第三部4
第三部4
全校集会が始まる直前、僕は会長のラファエルに呼び出された。舞台の幕の影で立ち話をする。
「サイト・エバハルト。君を名指した投書が生徒会に届いている」
「……」
「内容は君が代表委員にふさわしくないというものだ。無記名で複数届いている」
「……」
「心当たりは?」
「……」
ふうと肩を落とし、ラファエルは「戻っていい」と言い放った。
僕の体も水の中を動いているようだった。共同の箱を持って、一般生徒の間を歩く。端までが異様に遠く、足が重く、僕は何度も転倒した。背中にトゲある笑いが降ってくる。よろよろと立ち上がり、続きを踏み出す。誰も僕の箱に入れない。重くなくて助かる。みんなわざわざ席を立って、隣の列を歩く代表委員の箱に所持金を入れに行く。
なんだろう……。
どうしてだろう……。
重く鈍い頭を抱え、箱を戻し、壁際に戻る。ああ、そうか。今頃やっと理解がやってくる。
(転んだ僕の無様な姿を……ざまあみろという気持ちで笑ったのか)
(笑いものにされるみっともない僕の箱に、誰もお金を入れたいと思わなかったのか……)
小遣いを配り終え、生徒たちの意見を募る場になった。ひとりの生徒が挙手する。
「一般生徒からの要望です。代表委員の交代を要請します」
会長ラファエルが副会長のクラウスと、どこか予期していた目線を交わしあう。
「それは生徒会史上初の、委員交代投票を行うことになります。どの代表委員が不適格で、交代を要請するんですか」
「サイト・エバハルトです。彼の態度は代表委員にふさわしくありません」
他の生徒たちがつぎつぎ加勢する。
「本日、下級生から助力を求められたとき、彼は参加しませんでした。自己勝手・協調性のなさ、生徒の模範となるべき代表委員とは思えません」
「授業中も積極性を見せることなく、始終、不真面目な態度でいることは教師の方々もご存じかと」
講堂の後部に立つ教師の列には、腕を組んでうなずく者が多くいた。生徒たちの席からも、賛同の声があがり、交代コールが輪唱された。
たった二週間前、僕がここで万雷の拍手を浴び、全校生徒の熱いまなざしを浴びていたのが嘘のようだった。
ラファエルが戸惑った顔で、教師陣に問う。
「生徒の見解は一致しているのですが、何分、初めての例になるので。教師の方々から見て、いかがでしょうか」
教師の何人かが顔を突き合わせ、相談し、答えを出す。
「サイト・エバハルトの不調が成績に現れているのは、こちらも把握している」
「提案なんだが、代表委員を一時的に休業するのはどうだろうか」
会長ラファエルが深くうなずく。
「なるほど。エバハルトの不調のあいだを、つとめてくれる代役を投票で選出するわけですね。
彼が回復すれば元に戻ってもいいし、それが難しいようなら、代役の生徒にそのまま代表委員を継続してもらえばいい」
生徒たちに意向を確認し、ほぼ全員の拍手が同意を示したので、代表委員交代投票がその場で行われることになった。
代表委員たちが紙を配り始める。ラファエルが言った。
「エバハルト、君はここに居ないほうがいいだろう。本館の音楽室に居るといい。終わったら誰かに呼びに行かせる」
音楽室で僕はひとり、ピアノの椅子に腰掛けて待った。
防音壁のためか、講堂の音は一切とどかない。学園に僕以外誰もいないのではないかと思うほど、静かだった。
鐘が鳴った。
全校集会の終了時刻を迎えたが、誰も呼びに来ない。
僕は待ち続けた。
就寝時間が近づいている。しかし音楽室の近くまで誰も来た様子もなかった。
いよいよ就寝時刻が過ぎた。僕は音楽室を出た。廊下の照明は落とされ、サブの明かりが足元を照らしているだけだった。
教員室のドアの隙間からは、明かりが漏れていた。
生徒とすれ違った。寝具姿だった。欠伸をしながらすれちがい、彼はトイレの入口をくぐっていく。突如、彼はギョッと振り返り、僕をまじまじと見つめる。幽霊とでも出会ったような顔だった。
寝室は照明が落とされていた。カーテンの内側から、寝返りをうつ音や、歯ぎしりがかすかに聞こえてくる。
