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第三部2

第三部2


ヒュッと音を立てて、息が喉をくだった。

胃に到達したそれは悲鳴に転じており、逆流して喉を駆け上がってくるのを、僕は舌の上で堰き止める。

「サイトくん。髪にゴミが」

僕の髪に触れたT先生のセリフは、異様なほど遅れて僕の耳に届く。

放課後のクラブ活動。甘い匂いのただよう調理室で、僕と彼は至近距離にいた。体がこわばる緊張感も、早鐘のように打つ心臓の音も伝わってしまいそうで、僕は脇の下に冷たいものが流れる。

「サイトくん?」

無反応な僕に、T先生が首をかしげる。

「どうしたんだよ、エバハルト」

「なに。なにかあったの?」

クラブ員たちの関心が集まる危険をふりはらう為、僕は急いで言った。

「す、すみません。いきなりなので、驚いてしまって」

ふりはらいきれず、いくつもの視線が僕に集中してしまっていた。

「それで、あの……ドキドキして声が出なくなってしまって」

「わはは、ドキドキって何だよエバハルト」

「……そ、その……昨日、髪をちゃんと洗えたかなあ……っていう」

爆笑の渦。「なんだよそりゃ」「自意識過剰だな」「みーんな同じ石けん同じ香料だろ」大丈夫だ。彼らの声からはまだ仲間意識が感じられる。

僕は道を行く馬車に乗っている。そうだ。道の端に投げ捨てられた方は幻影なのだ。

「ははは、サイトくんにそんな風に意識されると、こっちも恐縮しちゃうな」

微笑み顔のT先生。口笛を吹きならし、からかい声をあげる生徒たち。

僕はどちらの顔も見ることができなかった。


クラブの活動時間は、各クラブの裁量に任されている。

授業時間より長くなるのは通例だが、僕はもう、授業の五倍も十倍も長く活動をしている気がした。

「そろそろ後片付けに入ろうか。後片付けしながらのミーティングで、今日のクラブ活動は終了」

終了の声をどれだけ待ちわびただろう。

体中の息を吐き出してしまいたい。

「うわー、放課後短いなあ、あっという間だよ」

「腹いっぱいのチョコあ~んぱんの後の、片づけの苦しさよ……」

「そうそう。今日はチョコを使った菓子だったから、器具や用具にこびりついてしまっているね」

「ああ、それならお湯を沸かしておきますよ、T先生。俺らはいつもお湯で流し洗いですから」

「うん、それをね、今回はお湯を使わずにこっちを使ってみてほしいんだ」

彼が台の裏から容器を取り出す。中にはかすかに色がついた、さらりとした液体が入っている。

「これは?」

「洗剤。天然素材洗剤。毎回思っていたんだけど、チョコの油脂を溶かすのに、いちいちお湯を沸かすのは不経済かなあって思ってね。身の回りで手に入る天然素材で作ってみたんだ」

異世界転移者による生活用品の発明ということで、調理室がにわかに活気づく。

「へえー、これで固まったチョコの汚れが溶けるんですか」

「溶かすというより、油脂を天然油で中和する感じかな。まあ、使ってみてよ」

数か所の流し台は、後片付けとは無縁の、はしゃいだ声に包まれる。

「うわ、すげえ。ぬるぬる汚れが落ちてくよ」

「天然素材洗剤って名前だっけ。T先生、これ、インクの染みがついた俺のシーツにも使えるかな?」

「それは止めておいてくれるかな。まだ試作品でね。天然の素材だから人体に害はないけれど、布の色落ちなんかは実験していないんだよ」

そんな会話を聞きながら、後片付けは終わり、クラブ活動も終了した。


その朝、着替えようとした僕はシャツの数が少ないのに気づいた。

ラングルフォート学園で、洗濯は業者に依頼する。各生徒の専用かごに入れ、一か所に収集し、業者が回収していく。

回収や納品が滞ることは、ままあることだった。

業者との手続きや、事務処理の担当は保健室の養護教諭だ。僕は保健室におもむき、尋ねてみた。

「サイト・エバハルトくんの洗濯物は……預かり伝票の控に名前は載っていないね」

伝票をめくりながら、キワキ養護教諭答えてくれる。

「伝票は二日前までさかのぼって確認してみたんだけどね、載ってないってことは、業者がまだ回収してないんだと思うよ。ここ数日、学園全体で洗濯物が多かったからね。どこか他の場所に紛れたか、置いてしまったようなことはないかい?」

心当たりがなくもない。

連日のように無気力で過ごす僕は、かき集めた意識や集中力を学業に振り向けるのが精一杯で、生活方面は明らかにおろそかになっていた。

ちょっと探してみますと、保健室を後にする。

廊下をすこし行ったところにリネン室。リネン室のとなりにリネン予備室がある。

予備室は空の棚が並んでおり、洗濯かごは通常ここに置く。棚がいっぱいのときは床に、床がいっぱいのときは廊下まではみでたりする。

(棚がいっぱいだったから……無意識に床に置いたのかな)

廊下を探しながらとぼとぼ歩く。廊下の奥まで行けば図書室と図書準備室があるが、いくら集中力が散漫でも、そんなところにかごを置いたりはしないだろう。

その途中には化学実験室がある。設備が劣化し、現在はあまり使われていない教室だ。その隣には科学準備室。本体の使用頻度があれなので、置いてあるものもほとんどない。

通り過ぎようとした僕は、凍り付いた。

(……え?)

