第四部2
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第四部2
ラングルフォート学園は中間休暇を迎えた。
春の休暇は一週間と、夏冬の休暇の1/2ほどの期間しかないが、学園の生徒のほとんどが帰宅する。
校内はがらんとし、少ない人数の寄宿生を監督するために、監督の教師がひとりかふたり居るくらいだ。厨房ももちろん休みに入ってしまったため、臨時雇いの賄いの人が来て、大鍋にスープを一日分作り、パン屋で買ったパンを置いていく。あじけないパンとミルクとスープに、毎食うんざりしながらも、僕は残留組を選択していた。
母さんの食事が恋しくないといえば嘘になる。
だが僕はT失踪以降、家族に向ける顔を考えるのが苦痛になっていた。手紙を書くもをやめてしまっていた。
向こうからの手紙は届いている。内容はTの失踪について心配する声、こちらで出来ることはないかと伺う声、そして僕が捜索隊に加わっていると決めつけ、激励する声だ。ネリーは小遣いを貯めたのか、紙幣を同封し「イケT捜索の費用にあててください」と綴ってくる。
僕は「学期が変わるので代表委員の仕事が忙しい、家には帰れない」と電報を送った。忙しくないし、そもそも代表委員もおろされたままなので、二重の嘘を僕はついたのだ。
郵便局で電報を依頼したあと、不安が胸をよぎった。春の休暇は見送ったけど、夏の休暇も僕は嘘をつきとおすのか。
授業のない学園内、数少ない居残り組は思い思いに過ごしているため、誰が何人が残っているかも僕は把握していなかった。
中間休暇の二日目。散歩がてらに街で用事を済ませ、学園に戻ってきた僕は時間つぶしに図書室に寄る。
閲覧席の生徒に見覚えがあった、クレイ=ナハルトだ。ページに顔を埋めんばかりに熱中している本が、いつもの怪奇小説でないのが、僕の好奇を引いた。
そろりと近寄り、題名を目に映す。「青銅の生態」、図書室のカイキに、なんというミスマッチ。
「やあ、エバハルト」
「どうも……」
曖昧にやりすごし、奥の棚で僕好みの本を借り、僕は僕の時間を有意義に過ごすつもりだった。しかし探求にはずむ声が追いかけてくる。
「肖像画は目をくりぬかれ、油絵も目玉をえぐられ、人型の偶像がまるで罪であるような扱いだと思わないかい」
「ただのいたずらだろう」
「ふむ、単純ないたずらか。紙の肖像画へのいたずらは、刃物ひとつで済むな。油絵に対しても、パレットナイフが一本あればいいわけだ。しかしブロンズ像の目玉アタックに硝酸をわざわざ用意するのは、いたずらの領域を超えているな」
「ブロンズ像?」
クレイが窓の向こうの中庭をあごでしゃくる。立木にまぎれてひっそりと、一体の裸婦像がある。中庭をあまり利用したことがなかったので、知らなかった。
窓に寄って見るが、影になっていて、目玉の穴の確認はできない。
「本当に硝酸で溶かされて穴が空いているの? 特に噂にはなっていないようだけど」
「目立たぬ像だから発見したのがおれだけかと喜んでいたが、確かに君の言うことにも一理あるな。裸婦像はもともと目が空洞になっているデザインだった。だから生徒は誰も騒がない、よって噂にもならない。なるほど、そういうことか」
「普通に考えればそうだろうに」
「しかしおれにはどうみても、故意に空けられ溶かされたとしか見えなかった」
どうして彼は何もかも怪奇にしたがるのだろう。僕は本を諦め、図書館を出る。しばし中庭のことも像のことも忘れて過ごしたが、夕食時の移動でふいに思い出し、中庭に出てみた。どんよりした雲空の下、足をクロスし、腕を広げた裸婦像。顔がやや上向きなので、そばのベンチに土足でのぼり、顔を覗き込んだ。
首から背がぞわりと一気に粟立った。
女性のブロンズ像の目玉はたしかに空洞だった。それを元からそういうデザインだと言い切るには、あまりにもおかしい。
