第三部9
第三部9
例の部室まで僕は駆けた。息切れし、心臓がドキドキする。人通りの少ない廊下の端の、用具室に間借りしている怪奇クラブの部室。
引き手に手をかけようとして、内側から開いた。クレイ=ナハルトを先頭に三人の生徒が出てくる。三人は廊下の端に避けた。僕もつられて端に寄る。
次いで、中から大道具を抱えた上級生が数人が出てくる。四人がかりで担いでいるはりぼての大きさは、なるほど、間借りの部員が退避しなくては運び出せないだろう。
ぺこりと頭を下げクレイが上級生四人を見送る。部室に戻ろうとするとき、僕の存在に気づいた。
「中で話すかい? 今日はもう、用具室に来る者はないだろうし」
クレイと共にいた二人は、怪奇クラブの部員らしい。グリーンのネクタイをしめた最上級生と、リボンタイの小学部。飛び入りの僕に椅子を用意し、場を空ける気遣いを見せてくれる。迷惑がっている様子はないが、歓迎しているといったわけでもない。
(新入部員を募集したり、歓待したりする気はないのかな)
(五人以上で申請できるし、申請さえしておけば、活動費は九月まで出ないけど、部室利用は可能になるのに)
小学部の生徒は熱心に帳面に書き込みし、最上級生が目でチェックを入れ、ときどき口頭でアドバイスを挟む。
「部員を集めてクラブ申請はしないの」
「……エバハルトはそんなことを聞きに、わざわざここまで来てくれたのか」
目を丸くし文字通り驚くクレイに、いやそういう訳でもないけどと、言い訳し、本来の目的を思い起こす。
(そうだ……彼がクラブ申請せず邪魔者扱いされることなんて、どうでもいいことだった)
(クレイ=ナハルトに聞きに来たこと……)
「吊り橋と固有振動とオートバイについて」
「うん、それか」クレイは目を細める。「君はいつかそこにたどり着いてくれると思っていた」
パッと顔の前でまぶしさが弾ける。彼は待っていたというのか。
「吊り橋と固有振動とオートバイの話は、Tが赴任して一週間目、授業中ではなく、休み時間に押しかけた市長に対して語っていたものだ」
「うん」
「おれは教室にいたが、通った声はよく聞こえてきた。そして疑問を抱いた。疑問点を解消するために化学教師に質問した。Tの言っていることは嘘だと分かった。それをこれまでおれは心に秘め続けた。そういうことだ」
「嘘だと分かったのに、誰にも言わなかったんだ」
クレイ=ナハルトが困ったように笑う。
僕の古傷がズキリとうずく。出る杭は打たれる。大多数に逆らった者の末路は身に染みている。
焦燥する僕の顔を、クレイは気遣うようにのぞきこむ。
「エバハルトの質問に答えよう。ただ、その前に部員の紹介を兼ねて、ひとつ伝えたい推理があるんだが、聞いてくれるかい」
クレイ=ナハルトの推理。どんなものかさっぱり見当もつかなかった。
「リープ。まとめた部分まででいいから、FOF発表をお願いできるか。5W1H形式で」
クレイの依頼に、低学年の生徒がぴょこんと立ち上がる。「はあい」と活発な返事に対応してリボンタイが元気に揺れる。
「場所はラングルフォート学園。時期は1月中旬。誰は未確定。内容は五文字の単語。色と生物学名の組み合わせです。なぜ伝わったかは幾つかの理由が考えられます。会話の流れでつい話してしまう。注意勧告。道連れ。ブームに長じた自分アピール」
腕をぴんと伸ばし、開いたノートを読み上げる少年リープ。
彼の報告が記憶に引っかかり、僕は椅子の上で落ち着かなくなる。
「場所、時期、誰が、何を、何故はOKだ。どのように、は?」
「すべて友達から友達への伝言という形です。掲示板に貼られたとか、学園で発行している新聞に載ったとか、そういう経緯はありませんでした」
「うん、よく調べられている」
「友達から友達への形ではなく、学園長から生徒へ伝えられる形もありましたが、まあ大きな括りはFOFで構わないと思います」
FOFとはつまりfriend of friend――友達から友達へ伝えられる話のことなのか。思い当たるところがあった。
「それって『赤いイルカ』の噂……?」
僕が聞くと、クレイは頷く。
噂が蔓延している最中に、クレイにインタビューもどきを受けたことを思い出す。本にするとか、あの時は鼻で馬鹿にしていたが、実はクラブを通して真面目に研究されていたとは。
「FOFと言い切るには早いのではないか」
意味ありげな声に横を向くと、グリーンタイの上級生が、組んだ手に顎を置き、瞳を暗く光らせていた。
「俺は一学年生徒の某が噂を流布した張本人だと聞いたことがある」
「エバハルト。彼はスイフト。二学年生で怪奇クラブの一員だ」
クレイの紹介は果たして耳に入っていたか正直怪しい。
職員室に呼び出され、赤いイルカの噂を流した犯人ではないかと尋問されたことを思い出し、僕の舌の裏に苦いものが生じてくる。
