第三部5
第三部5
授業がまもなく始まろうとしている教室。
針のむしろを実感しながら僕は、星空とタンスの関連を考えつづけ、煮詰まり、脳が腐敗しそうな予兆に怯えていた。
視界の端にちらりと、アクシスとクレイ=ナハルトの姿が映る。
髪をかきむしり説明に窮した様子のアクシスと、それを興味深げに聞いているクレイ。
……だから何なんだ。僕は僕自身のことで頭がいっぱいなんだ。
クレイ=ナハルトが帳面を抱え、目を輝かせ、席を立って僕の所に近づいてこなければ、僕はふたたび自問の穴の底に戻っていただろう。
「授業前のせわしい時間にすまないね、エバハルト。でもどうしても君に聞きたくてね。アクシス君の説明ではらちが明かないと感じたのだよ。こういうのは本人談がいちばんだ。リアリティが最優先だ。君の記憶が明瞭なうちに、詳細を聞かせてくれたまえ。覚えていたら遭遇時刻。体感でいいから遭遇していた時間。第一印象。先日の睡眠時間。バイオリズム等々」
いきなり目の前でまくしたてられる。「何の遭遇談」と問うと、彼はまさしく立て板に水とばかりにめまぐるしい情報量の説明をまくしたて、僕はタンスと星空の話だと理解するまでに、そうとう疲労した。
「遭遇時刻を教えてくれたまえ」
「昨夜の、就寝時刻から……三十分くらい過ぎた頃だと思う」
「ふむ、午後十時半頃か。それで君はどのくらいそれを見ていた?」
「すぐに閉めたから、十秒くらい」
「十数秒ね、なるほど……あ、ちょっと比較させてくれ」言い置き、彼は手元の帳面を広げる。「キャロン嬢の場合は、家族も目撃する時間があった。十秒より長いと考えられるな。また彼女は『吸い込まれた』と表現されている。つまり自発的に閉めるのは不可能だったと考えられる。ふむ、こういう微細な差がまた興味深いな」
異世界のミステリーを話の輪郭しか覚えていない僕と違い、彼は詳細にメモをとり、細部を比較検討する取り組みようだ。
ずっと図書館のカイキさんでしかなかった彼を見る目が変わった瞬間だった。
「これは個人的な興味が含まれる内容だから、面倒なら答えなくても構わない。
星空の中に君は『ビル』を見ただろうか? 異世界に群立する高層建築物は、タンスの中でどのように表現されるのか好奇心に駆られてね。
原寸サイズは不可能だろうから、ミニチュアかそれとも遠景で表せられるのか。異世界のビルそのものが再現されるのか。
噂に聞く異世界の『空が映り込むミラー構造』とか『二棟をつないだスカイビル』を目撃できたならば、心躍るな」
心躍る。僕にはそんな観点はなかった。そんな風に受け取る人がいるのだと思うと、妙に冷静になれた。
「ビルは見てない。星空だけだった」
誰かに話すこと。事実を確認すること。シンプルだけど、こういうことが落ち着きを取り戻す地道な方法なのかもしれない。
僕は「ビル」の姿を見ていないことを再確認できた。
(タンスの中は星があるだけだった)
(少女キャロンは星空を背景に建つビルを見た。だから6000キロ離れた場所のビルに移動した)
(星空だけだった僕の場合)
(……いったい、どこに移動するのだろう)
落ち着いて考えてみれば、腑に落ちない点が見受けられる。
キャロン嬢の話のインパクトが頭に残っていたがゆえ、僕はそれに引きずられた。
だがテラで起こった現象と、僕が目の当たりにした現象をまったく同じに扱っていいはずはない。
どこで僕の思考は水路づけられてしまったのか。僕を迷路状の水路に連れ込んだ見えない手は、一体だれのものだ。
「……どうにか再現はできないものだろうか。君のタンス固有の現象だとして、方角? 位置? タンスの材料? 同条件を揃えるのは難しいだろうか」
相変わらずクレイ=ナハルトの質問はくどい。そして、あまりの熱心さに思わず口にしてしまう。
「あのさ、答えるのは別に構わないけど、作り話だとか思わないわけ?」
「ん?」
蛇口を最大にひねった水流のようなクレイの発言が、はじめて停止した。
「……を見たこと自体が、僕の嘘だとしたら、時刻を尋ねたり、ビルの詳細を確認するのも意味がないだろう?」
「なぜ意味がないのだろう」