それはまるで顔に二か所空いた、地下洞窟の入口だ。洞窟の奥には奇怪な形状の鍾乳洞が下がり、伝う地下水が壁や床に凹凸を作る。
たかが眼球のくぼみを表現するならば、なめらかに掘り下げればいいだけだ。人為的な作為は明らかだ。
「硝酸……だったっけ」
像の目玉にかけられた硝酸が、醜く跡をつけて溶けていく様が浮かんだ。ブロンズ像の目元はまるで涙を溜めたようにへこみ、頬の後ろを溶かしながら流れていった形跡もある。
「肖像画に油絵にブロンズ像か」
休み明けにまた面白半分の憶測が飛び交いそうだ。
「学校関係者にもうすぐ視力を失う奴がいる。医者に『あなたの視力は保って半年です』って言われてね。目玉がある奴らが憎くて悔しくて、夜な夜な目つぶしに回るんだよ」とか、「山に住む化け物がさ、子供のために目玉を狩り集めるんだよ。化け物の子供は人間に石を投げられ目を失ったんだ。肖像画や像など動かぬものを狩り尽くし、いよいよ本番、人間を襲い始めるってわけだ」とか彼らの想像力は呆れるほど無限だ。
僕はまた考える。ラングルフォート学園の生徒は、こんなに噂好きだっただろうか、と。
そして思い至る。
一連の現象、犯人の意図も動機もまったく理解できない。
理解できないことが、僕らの噂心を煽るのではないのか、と。
夕食をとって寝室に戻る。思わぬ先客に「あれっ」と疑問が口をついた。というのも、同室の生徒は全員帰省してしまっていて、今日まで僕ひとりで使用していたからだ。
長机に足をおいて、ふんぞりかえっているのはアクシス=ボーラインだ。俺に文句でもあるのかと言いたげに、ジロリと睨んでくる。
「家に帰ったのかと思ってたんで」
「俺に帰る家なんてねーよ」
胸を張って誇る意味が分からない。
休暇前に帰省の荷物を準備してただろう、とか、じゃあ昨夜はどこに泊まったんだ、とか突っ込みどころはあるが、聞かないでおくことにした。
「いつも一緒のあの二人は家に帰ったんだ」
「あいつらは帰る家があるからな」
会話に激しいノックの音が割って入る。慌しく開いた寝室のドアから、血相抱えた教師の顔がのぞいた。
「すまない、緊急の件だ、ええと……君、エバハルト。代表委員だったな」
「元代表委員です」
構わないと、投げやりかつ急をせく様子に、ただごとではないと感じ、僕は休暇だらだらモードから切り替わる。
監督の教師は緊急の電報が届いたこと、祖母が危篤であることを僕らに告げた。
「それじゃあ早く家に戻らないと」
「ああ無論すぐ街へ降りる。今夜の監督は自分ひとりだ。街へ行って連絡つき次第、代わりの監督教師を寄越すようにするが、それまで頼みたい」
「はい、了解しました」
監督の仕事は聞いたところ簡単そうだった。時間になったらガス栓をひねって消灯する。低学年は僕たちより一時間早く、栓を占める。朝になって通いの賄いの人が来たら、受け取りサインをする。それだけだ。
「朝までには代理の監督が来ているだろうとは思うが」
「そうですか」
「低学年生徒は三人残っている。一挙一動を見守れとまでは言わないが、気にかけてくれると助かる」
「代理の監督がいらっしゃるまでの間、低学年に配慮するくらいは、何てことないです」
「そうか、頼んだ。代表委員」
動転で情報の更新もままならないんだなあと、心の中で案じつつ、教師を昇降口まで見送る。
途中、廊下の窓から雨が降っていることは察したが、土砂降りだと知ったのは昇降口に出てからだ。庇を大粒の雨と風が揺らし、屋根の下からは一歩も出てないのに、跳ね返る雨水でソックスが泥色に染まってしまう。
馬車の依頼は、電報を届けて帰局する配達員にまかせたそうだ。時間的にそろそろ来る頃だと、やきもきする教師が雨の壁に突進していく。一瞬ぎょっとしたが、すぐに激しい水音に紛れて近づく蹄鉄と車輪の音を耳がとらえた。
(すぐ近くまで来ていたけど、見えず、聞こえずだったんだ)
(酷い雨だな、これは……)