スイフト先輩は重々しく自説を披露する。
「俺は、一学年の某生徒を犯人だとは思わない」
「そ、それはどういうことですか」
部外者なのに、僕は率先して質問していた。
「一学年生徒はスケープゴートだったのだ」
「ええ……と?」
「噂を流した張本人はスパイ。おそらくノースラングルあたりのスパイだろう。学園に侵入し、噂を流した目的は、若年層の一掃。赤いイルカの呪いで、成人したものは数年後にバタバタ死んでいき、サウスラングルは働き手を失う」
「赤いイルカの単語で、ほんとうに死ぬかね」
クレイが言う。先輩は黒く目を光らせる。
「呪詛にそれだけの力はないかもしれない。だがもうひとつの呪い『道連れ』が発動する。友達だと思っていた奴に、20で死ぬ呪いの言葉を伝えられる。なぜ? あいつがどうして? 不信は年齢を経るごとに蓄積され、生きて成人を迎えられたからといって晴れるものではない。人を信じられない大人を大量生産する、麻のようにサウスラングルは乱れ、黒幕の思い通りになる」
くっくっと笑いを堪えながらクレイが僕の耳にささやく。
「エバハルト。自己紹介に追加するよ。彼はスイフト。二学年生で怪奇クラブの一員で陰謀論者だ」
犯人は僕ではないと言ってくれたのは嬉しいのだが、正直なところ微妙な気分はぬぐえない。
「スパイはなぜスケープゴートを用意したのでしょうか」
「おそらくスパイは制限年齢を超えた大人だからだろうな」
「制限年齢……大人?」
「そうだ。20歳を超えたものが『赤いイルカ』をいくら流布しようと信憑性はない。
逆に20歳以下の者が噂を広げれば、必死さにリアリティが伴う。わざわざスケープゴートを立てた件を鑑みるに、俺の推理はいい線ついていると思われる」
僕はいつのまにか一字一句聞き逃すまいとしている自分に気づいた。彼の言葉は、スパイという突拍子な点をのぞけば、あまりにも僕の疑惑に突き刺さりすぎるのだ。
(犯人扱いされ僕が沈んでいるさなかにも)
(こんな風に考えていた人がいるなんて……)
埃っぽい狭小な部屋だというのに、肺に吸いこむ空気は大草原のそれのようにすがすがしい。窓も用具で半分が塞がれているのに、僕は目の前が開けていくまばゆい光が注がれるのを感じていた。
「論理的には水の漏れる隙間もないが、大前提がどうなんだろうな、スイフト先輩。工業も農業も観光業も絶好調のノースラングルが、盆地の汲々とした小さな街に、わざわざスパイを送りこむ意味とか」
「そんなものは将来性を見越して潰しておくとか、似た名前は二つといらない憎悪とかいろいろ…」
先輩とクレイが共犯の笑みを交わしながら議論する。僕は気づいた。
(クレイ=ナハルトも)
(彼らと同じように、自分の世界を持っているのかもしれない)
そこで生きることが、勉強よりも校則よりも彼にとっては優先されるべきことなのだ。
先輩との陰謀論が一段落し、クレイ=ナハルトは僕に向き合う。
「エバハルト。君は、川でおぼれている犬を助けに飛び込んだ人を目撃した。どう思う」
「立派な人だね」
「しかしその人は、誰も見ていない場所で犬を川に放り投げ、目撃者があるところで、川に飛び込み犬を助けたんだ」
「卑怯者……人間性が腐っている……ううん、ちょっと何を考えているか分からない人だ」
ふむ、とうなずきクレイは仰々しく礼をする。
「答えてくれて感謝する、エバハルト。遅まきながらおれの推理を話そうと思うのだが」
「うん……」
「君は赤いイルカの解決編、Tが呼び集めた全校集会を覚えているかい?」
「うん。強制集会ではなかったけど、全校生徒が集まったよね。おまじないの言葉があるって、皆の前で宣言していた」
「他言はNGで、個別伝授でないとおまじないの効力が失われるから、個別に聞きに来いというものだったな。エバハルトは聞きに行ったのかい?」
「ううん……行ってない」
「そうか。おれは行った。Tは『白い水晶』という言葉を教えてくれたよ」
僕はクレイの顔を見つめ、瞬く。人に伝えるのはNGと言ったその直後にばらしてしまうのか。
「おれ的には、おまじないは大した意味をもたない。それに本題でもない。本題は……Tの居た異世界に、似たような話があったという部分だ。君の記憶には?」
「まったく覚えていない」
「異世界における20歳まで覚えていると死ぬ単語は……これだ」
クレイはリープ少年を振り返る。「はあい」とノートをぱらぱらめくり、負の単語がはつらつと発声される。
「『ムラサキカガミ』『イルカ島』『血まみれのコックさん』『紫の亀』『赤い沼』です」
たった一度、集会で言われただけのことをよく覚えているものだ。
「何か気づかないか、エバハルト」
「いや、感心するのに精一杯で……」
「赤いイルカという単語はない」
「そりゃそうでしょう。挙げられたのはテラという異世界に伝わる呪いなんだから」
