕の体は一瞬スパークに包まれ発光していたのではないか。
ぐらりと後ろ向きに倒れこむ。
階段の一段目を踏んだだけの高さは、僕にとって幸運だったのか。
幸運なんかではないと、すぐに思い知らされる。
アクシスが叫ぶよりも、下級生が悲鳴をあげるよりも、クレイが向きを変えるよりも早く、近くの部屋ののドアが開かれる。死骸に飛びつく猛禽の勢いで、白い影が現れ、仰向けに倒れた僕の顔を見下ろす。
(……T!)
見開いたその瞬間が、僕の不幸の最盛期だ。ショックを受けたのも、頭から廊下に倒れたのも、これから起こることに比べればほんのささやかなものだったのだ。
白衣姿のTは手にしていた瓶を、僕の顔の真上で逆さまにする。見開きこわばった僕の目に液体が注ぎ込まれるのは、小川の水が海に合流するより簡単なことだっただろう。
何もかもが赤く眩んだ。頭の後ろでパチパチ弾ける音がする。溺れた人間のように手足が空中でもがいた。喉が震え、舌が痺れ、悲鳴にもならない音を発して僕は悶える。「エバハルト、手をどけろ眼を診れない」誰かが強い調子で言う。乱暴な手が僕の腕を強引に引っ張る。とたん、赤い稲妻が目の内側で放電を開始する。後頭部を鈍器でガンガン殴られているようだ。僕の頭も世界も真っ二つに割れる。ああああああっ、死に物狂いで手の自由を取り戻し、顔を覆う。涙がボロボロあふれた。それは涙腺から出る液体ではなく、皮膚を裂いて流れる血液だと言われても僕は信じただろう。そうだ僕は血まみれだ。こんな激痛にまみれて血が出てないなんてことありえない。「暴れんな、叫ぶな、喚くな。眼は灼けてもないし、溶けてもねえよ」なんだって、そうか、溶けている痛みなのか、流れ出ているのは眼球の中の液体なのか、ああ、溶ける、溶ける。割ったタマゴみたいにどろりと眼球の中身が流れ出す。いくら流しても痛みがおさまらない。灼けたからなのか。焼けただれて残った火傷が辰砂色の灼熱で僕を苦しめているのか。赤だ、一面の赤だ。熱い、灼ける、僕の目は灼けてしまったのだ、あああ、ああ、ああああああああっ。