遠くの空が光る。春雷が薄く雲を照らし、紫色の亀裂を空に生じさせるが、とどろきは雨壁にはばまれ耳に届かない。
馬車が転回を終え、小窓から教師がこちらを見て、口をパクパクする。内容は聞き取れない。分かった振りして頷きながら、手を振って見送る。
数分にも満たない見送りなのに、僕の前髪は水が滴るほど濡れてしまっている。
寝室に戻る前に、リネン室に僕は立ち寄ることにした。
無人の廊下を進み、目的の部屋のだいぶん前から、それに気づいて僕は眉をひそめた。
「誰だよ、タオル放り出しているのは」
廊下に散乱しているタオルは十枚ほどだろうか。泥色に染まっているのもあれば、濡れて丸まっているのもある。使用済みはちゃんと洗濯カゴに入れておいてくれないと。
(一時的とはいえ、僕が監督を担っているんだ)
(こういうのまで僕の責任にされたら、堪ったもんじゃない)
汚れたタオルを回収しつつ、リネン室から新しいタオルを拝借し、前髪を拭う。拭き終わったタオルと、回収したタオルを合わせてカゴに放り込む。
(……アクシスか? 外から帰ってきたのは彼だけみたいだし)
犯人のとっちめかたを、あれこれ頭で巡らせながら、寝室のドアを開けた僕は、読み違いがぞわりと背筋を駆けのぼるのを感じ取った。
「ちがう……」
さっきと変わらぬ姿勢で、長机に足をのせているアクシス。彼の革靴はまったく汚れていない。濡れていた形跡さえない。
(彼は……雨が降る前に、帰ってきたんだ……)
じゃあ、外に出たのは誰? タオルを使って放置したのは誰? 湖底から無限にわきでるあぶくのように、僕の疑問は際限なくわきでて、重さを持たないあぶくに、僕は押しつぶされそうになる。
「あぁ?」
立ち尽くす僕に、アクシスは訝し気に声を上げる。さっきまで犯人だと思っていた相手に、実は君は犯人ではなかった、犯人は他に誰かが居るということを、どう説明しろというのだろう。
天井と壁を激しく打つ雨。まるで鉄の箱に閉じ込められ、上から横からガンガン殴られているみたいだ。箱の内側で僕はなすすべもない。
音もなく照明が消えたのは、次の瞬間だ。
天井を見上げアクシスが「もう消灯かよ」と僕を見やる。
僕は蒼白になって首を振る。
そんなはずはない。低学年の消灯時間にもまだ早いはずだ。そもそもガス栓を閉じるのは僕の役割なのだ。
故障なのか、それに時計も確かめたい。体は急くが、突然降りた暗闇に目が慣れておらず動けない。無考のアクシスも、さすがに手探りを交えて足をおろし、用心深く二本の脚で立つ。寝室で二人立ち尽くし、目が慣れるのを待つ時間は長く感じた。
「まだ目が慣れねーから」アクシスの挑むような声。「なんか話せよ」
「話せって、なにを」
「さっき言いかけた続きでいい」
生ぬるい唾を僕はのみこむ。
「リネン室の前の廊下に、タオルが散乱していて、濡れたり、泥がついたり、使用済みだった」
「なんだそりゃ」
「僕は君がやったのかと思った」
「雨の前に俺は帰ってきたぞ」
僕は押し黙る。沈黙のしじまに彼は顎に手を当て、目を寄せ、ぼそりと呟く。「じゃあ……誰なんだ」
勝手な願いだと分かっているが、無考のアクシスには、何も考えずに居てほしかった。
目が慣れてから、行動を開始する。
まずは室内の携行ランプを探し当てた。ガスのノズルを開き、充填を待ってから点火スイッチを押す。ふわりと広がる暖色の光が、緊張をほぐした。
「あまりガスが残ってないな。長くは使えねーぞ」
アクシスの声に非難の色を感じとり、僕はむっと見返す。
「なにが言いたいの」
「ガス補充は代表委員の役目だろ」
「残念でした。僕は代表委員じゃない」
歯がみするアクシス。僕は委員をおろされて良かったと、胸がせいせいした。
それにしても困ったものだ。ガスはずっと補充していなかったのだろう。携行ランプを使うのは、夜中にトイレに出歩くときくらいだから、あまり減らないし、代表委員だったころも頻繁にはチェックしなかった。
