第三部6
第三部6
突飛な思考だろうと、引っ掻き回されている間が花だったのだと、僕はうすら寒い寝室で思った。
ひとりになると内に沈んでしまう。考えても答えがでない内容を、何度も反芻し、不安ばかりが募ってしまう。
夕食後、外はちらほら雪が舞いはじめていた。地面に積もるほどの量ではなく、朝までには止んでしまうだろう。暖炉のない寝室は底冷えし、皆は就寝時間を待たず早々とベッドに潜りこんでいた。
起きているのは僕だけだった。長机の椅子に腰掛け、毛布を体に巻きつけ、色濃い嫌悪の記憶が薄れるのをひたすら待つ。
(記憶が薄れるより先に……凍死するかもしれないな……)
寒さに耐えかね、何度ベッドに入ろうと思い詰めたことだろう。
だがベッドカバーに触れれば、「彼」がここに上ってタンスを開く光景が嫌でも浮かんでくる。鳥肌が立ち、悪寒がし、胸が悪くなって数秒もそこにはいられなかった。
歯をがちがち鳴らしていると、離れた場所のカーテンが開いた。アクシスだ。無言で起きだし、静かに他のベッドの生徒を揺り起こしている。それはアクシスの取り巻き二人で、寝ぼけ眼をこすっている。
アクシスはさらに、自分のベッドの下に手を入れ、戸棚からも箱やら袋を取り出し、長机に積み上げた。
箱やら袋やら瓶やら……それは大量の菓子や食べ物、飲み物だった。
何をしているんだ、彼らは。どうするんだ、大量の食物。疑問にかられる僕は、一時、寒さも忘れていた。
「持て」
大量の食べ物の一部を渡される。腕に抱え目を丸くする僕の前を、三人はおのおの荷物を手にして通り過ぎ、廊下へと出ていく。
慌てて後を追った。
彼らを追いながら、彼らの目的を探り当てることは困難だった。
アクシスは最初、調理場に入った。調理人たちはとっくに帰宅し、朝の仕込みが鍋の中で静かに横たわっている厨房を、彼は訳知り顔に歩き回り、フライパンとちいさな炭焚きコンロを確保する。
つぎに本館内をうろつきまわる。特別教室のドアに手をかけては、施錠され開かないので舌打ちする。また別のドアを試すといった塩梅だ。
彼らは、夜間に教室が施錠されることを知らないのだろうか。
「あの……さ、何をしているの」
「雪降ってるんだから仕方ねえじゃん」
答えになってない。
最終的に落ち着いたのは廊下だった。幅が広く、絨毯が敷いてある、掃除もよく行き届いている。それは当然だ。ここは学園長室の前で、教員室にもほど近い場所なのだ。
「な、何をしているの」
「木の廊下だと冷たいじゃん」
愚かにも僕は同じ問いを発し、答えになってない答えを得る。
廊下のど真ん中に炭焚きコンロを置き、火種を用意するアクシス。取り巻きたちも荷物をおろし、ナプキンを広げ、箱やら袋を開封している。菓子やつまみの食べ物の匂いが、夜の校舎に広がる。
「な、何をするの?」
「俺の誕生日パーティ」
我を取り戻すのに時間が要った。僕の辞書に、誕生日パーティを学校の廊下で祝うなんて記述はない。
「な、何を考えてるのさ。夜間、無断でベッドを抜け出すのでさえ校則違反なのに。こんなところで物を食べるなんて」
僕に対する返答は、フライパンに流された油が、小気味よく熱される音だった。
(……ああ、暖かい)
(……ああ、いい匂い)
袋が開けられ、景気よくウィンナーがぶちまけられる。ジュジュッとウィンナーの皮が油を吸い込む。燻製味の白い煙がただよった。
「……ちょ、ちょっと、その音、油の音、焼ける音! ……教員室が近いんだよ? 寮管理の教師が待機してるんだよ!?」
「ああ、音が聞こえるのか」
「そうだよっ」
アクシスと顔を見合わせている取り巻きたち。
「じゃ歌でもうたってかき消すか」
すぅと息を吸い込み、三人がハッピーバースディーを合唱する寸前に、僕は我に返って彼らの口を塞ぐことができた。