逆に問われてしまった。僕は言葉に詰まる。
「エバハルト。こういう話を聞いたことはないか。トイレの怪談だ。便器から声が聞こえる。赤に青、黄色のどれか色を選べと言ってくる。赤と答えれば、血まみれになって殺される」
「青なら?」
「全身の血を抜かれて死ぬ」
「黄色は」
「生還すると言われている」
なんだか低学年の生徒が喜びそうな怪談話だ。ノーコメントの反応しかできない。
「おかしいと思わないか?」
「何が」
「赤と青は誰が試したのか。誰が話を広めたのか」
「……あ」当たり前すぎる盲点だった。「黄色を選んで生還した人が、赤と青の場合を想像して作り話をしたとか、かな」
「そうか。君はそう考えるのか」固く腕組みしていた両手をほどき、クレイは言った。「おれはそうじゃないが」
意味を問い返す前に、始業の鐘が鳴った。
昼の休み時間を迎え、僕は二人を引き連れて寝室に戻ってきていた。
二人の連れは、アクシスとクレイ=ナハルト。用件はタンスを調査するためだ。
我知った寝室でアクシスは長机にどっしり腰掛ける。寝室が別のクレイは、きょろきょろ興味深そうに内装を見渡す。
「これが僕のタンス。自由に見て構わないよ」
遠慮なくクレイがベッドに飛び乗り、タンスを開く。昼の日差しに照らされる、衣服が下がり、荷物が詰め込まれた、いつも通りの中身。興味津々に頭を差し入れているクレイの後ろ姿を見ながら、僕は思い出す。
「今日、図書当番だった。調理室で弁当もらってカウンターに行かないと。適当に見てていいよ。僕は当番が終わったらまっすぐ教室に戻るから」
場を離れようとする僕を、アクシスが不思議そうな目で見る。
(なにかおかしいのかな? …………あっ)
僕は代表委員をおろされたのだ。当番の役目は、新しい代表委員が勤めてくれることだろう。
足を止め、僕は自嘲の笑みを浮かべる。
朝から二人に振り回され、すっかり忘れていたが、代表委員をおろされた事実はこの先、日常のひょんとした事から、思い出して僕の胸にじわじわとダメージを蓄積するのだろう。
「……新しい代表委員って誰?」
「ジョアン」
アクシスは必要最低限しか言わない。朝もそうだったし、山道で遭遇したときからじゃないだろうか。
彼は……そんな性格だっただろうか?
「当番に行くのか、エバハルト。見てもらいたいものがあるのだが、遅刻してもらっても構わないだろうか」
クレイが呼び止めてくる。
「もう代表委員じゃないから当番は行かない。見てもらいたいものって何?」
僕はベッドに向かい、アクシスも机から降りてやって来た。
「これだ」
掌をちょうど覆うくらいの大きさの箱が、クレイの手に乗っている。箱はふつうの段ボール用紙でできており、表面に無数のちいさな穴が空いている。
「なにこれ」
「君のタンスにあったものだ。心当たりがないのなら、まあ他の人間の所有物・製作物であるのが妥当なところだろう。製作の意図が最もおれの知りたいところであるが、配置についても謎が深まるところだ。故意か過失なのか、しかし個人のベッド、個人のタンスと考えると……」
「悪いけど、頭がついていかない。今は一個だけ答える。それは僕のものではない」
「分かった」
「で、何なんだそれは。穴の空いたただの箱なのか」
しびれを切らしたようにアクシスが口をはさむ。
「カーテンを閉めてもいいか」またクレイの意味不明発言。返事の代わりに僕はカーテンを閉める。「箱はただの紙箱だが、中身は適当な名称が見当たらない」
狭いベッドに三人が顔を寄せ合う締め切った空間に、細い光の筋がいくつも伸びる。僕は息をのむ。太陽を遮ったベッドにちりばめられた光の粒。黒いカーテンの内側にも、チカチカまたたきが照射され、無数の光の群れを、いっそう星空らしく見せた。
(……そうだ、これは)
(僕が見たタンスの中の星空……)
音もなく星が消えた。クレイが箱の中に指先をつっこんでいる。
カーテンに仕切られた狭い空間で、誰も口を利かない。すぐ外は真昼の太陽が燃え盛り、昼休みの喧噪が庭を、廊下をめぐっているというのに、この一角だけ闇の世界に入り込んでしまったようだった。
「何なんだそれは」
乾いた口調でアクシスが同じ言葉を繰り返す。