僕は自分のベッドに入った。カーテンを閉じ、膝を抱えて座り込む。しばらくそうしていた。いびきや寝言の音は薄れ、皆、深い眠りにもぐったようだ。時間は深夜近い。
僕に眠気は訪れなかった。
制服にひどく皺が寄っている。眠れなくても、着替えておくべきだろう。
手探りでタンスを開いた僕は、取っ手を握ったまま固まった。
白く淡い光が、僕の無表情を照らしている。
(……光)
(…………星空)
タンスの輪郭さえ分からぬ闇の中、無数の星の光は白く照り、肉眼で見えるか見えないかの砂粒ほどのものが奥にちりばめられている。僕の知っているタンスではない。荷物をしまう奥行ではない。
閉じろ、と脳が命令するより早く、バンと締め出す音が響いた。
カーテンの外側から、うぅんと唸る声はしたが、誰も起きださなかったようだ。
僕はベッドにへたりこむ。
脳裏にあの果てしない星空が焼き付いている。
テラで起きたミステリー。誕生日の少女が、タンスに吸い込まれ6000キロも離れた場所に移動した。ビルと星空。イギリスとカナダ。
短い息を僕はあえぐように繰り返す。果てしない無量の宇宙観が耳の奥でごぅごぅと唸り続ける。
僕はどうかしてしまったのか。
テラのミステリーがここで再現されているのか。
タンスの中に入れば僕も6000キロ離れた遠い場所に移動するのか。
……移動できるのか。
無感動と無気力のはざまにあった僕の、弱弱しくもひさしぶりの希求だった。
遠い地域、誰も僕を知っている人がいない場所。何もかも捨ててそこへ行ってしまえたら。
タンスを開けば。
足を踏み出せば。
……立ち上がって。
……腕を伸ばして。
……行くんだ、僕。行くんだ、サイト・エバハルト。
窓の外が白み始めている。
冬の夜明けはまだ遠い。
僕はタンスから逃げ出した。誰も知らない遠くへ踏み出せなかった臆病者だという、事実から遠ざかった。
寝室を後にし、学園の正門前で、僕は凍り付きそうな息を吐き出す。東の空は山に隠れ、山道はまだ暗く、足元もおぼつかない。
羽織っただけのコートに、あらためて腕を通す。指がシャツの襟の固いものに触れた。代表委員のピンバッチだった。
取り外して門の上に置く。
不意に、数か月前の手紙のやりとりが頭に蘇った。
『……代表委員に選ばれたと聞いて誇らしい思いです。代表委員のピンバッチをつけたサイトの姿を見るのが今からとても楽しみです。母より』
僕は結局、母さんに一度も代表委員の誇らしい姿を見てもらえなかったのだ。誇らしい顔の母さんの肖像画が、幾千もの破片に変じて飛び散った。
どこへ続くかもしれぬ山道を、僕は登りだす。道幅がせまくなり、左右に草が伸びた獣道の様相をしめしてくる。
山の奥に踏み入ったためか、夜明けはますます遠くなったようだ。葉深い木々が24時間空を覆い、湿った土と凍えた落ち葉で、気温は一層さがり、僕の体は一段と冷え込む。膝ががくがくし、震えが止まらなくなる。
それでも前進するしかなかった。
自分の足音に、ほかの足音が混じっていると気づいたのはそれからしばらくしてだった。
草を割り、土を踏み、活動的な足音は、ふらふらの僕よりペースが早い。だいぶん近づいたところで僕は振り返った。
たとえ害獣だとしても、怖いとは思わなかっただろう。後ろから歩いてきたのは人間だった。学園の生徒。クラスメートで問題児のアクシス=ボーラインだ。彼は早朝の遭遇に、意外そうに目を見張る。
(……なんだ)
僕は無気力に顔を戻す。風が冷たい。体の中を錐が貫くようだった。微風にさえ、弱り切った僕の体はふらつく。
アクシスがしっかりした足取りで僕を追い越す。すれちがいざま、僕の顔をじろじろ眺める。何か珍しいものでもあるというのか。
前方が明るくなる。木々の切れ目から朝の光が差し込む。氷を溶かすほのかな暖かさが、痛痒となって駆け巡り、僕はまた息をつき立ち止まった。
先を行ったアクシスも足を止めていた。なだらかな丘陵状で、南向きのその面は、冬にもかかわらず柔らかそうな青草がしげり、伐採した切り株が適度に配置されている。彼はそこに腰掛け、足元の景色を眺めている。
僕も視線をやる。ラングルフォート学園の本校舎の屋根が見えた。実家にも学園にも背を向けずいぶん歩いてきたつもりだったが、ぐるりと回り込んできただけらしい。