「い、意味がないだろう、そんなことっ。何考えて生きてるのさっ、君たちは」
フライパンに目を落とし、アクシスは黙ってウィンナーを焼き転がす。取り巻き二人はくすくすと「なにも考えてないっすねえ」と笑いあう。
無考のアクシス。僕の中でこの呼び名は不動になりそうだ。
「ん」
串に刺したウィンナーを勧められ、さすがにこれは拒否しようと僕は意思の総動員にとりかかる。。
「誰かに見つかったら、強引に連れてこられたって言い訳しとけ」
「はあ? そんなの信じてもらえるかどうかも分からないし、それに…」
「そこの先まで考えてやらなきゃ、ウィンナーのひとつも食えないのか」
無考のアクシスにそこまで言われるとは。乱暴に串を奪い、僕はウィンナーにかぶりつく。
ホロホロと舌鼓を打ったことが僕自身、信じられない。なんで、雑に焼いただけのウィンナーがこんなに旨いのか。
あれか、寒暖効果なのか。雪山で凍えた人が温泉を見つけ芯から温まるようなものなのか。
厳粛な学び舎でジュウジュウ焼けるフライパンの音を聞きながら、ウィンナーをほおばる背徳効果なのか。
油で下品に唇がてらてらするほど、僕は差し出されるウィンナーをむさぼった。
足元に散らばる串は、目視で十を超えたところで、数えるのを自主的にやめた。
一口食べたなら、あとはどれだけ食べようと罪の量はおなじ。僕は差し出されるコップを受け取り、中身をぐいっとあおった。ブドウ味。次に注がれたのは、喉に痛気持ちいい炭酸。お次は柑橘オレンジ果汁だ、こんなもの飲まされたら胃袋が活性化するに決まっている。僕はぐいぐい飲み続け、ひろげられた菓子袋には自発的に手を伸ばした。
いくらでも食べられてしまう。いくらでも飲めてしまう。
ぷぅんと香ばしさが鼻をつく。フライパンが再稼働し、油が跳ねて、ウィンナーが注がれる。そうか第二弾か。準備はOKだ。いつでも来い。
ところが今度は様子が異なる。アクシスはバスケットからコッペパンをとりだし、マスタードをはじめとする調味料をずらりと並べる。パンには切れ目が入っているのが見えた。
なるほど、ホットサンドを作ろうというわけか。こんがりウィンナー、ほのかに甘いコッペパン、突出するマスタード。いいじゃないか。口が早くも唾を準備し、胃が待ちかねる。
ふと横に気配を感じた。アクシスの取り巻き二人がそれぞれ僕の右後ろ、左後ろに立っている。そっと僕の掌に何かを置く。
「?」
「胃薬」
「消化薬」
物騒なものを渡され、僕は脇の下にじわりと汗をかく。
鼻歌まじりにアクシスが、焼けたウィンナーをパンに挟んでいる。パン生地をしっとりさせるバター。マヨネーズで味をこならせ、赤いチューブはにゅるっと出た分だけ塗りつける。ミルで挽いたスパイスを一振り。白い容器がもう一往復。果たしてこれはバターかマヨネーズか。そしてホットサンドの王様マスタードが、味ひしめきあう過密地帯に投入される。
「ん」
入学以来はじめてみるアクシスの満面の笑みが、それを差し出す。
僕のかいた汗は脇にとどまらず、背中に、首筋に、顔全体に流れて伝った。
寝室に戻った僕は、自分のベッドに倒れこむ。離れた三か所のベッドからも、カーテン開閉の音が聞こえてきた。
スプリングの力を借りて、体をあおむけに起こし、僕は額に手を当てる。
まぶたの裏がグルグルしている。何も考えたくない。何も言いたくない。
確実なのは、僕の中でホットサンドという概念が書き換えられたことだけだ。
ふうっと意識に闇が降りる。眠るというより、脳の容量オーバーに近いものだった。
朝食をパスしたため、教室には一番乗りだった。
座席にすわり、支度を整える。僕しか人がいないため、窓の景色がよく見渡せた。水平線の白いキラキラは波頭だろうか、それともノースラングルの降雪の白なのか。