「おれたちの世界とは関わりがない、そう言いたいのだろう? だがこういう見方はできないか。『赤い沼』と『イルカ島』足算と除算を行えば『赤いイルカ』と馴染みある単語ができる」
……舌がからからに乾いていた。
低学年生徒並みの単純な推理。安易な発想。だがそれは、たった一度、集会で述べられた発言を記憶しなければできないこと。
(クレイは……)
(赤いイルカの噂の発生源を……異世界転移者のTだと……推理するのか……)
「犬を沈め、犬を助け、立派な人と称えられる。死の呪いを広げ、解呪のおまじないを提示し、感謝される。
君に言わせればそれは『何を考えているか分からない人』だ。おれもそれに同意する。
だが、エバハルト。君はおれ以上に『何』に近づいているのだと直感している。だから推理を伝えた。長く時間をとらせてすまなかったな。推理はここまでだ」
僕はずっと一人で迷路を彷徨っていた。
誰も導きの手を差し出してなんてくれなかった。
だけど気づいた。惑い迷う僕の背を、後押しする存在はずっとあったのではないか。
「推理、役に立った。すごく参考になったよ」
「そうか、時間を取らせた甲斐があったなら良かった」
「クラブで作っているその資料、もし必要なときがあったら、借りてもいいかな」
もちろん、とクレイ=ナハルトは歯を見せて笑った。
感情を取り交わし、今まで以上に近づいた距離で、僕たちは当初の本題に入る。そして近づいたばかりの距離が遠ざかる隔絶に遭遇する。
「なにこの放物線。数学なの? 化学なの? 物理なの?」
「固有振動を示すラインだ。物質固有の振動、この場合はオートバイなのだが、データがないので自転車で代用する。振動伝達率は主にばねの固有振動数とバネが受ける振動数の関係で決まる。ばねが受ける振動数は路面の突起の間隔と自転車の走行速度で決まる。石畳の間隔をYと置き換え…」
「いやあの、噛み砕いて簡易に教えた方でいいですから」
「そうか? せっかくだから正式な解説に耳を通しておくといいと思うのだが。共振に触れたあたりで君は、吊り橋と石畳の根本的な相違に全身の毛穴が開かんばかりの新鮮な感動を覚え、目から鱗をおとし、めくりめく物理世界の門を潜ることになるだろう」
「潜らなくていいです」
「吊り橋の怪異は意外にバリエーションがある。鎖を伝ってくる怪しい影、背後から忍び寄る足音、足板の隙間から覗く顔。足音だけの存在は振動を起こすのか、伝う影は風振共鳴で吹き飛ばないのか、板の隙間の顔は落下しないのか。なぜ怪異の存在たちは不利な場所に自縛するのか、怪異を詰めれば物理法則に興味を抱くのが自然な流れ…」
解説モードに入ってしまったクレイ。助けを求めて横を見れば、上級生のスイフトはお気の毒といった感じに首を振り、リープ少年は「石畳を自転車で通行できるならエンジンがついたオートバイでも問題はないって結論を心に留めてなんとか生き延びてください」と囁く。
首をすくめ、生存をこころがけ、カイキ男の長広舌を僕はやりすごすようつとめる。
ギンギンと光る瞳。自然に動き出す身振り手振り。泡を飛ばして喋り、自ら喋った内容にじんと浸り、クレイ=ナハルトの世界はとても幸せそうに見えた。魅力的にも見えた。そうして惹かれあって集まったクラブ員の、満足げな態度がそれを証明している。
でも同時に、それは僕とは相容れないものだと分かってしまう。
さまざまな経験を経て、僕は自分自身を見直す機会をもった。自分自身のことを知った。僕自身の求めているものを薄っすら分かりかけてきた。
何も考えず、世間と向き合うこと。
別の世界をもう一つつくり、使い分けること。
憧れる面もある、身を任せてしまいたい欲求もある。けど、果たして人のやり方に従うのが正しいのか、それで僕自身は納得できるのだろうか。
クレイの解説を聞き終え、部室を出たときには、もう日はとっぷり沈んでいた。
くらくらする頭をなだめながら、ロ型の廊下を歩み、僕は廊下の先にある図書準備室のドアを見る。睨むといっても過言ではない圧力を加える。前方を見据えて呼吸をしっかり意識する。
情報は集まった。
背を押してくれる味方もできた。僕を信じてくれる仲間もいる。
数々の証拠を得て、僕の脚本は動き出す。僕の言い分を信じてもらえるよう、周囲を説得し納得させる展開。万が一にもTを糾弾する展開だって準備はできている。
僕はもうあなたに負けやしない。
僕がそんな決意を固めた翌朝、Tは消えた。
住み込んでいた図書準備室から、数少ない彼の私物はなくなっていた。
冷え込んだ昨夜に暖炉を使った形跡はなく、夜のしじまに紛れ学園から去ったのだと推測された。
置手紙はなく、彼がどこへ行ったか知る者もいない。
僕に悪夢と不信の傷をつけるだけつけて、彼は僕の目の前から忽然と姿をくらましたのだった。