アクシスが膝の上で何かを開いた。籐のカゴだった。右手に何か下げていると思ったらカゴだったのか。
カゴの中から取り出したものを、彼は左腕をのばして僕に突き出す。
サンドウィッチだった。
「食え」
最小の文字数での命令だった。人も通わぬ山奥で、日も登り切らない薄暗い時間帯、学園の屋根を見下ろし、生徒が二人、問題児と元代表委員。一体何をしているのだろう。
受け取り僕は口に運ぶ。素朴な味が広がった。パサついたパンが、バターの塩気をもらって生まれ変わるように、胃に落とした一片のサンドウィッチが僕の運命を転変させるなど、誰が想像できただろう。
気づけば、三口で平らげてしまっていた。サンドされた具を思い出すこともできない。豊かで複雑な味だけがあとに残っていた。
「うまいか」
僕は黙ってうなずいた。自分が人の顔を見て、肯定の意を示せることに驚く。得意げにアクシスは鼻をふくらませた。
次に渡されたのは蓋つきのカップで、蓋をあけると湯気が白くただよう。指をあてると痛いほどの暖かさがじんわり広がっていく。
レモネードだ。酸っぱさが顔の表情筋を強引に動かし、溶け切らないハチミツが火傷しそうな温度で舌のくぼみに溜まるので、嫌が応にも体が汗をかきはじめる。
……レモンの量をもう少し考えろよ。
市販のハチミツは雑味が足りないと、母さんが言っていたけどその通りだ。ざらめやシロップを加えないから、素っ気ない味だよな……。
もらった物に文句をつけるまで回復した気力は、もう木枯らしが吹き付けても僕をふらつかせないし、白く濃く鮮度に満ちた呼気を吐き出させる。
鐘が鳴る。起床の鐘だ。
白く吐き出すふたつの呼気が、鐘楼に向く。
アクシスが立ち上がる。右手にバスケットを下げ、くだりの山道に足を乗せる。
目顔が「戻らないのか」と言っている。
僕の足は下山の道を――学園への帰路をたどっていた。
寄宿舎に戻るまでに交わした会話はひとこともなかった。
アクシスは何も聞かなかった。日の出前から寮を抜け出し、コートを着た外出姿なのに、街へ降りるでもなく、山を越えるでもない僕のルート取りは明らかに異常だったのに。
僕も何も聞けなかった。
寝室はもう皆起きだし、朝食に出かけたあとだった。
バスケットを投げ出したアクシスは、カーテンを開き、タンスを開け、脱いだコートを乱雑に収めている。
僕は一連を見つめながら、自分もタンスを開けなければならない現状に思い当たり、唾を飲み込む。
ずっと日常的にできていたものが、今日から覚悟を決めて行う儀式になるというのか。タンスを開ける、子供にもできる簡単なことが。
表情がこわばる。気が遠くなる。僕の人生、これから一体どうなってしまうのだろう。
「……」
視線を感じ首を曲げる。すぐそばで、アクシスが厳しい横顔をしていた。
「昨夜すげえ音立ててたよな。壊れてんのか」
と勝手に僕のタンスを開けてしまう。反射的に目を閉じた。呼吸を整え、おそるおそるまぶたを開き、僕は朝の光が差し込む、あたりまえのタンスの中身を見る。
ハンガーにかかった制服にコート。下着や下履きが詰まったカゴは、いつも通り蓋をきっちり閉めてある。私物の入ったカバンは奥に立てかけられ、昨日の朝までの僕ならば何も考えず制服を取り出し、着替え始めていただろう。
だが……あの瞬間を経た僕は……全身がわなわな震えてくるのを止められなかった。
バンと戸の片方をアクシスが乱暴に閉める。
「壊れてはいねえな」
「……」
「ネズミでも出たのか」
「……」
「他のものか」
「……星空を……見た」
震える声で僕はそれだけ言った。
アクシスは笑い飛ばさなかった。けど、信じると口に出して言う訳でもなかった。
そして僕はまた僕自身のことで、果てのない苦悩と戦慄の入口に引きずり込まれている。
(……星空を見たはずなのに、今見たら……星空はなくなっている……)
(それは、存在したのか? 存在しないのか?)
(ホラ吹き扱いされるとか、信じてもらうとか、それ以前に……)
(…………僕の頭はおかしくなっているのではないか……?)