用務員さんが朝から教室を回って、熾してくれた暖炉の熱で教室はぽかぽかだ。暖かい部屋から寒い景色を見下ろし、満喫する。僕は久しぶりに生き生きとした血流の巡りを実感する。
それはすぐさま断たれた。
前ドアの窓に顔がのぞき、僕がサッと血の気を失うと同時に、ドアが開く。
「サイトくん、代表委員の件は残念だったね。でも必ず君は復帰する、頑張って今まで通りに戻る人間だと、誰もが期待しているんだよ。僕も、教師も、学園のみんなも」
壊れんばかりの瞳で僕は、にこやかに激励する異世界転移者、白衣姿の客員教師を見つめている。
「ただ、皆に否定された事実は君の心に傷を作っただろうね。僕は決して糾弾するつもりはないけれど、君の失脚の一因であることは重々承知しているよ。力になれるなら、僕は労を惜しまない。いつでも相談に来てくれて構わないからね」
……直後の記憶を、僕は喪失している。
気を失っていたと言われたら、ああそうかもしれないと受け入れるつもりであったが、実際はそうでなかったらしい。
「うわ、寒っ」
教室に入室してきた生徒の悲鳴で僕は我に返る。白衣の青年はいつの間にか去っていた。
「教室の中に風が吹いてるじゃねーかよ」
「なんで窓全開なんだよ」
朝食を終えたクラスメートがぞくぞくと入室してくる。皆、ひとつずつ不平の声をあげ、窓をぴしゃりと閉じ、僕を睨みつける。
(……僕が……窓を全開にしたのか……)
まったく覚えていない。だが教室にいたのは僕ひとりなのだから、普通に考えてそうなのだろう。
石炭のバケツがひっくり返され、一気に暖炉に注がれる。盛んに燃え上がる炎に、憤然とした顔つきの生徒たちが、ぎゅうぎゅうになって寄り集まる。「手がかじかんだ」「これから授業だというのに字も書けないぜ」「嫌がらせかよ」「性格悪いな」「ジョアン、一か月臨時といわず永久に代表委員やれよ」僕は自席で石像のように身を固くする。
(……悪いことをしたと、思っている……)
(でも、息ができなくて……)
(急に酸素が足りなくなって……)
(………………僕は)
午後に「彼」の授業が控えていると思い出したのは、その直後のことだった。
昼休みに突入して五分。スロースターターの生徒もさすがに昼食調達にでかけ、教室に残っているのはわずかだった。
僕と、それからアクシスと取り巻き二人。胃を押え、苦しそうな顔を見れば、彼らが食事に行かない理由は一目瞭然だ。昨夜、彼らと同じ経験を過ごした僕も、食事を抜く理由は半分同じで……半分は異なっていた。
「行くぞ」
四人の中で比較的平気な顔をしたアクシスが、僕の腕を引き、取り巻き二人に声をかける。
ずんずん廊下を進み、昇降口を通り過ぎ、校庭を抜け、校舎がだいぶん遠ざかった時分で、やっと僕は口をきけた。
「ど、どこへ?」
アクシスは顎をしゃくる。そこには山の斜面しかない。
コミュニケーション不全の小団体が、息を切らしながら山道をのぼる。昨日の雪はさいわい積もっていないものの、木陰はぬかるみが残り、場所によっては凍っており、足元は不安定だ。アクシスに引っ張られ、時には取り巻きに押してもらいながら、終点に到着する。
終点――アクシスの目的地。それは僕とアクシスが昨日の早朝を過ごした場所だった。
校舎の屋根を見下ろす、同時に鐘が鳴る。僕はギョッとした。急いで戻ろうとするのを、首根っこを引っ掴まれる。
「サボりに来たんだろ。俺たちは」
「い、一緒にしないでくれ。僕はサボったことなど一度もないんだ」
「じゃあ俺に誘拐されたと言っとけ」
しばらくジタバタ僕はあがいたが、午後の時間割を思い出すにつれ、僕の抵抗は弱まった。鐘の余韻が空中から完全に消え去ると、完全に吹っ切れた。