「となりの寝室のランプを借りていこうか。となりは全員帰省して、残留はいなかったから」
となりの寝室に入室し、ランプを探す。部屋の作りも設備も一緒の造りなので、探し出すのに時間はかからないはずだった。
しかし僕らは時間を費やし、あちこち探り、ようやく床にあるランプを探し当て、言葉を失った。
ランプは壊れていた。ガラスが飛び散り、枠組みがひしゃげ、床に落ちたのだと容易に推測できる。
「なんだ。こちらも壊れているのか」
声がしてドアが開き、僕らは振り向く。やわらかいランプの光を伴い、入ってきたのはクレイ=ナハルトだった。
僕らが立つ場所まで歩み寄ると、床を照らして息を吐く。
「こちらも、ってのはなんだ」
「おれの寝室の携帯ランプの、ガスの残りが心許なくてな。他の寝室から借りようとしたら、同じように割れていた」
「壊されていた、の間違いじゃねーか?」
すごんだ声でアクシスは、床から何かを拾い上げ、僕らに示した。ランプの部品、金属製のノズルはくっきりと靴の跡がついていた。
「たまたまこの部屋だけ局地的に地震で落ちて割れたランプを……たまたま通りすがった人間が部品を踏みつけていく……ふむ。
そんな天文学的確立に賭けるなら……そうだな。君の言う通り人為的に壊されたと考えるのが正しいのだろうが……精神安定上はあまりよくないな」
思慮深いアクシス。いつもの歯切れの良さがないクレイのセリフ。普段通りでないことが、慣れ親しんだはずの学園を非日常の場に見せていた。
携帯ランプを点けたあとの行動は、ある程度決めてあった。
下級生の様子を見に行く、または、ガス栓を確かめに行く、だ。
上級生三人集まり、これからどうするか。相談のいとまも与えてくれないまま、「誰か」の脚本は進行していく。
突如発生する轟音。建物の外で起きたそれは、地響きを伴い、地鳴りの音も長く尾を引いていた。
現状についていけない顔を三人見合わせ、最も早く我を取り戻したのが僕だった。アクシスとクレイがそれぞれランプを手にしている、瞬時に判別し、僕は采配する。
「アクシス=ボーライン。ランプ持ってガス栓を見に行って。さっきまでその予定を組んでいたから場所は分かるよね」
「お、おう。分かってる」
「クレイ=ナハルトは音の正体を探ってきて。正門のあたりから聞こえてきたと僕は感じたけど」
「おれもその辺だと思う」
「僕は下級生の寝室を予定通り回る。明かりもそこで調達するつもり。各自、見てきたらどこかで落ち合おう。場所は……」
「下級生の寝室でいいだろう。万が一、君が明かりを調達できない可能性もある」クレイは口早に言った。「戻ってきたおれの明かりを見つけたら声をかけてくれればいいし、こちらも下級生の寝室付近に戻ったら呼びかけるようにする」
昇降口の方面と、ガス栓のある地下方面へ明かりが遠ざかっていく。光源を失った廊下が、急に狭まり左右から圧してくるのは心細さの仕業か。壁に手を沿わせ、つま先で階段を探り当て、僕は臨時監督なんだと自分に言い聞かせる。
一階に降り立ち、左右を見渡す。低学年の寝室は全部で八部屋。学年別に分けられておらず、年齢の近い子同士で部屋に組み入れられる。
僕はどうやら端の部屋からノックしていく必要はなさそうだった。
ドアの外、廊下の隅で抱き合い震える二人の生徒を発見したからだ。僕が近づくと二人はビクリと震えあがり、腕を伸ばすと後じさりするほどの怯え具合だ。
「僕は一学年のサイト=エバハルト。現在は臨時で寮の監督を請け負っているんだ。怪しい者じゃないよ」
「うん……知っている」
「ぼく、覚えてる……」
下級生まで名前が覚えられているのは、けっしていい意味ではないのだろう。
「上級生が今、ガス栓を見に行っている。もうすぐ明るくなるよ。で、君たちは廊下でどうしたの?」
二人は焦燥した顔を見合わせる。
「部屋にいられない……」
「……誰かベッドの下にいる」