「さあ。光を放出する何かとしか言いようがない」
クレイが首をかしげる。アクシスが詰め寄る。
「光が出て明るくなる物が入っているんだろう。明かりじゃダメなのか」
彼の言葉は閑却されても仕方がないだろう。掌サイズの箱の中にある明かりは、ガス管につながっている訳ではない。ましてや箱の中で燃料が燃えている様子もない。僕らの概念にある「明かり」は小さな箱に収まるものでは決してないのだ。
すでにこの時点で僕は、見えない手に血肉がつきはじめたのを感じていた。
「箱の中身はこれだ」
満を持してクレイが取り出すのは、銀色の光沢を持つ円筒だ。中指ほどの長さで、太さもそのくらいだ。筒の片側にはガラスが嵌っており、もう片方はキーホルダーチェーンがついている。筒の真ん中にある突起に触れると、強く真白な光がガラス面から照射され、暗がりの僕の目に焼き付いた。
「タンス中の奥に置いてあった。荷物に隠され、探そうと思わなければ発見は困難だろう。見つけたとき光は点いたままだった。明るい間は目立たないが、暗い場所ならば、光は箱にあけられた無数の小さい穴を通り、壁や天井に突き当たるまで照射され、星となってちりばめられる」
理路整然としたクレイの解説。僕もアクシスも何も言えなかった。
「精密な携帯型の明かり。製作は残念ながら現在のサウスラングルの技術では難しいだろうな。最先端の科学技術を持つ国の人ならば可能かもしれない。
製作したのではなく、あらかじめ誰かの所持品だったと考える。それはサウスラングルの住人ではなく、こういうものが世に溢れた世界から訪れた人だと考えられる。
そして山に囲まれた狭い盆地のこの街。条件を満たす者はごく限られる。いや……ひとりに絞り込めるのではないか」
血肉のついた見えない手の、持ち主が、その名前が、じわじわ炙りだしのように僕の中に浮き出てくる。
午後の授業の鐘が鳴り、僕たちは急いで教室に向かう。アクシスは「かったるい」とうんざり顔でついてくる。「これをどうする、エバハルト」と横に並んだクレイが聞いてくる。
無数の穴が空いた箱と、その中身の銀筒の明かり。
「君が持っているか?」
それは絶対に嫌だった。
「元の場所に戻すか?」
首が勝手に横に振れていた。
「折衝案で、おれが持っているか?」
どうすれば……僕はどうすればいいのか、途方に暮れる。
「……元の場所に戻してくる」
教室まであと数歩だったのに、クレイ=ナハルトはUターンし、四階分のぼってきた階段を下っていく。彼が四階の教室に現れたのは、授業開始から十分後で、寝室まで戻っていったのは本当らしい。
四時限目が終わったときクレイ=ナハルトは僕に指示を出した。
「本館の寝室に戻って、あれがタンスにあるか見てきてくれ」
授業間の休み時間は短い。疑問を挟む暇も、理由を聞き返す時間もなく、僕は階段を駆け降り、寝室に飛び込み、タンスを開けては光が放出されているのを確認し、すぐに閉め、踵を返す。
クレイに「あのままだった」と息を切らしながら報告したところで、五時限目が開始する。
五時限目と六時限目の間にも同じ指示を出された。寝室に入り、タンスを開ける。カーテンの内側の、タンスの奥は薄暗かった。
ない。あれは消えている。
僕は体中を発熱させながら四階分の階段を一気に登る。「なくなっていた」とクレイに告げ、「分かった放課後に検証しよう」と返され、僕は自席でぐったりと力尽きた。
放課後の教室には五人が居た。
僕とクレイ、アクシスとその取り巻き二人の計五人だ。アクシスたちは机を見出し、椅子にまたがりだらしない姿勢で、海戦ゲームに興じている。8x8の升目に縦横番号を降り、旗艦や砲台船を各自配置し、それぞれ迎撃しあうゲームだ。現在、こんなオールドゲームで遊ぶ奴は小学部にもいない。
ラングルフォートの休み時間に興隆するのは、異世界からもちこまれたTRPGだ。キャラクターシートが飛び交い、ダイスが転がる音があちこちの机から聞こえてくるのが昼休みの光景なのだが……今の僕にはその流行遅れがありがたかった。
カチャカチャ耳障りにダイスが触れあう代わりに、A1とかC8砲撃といった素朴な掛け声が台頭してくれることが、僕の心を落ち着かせる。