点在する切り株が乾いているのを確認し、彼らは腰掛ける。サボリの熟練者どもが、ポケットからトランプを取り出す。
僕にも配られてくるカードを、断固と押し戻し、三人と距離をとった切り株に僕は腰掛ける。
「サボったなら楽しめよ」
アクシスの声。僕の返答は相当トゲを含んでいる。
「じゃあ君のいない教室で、皆はもっとすがすがしい思いをしているだろうね」
「なんでだ」
僕は彼の顔を見返す。本気で言っているのか。学校生活で彼は何も見ておらず何も考えていないのか。
「君の授業態度を思い返してみろよ」聴講拒否、指名されれば茶化した答えをし、テキストを床にわざと落として騒音で邪魔をすることもあった。「皆に大人気の授業で特に酷かっただろう。僕らの世界について聞いているのに、真っ赤な嘘をつく。君はいいだろうけど、恥をかくのはこっちなんだ」
「大人気の授業? ああ、Tの授業か」尊敬の念も感じられない呼び捨てに、アクシスは言い加える。「あいつ、いけすかないしな」
「……そう思っているのは君だけなんだろう」
「他にもいる」
彼は取り巻きたちを顎で示す。サボリの選択を採った彼らに、少々はそういう気持ちもあるのだろうけど。
「だからそういうのはごく一部の人間で、大多数の人は、知識人として尊敬している。一字一句聞き逃したくない。慈愛の人で穏やかな人格者に、失礼をしでかしたくないと思っているんだよ」
「慈愛の人かあ?」
「君に目玉はついているのか」
「慈愛の人は俺のことを無視するが」
「それは言った通り、君が問題児だからだよ。授業を妨害したり、真っ赤な嘘で混乱させてくるような少数派の悪ガキは、慈愛の対象じゃないんだよ」
「それは本当に慈愛の人か」
谷底から冷たい風が吹きつける。
肺が凍った。舌が続きを拒絶した。頭で理解し納得したことを、僕はずっと体に押し付けてきた。その体が反抗ののろしを上げた。それが昨夜の校則違反であり、今日のサボリなのだ。
もう一陣、谷から吹きあがる風が、僕の心を大きく揺さぶる。
「おい」
唐突に黙り込んだ僕の肩を、アクシスがゆする。僕は彼をスルーし、奥の切り株に座る取り巻きたちに声を投げかけた。
「やっぱり僕にもカードを配ってくれないか。5枚。ヘッドカード・ポーカーをやろう」
配られた5枚のカード、4枚を開いて右手に持ち、1枚は見ずに額にくっつける。ヘッドカード・ポーカー。
手元の四枚はすべて同じスート。続き数字ではないが、近い数字が固まっている。ストレートフラッシュを狙うか、それともフラッシュで勝負に出るか。
見れない1枚のカードが運命を担っている。額のカードの正体を知るため、僕は対戦相手の三人をよく見、見るだけでなく観察をする。
――僕自身についても同じことだったのだ。
自分のことならよく知っているし分かっている、そう豪語し命令を下し続けた結果、僕の体は悲鳴をあげ、ついに反抗ののろしまで燃やし始めた。
自分が自分を知り尽くしているなんて、真っ赤なウソだ。伏せて見えないカード1枚分の自分が必ず存在する。
カードの中身を確認するには、どうしても他人の手を借りねばならないのだ。
(このことを僕は、すでに言われていたっけ)
(4枚は手札、1枚は額に。それがルールで前提なのだと)
僕はカードを地面に置く。
吹き付ける風に負けないよう、声を精一杯張った。
「話そうと思うんだ。Tに関して僕が体験したことを」ゲームの時間は終わり、三人の視線がこちらに集中している。「昨日からずっと君たちが謎に思っていること、少しは解けると思う」
取り巻き二人は、こくんと頷きカードを片づけ始める。
「聞いてやるが」アクシスは後頭部を掻く。「俺は頭悪いからな。カイキのあいつも呼ぶぞ」