僕の閉じ込められた鉄の箱を、誰かが渾身の力で床に投げ落としたようだった。体が浮き、上下感覚を失い、頭が真っ白になったところに加えられる衝撃。
「な、なんで? 寮には誰もいないよ。君たち下級生と、僕たち上級生の三人だけ。監督の教師は急用で街に降りていったし」
「ベッドの下から音がした」
「びっくりして廊下に逃げた」
なんてシンプルな理由。なんてシンプルな行動原理。シンプルゆえに、僕は否定も解明もできそうにない。
「ど、どんな音?」
「ボコンって。ベッドの下の人が床を殴ったと思った」
「グシャって。ベッドの下で人がなにか壊したと思った」
音の正体は皆目見当つかず、僕は下級生らの恐怖を打ち払う術を持たない。
「音がしたのは、この部屋?」目の前のドアを指さすと、二人は頷く。「じゃあ、こうして出入りできないようにしよう」
廊下の掃除用具入れからとったモップをたてかけ、カーテンタッセルを紐代わりにぐるぐる巻き、ノブが回らないようにする。二人を振り返る。
「僕たちは隣の部屋に入る。まさか隣の部屋のベッドまで『誰か』はいないだろう?」
「……」
「……」
やめてくれ。「誰か」の増殖が捗るような沈黙は。
僕は隣の部屋を開ける。造りはどこも同じだ。壁のくぼみにベッドが収まり、中央には長机と人数分の椅子がある。奥の窓は船窓みたいに、絶え間なく水を被っていた。
先に入室し、僕は下級生たちに入るよううながすが、二人の生徒は戸口から動こうとしない。
論理的に思考できない幼さにイラっとする。
「君たちの部屋のベッドの下で、物音がしたんだよね。『誰か』がそこで音を立てた」
コクリと二人はうなずく。
「君たちは廊下に出た。『誰か』は君たちのいた部屋から出てきてない」
これにもうなずいた。
「だったら、ほらっ」僕は手前のベッドのベッドカバーをめくりあげた。確認したベッド下は、ベッドの四つ脚だけだ。「ここに『誰か』が居る道理はない」
ほらみろ、と下級生たちにむかって鼻をうごめかせる僕は奇妙な音を聞いた。
ギシリと軋むその音は、ベッドの下ではない。
ベッドの上だ。
(え)
閉じられたカーテンが内側から膨れ上がる。人型を成したそれは、両手を思い切り前に突き出しており、無防備にぶつかった僕は横ざまに倒れる。間を置かずにカーテンレールの金具がちぎれる音がした。紺色のカーテンが雪崩をうって襲い掛かり、僕は油断して春先の雪山にのぼった登山者のように、訳の分からないまま呑み込まれる。
ベッドが再び軋んで、スプリングの解放音がした。ベッドの「上」にいた「誰か」が降りたのだと分かった。
ぐっ、と無造作に僕の右足が引かれる。転倒から守ろうとしてくれるならば遅すぎ、カーテンの雪崩から救ってくれるのならば異様すぎた。なぜなら「誰か」は流れるような一連で、僕の右足を取り、ソックスを脱がせ、ひたりと冷たく固いものを足の親指にあてがったからだ。
何を――の疑問の代わりに、喉から出たのは苦痛の悲鳴だった。
僕の右足の先端は、僕の規定の身長以上に引き延ばされ、足の親指のつけねを源として激痛の信号を神経という神経に送り込んでいる。がっちりと挟みこまれ、伸ばされているのは、親指の爪だった。
ねじられた僕の足の爪は乾いた音を立てる。それは木の箸を折ったような単純で安っぽい音だ――僕はわめき声をまきちらし、寮監代理の誇りも、上級生の面子もなく、脂汗を全身から流しながら暴れ散らかしているというのに。
ついにその時は訪れた。
僕の苦悶に割の合わない、ぷちりというシンプルな破損の音。皮の破片が飛び、少量の血が散り、変形した爪が空を舞った。
白い影が身をひるがえし、戸口の生徒二人を突き飛ばして去っていく。
僕は……自覚はなかったが絶叫していたらしい。
身を丸め、喉を震わせ、腹の底で増幅された僕の絶叫に、外を見回ったクレイ=ナハルトも、ガス栓を確認してきたアクシス=ボーラインも、迷うことなく下級生の寝室に飛び込み、僕たちは合流を果たしたのだった……。