「放課後まで君を走らせる羽目にならなくて済んだようだ」
クレイ=ナハルトの声に、僕は対面に目線を戻す。
彼は自席に時間割を広げていた。それは僕のクラスの時間割ではなく、他の学年でもなく、教師の時間割だ。その意図を察するくらいには僕も回復していた。
「五時限目に授業を持っていなかった人物が、寝室から持ち去ったのだと考えているんだ」
「んな面倒なことしねーでも、あの『明かり』の時点で、分かるだろうが」
ゲーム用紙から目を離さず、アクシス=ボーラインが低くつぶやく。
取り巻き二人は首をかすかに傾げるが、それ以上興味を払わずゲームに没頭した。
「まあその通りだがな」苦笑いするクレイ。「明かりの持ち主だろうと推測した人物は、同時に五時限目に授業を受け持っていない」
異世界最先端の携帯明かりという証拠を失った代わりに、僕らはTがクロだと確証を得た。
それは僕の脚本に太字で書き込める内容だろう。
だが今回もそれ以上脚本は展開しないのだ。
監督であり脚本家である僕は、皆目見当がつかないでいる。彼は「なぜ」そんなことをするのか。「どうして」見えない手で僕を追い込むのか。
いっそ明かりを元に戻さなかった方が、多岐にわたる展開が見込めたのではないだろうか。
「おれの打った手が最善かどうかは分からないが」僕の思考を読んだかのように、クレイが発言する。「元に戻したことで、彼の意図を探ることができた。同時におれたちはタンスの謎を暴いていないと何食わぬ顔ができる。これからの立ち回り如何で、選択は最善だったと持っていくことは可能だろう」
「論理が広がりすぎてついていけないんですが」
「彼の意図は大別して二つ。あれは彼にとって回収しなければならない物だった。ひいては、設置自体が彼にとっては危うい行為だった」
「ああ。彼がしたことは『証拠を残してはならない』うえ、他人のタンスを無断で開ける。世間に知られたくない行為だったってことだね」
「そうだ。そして彼は無事証拠を回収し終えた。おれが故意に『元に戻した』ことには気づいていないだろう」
「うん」
「君はタンスの星空を目の当たりにし、ショックを受け、精神衰弱に陥った、そう思い込んでいる。おれたちの暗躍には気づいていないだろう。つまりおれたちは何食わぬ顔ができる」
「何食わぬ顔をして……どうするの」
どうするのではなく、どうなるの、が正しかっただろうか。ふいに落ちた沈黙が身に刺さり、僕は困惑する。
「エバハルト」小さく息を吐くクレイ。「君が先を見通せず疑問に思っている以上に、おれたちは深い謎に包まれている。なにしろこちらは君より情報量が少ないのだからな。前々回の全校集会で強く『彼』を賞賛し、絆を見せつけた君が、全校生徒の不快を買い、代表委員をおろされるまで至るのか」
間と呼ぶにはながすぎる時間を、彼らは辛抱強く待ってくれた。授業が終わって暖炉の火は落とされ、日が沈んだ教室はシンシンとした寒さに包まれ始める。
僕はそれでも何も言えなかった。
アクシスが撃沈を宣言し、ゲームセットになった彼らは豪快に紙を破く。それを期にクレイも席を立った。
「エバハルト。君はヘッドカードポーカーを知っているか」
「え、もちろん」
切り出された話題は意表をつく内容だったが、子供でも知るカードゲームのルールはすぐ思い出せた。
トランプをひとり5枚ずつ配布する。そのうち手札として見られるのは4枚だけ。残りの1枚はどうするのかというと、相手に見えるよう額にくっつけるのだ。
プレイヤーは4枚の手札と、見えない1枚の内容は相手の態度や反応で推測し、役を作るという複雑なゲームだ。
小学部の生徒などは、5枚くばらず、1枚だけにして、数の大小で勝ち負けを決める単純なルールで行っていることが多い。
「ヘッドハンドポーカーを楽しむには、自分も相手もルールを守ることが不可欠だとおれは思う」
「そりゃ、ルールは守らなくちゃ」
「相手が王侯貴族だろうと、庶民だろうと同じだ。配られた5枚のうち4枚は手元に、のこり1枚は相手に見えるようにする。それが前提なんだよ、エバハルト」