科学準備室の小さな窓から、何かが見えた。

(何? ……洗濯かご……だ)

認識した瞬間、冷水を被ったように背筋がぞっとした。場違いなものを発見したくらいで、普通こんな風にはならない。

かごに入ったのが僕の衣服だと気づいてしまったからだ。

悪寒が足元から駆けのぼり、全身がぶつぶつ粟立つ音を耳がとらえる。

僕のまぶたは閉じ方を忘れてしまったのだろう。捉えてしまった。準備室の暗がりに立つ白い影を。

僕は動けない。歩き方も、ここから離れる方法も失われてしまった。

幽鬼のように白い影が動き、柳が揺れるのに似て手が洗濯かごに伸びる。

とっさに、手で口を覆っていた。

そうしなければ幽鬼の絶叫が迸ってしまっていただろうから。

(……白い影……)

(洗濯かご……の、中身を持ち上げて……)

(………………鼻…に………近づけて……)

五感が途切れた。頭が現実のつづきを断ち切る。

息を止めた。心臓も血流の送り方を忘失したようだった。

室内の白い影が、かすかにうごめき、こちらを向く。

僕は矢のように駆けだした。停滞していた血液が手足にぐんぐん流れ込み、五感のなかの視覚が、目撃したばかりの光景が、色濃く僕に焼き付く。

(……白い影……こちらを向いたあの顔……)

(あれは………………)

(あれはT先生………………)


保健室に飛び込んだとたん、僕の腰はぐにゃりと音をあげ、立てないくらい脆弱な布ともゴムともつかないものになってしまった。戸口にへたりと座り込む。

「どうしたんだい、エバハルトくん。化け物にでも追われたような顔をして」

キワキ先生が笑う。それを見てもまだ僕は、現実の世界に戻ってきた実感がなかった。

「……T先生が……」

「ん? T先生がどうかしたのかい」

「……僕の洗濯物が……」

「なんか話が飛ぶねえ。もともとはエバハルトくんの洗濯物の話だったけど」

「僕の洗濯物を……T先生が……」

「うん」

「と……取り出して……嗅いで……いたんです……」

養護教諭の眉がピクリとする。

「ええと、エバハルトくん。君の言っていることがよく分からないんだけど」

「僕の……行方不明の洗濯物が……化学準備室にあって……T先生がいて……僕の服を……嗅いでいたんです……」

繰り返すたび、得体の知れないものに体を舐めまわされるような嫌悪が走る。

「どうして君の洗濯物がT先生のところにあるんだろう?」

「……わからないです」

「なぜ君の洗濯物をT先生が嗅ぐのだろう?」

「……わからない……です」

行き詰った沈黙が室内に降り、重苦しさが僕の頭痛を誘発した。


「すみませーんキワキ先生」ドアが開き、僕はビクリとする。同じクラスのハリスだった「北塔洗面台のうがい薬が切れたんで、取りに来ました」

「はいはい、うがい薬ね。今日、仕入れた荷物が届いたので、一階に取りに行ってくるよ。ちょっと待っててね。

……エバハルトくんもそのままでね」

「エバハルトも居たのか。どーしたんだよ、そんな化け物にでも追われたような顔して」

まだ僕はそんな顔をしていたのか。

ハリスはその後も話しかけて来たが、僕の耳にはまったく届いていなかった。キワキ先生が出ていったドアを、すがるように見つめ続けている。

「……おーい、エバハルト。聞いてるのかよ?」

聞いていない。

僕は頭の中に開いた脚本の、これから先の展開を書くことに必死だ。

キワキ先生がT先生に詰問する。事実が明らかになる。異世界転移者でありゲスト教師の異様な行為が世に明かされ……それから……それから。

どうしてだろう。僕の展開はここから広がっていかない。心の不安も晴れない。


「お待たせしたね」

上機嫌でキワキ先生が戻ってくる。

はずむ足取り、懸念など何もないと言わんばかりの無邪気な顔。

僕の手足にピリっと痺れが生じる。ちいさな痺れは大きなビリビリに変化し、僕の体はいつの間にか感電したように痺れに取り巻かれている。

「はい、それじゃあまず北塔のうがい薬からね。希釈はいつもの通りでね。空容器はあとで回収に行くからそのままでいいいよ」

「了解っす」

「話は変わるけど、君たちのクラス、昨日のTクラブで異世界菓子作ったんだって?」

「あー、ご存じっすか。パイの実とチョコあ~んぱんを作ったんすよ。パイの実の早食い競争は至福の一言で。今日も再戦OKだし、明日もやりたいし、連日どんと来いって感じです」

「うんうん、そのくらい美味しい異世界菓子かあ。羨ましいねえ。相伴したいねえ。それで調理の後片付けに、異世界洗剤を使ったって聞いたんだけど」

「天然素材由来のT先生特製調合洗剤っすね。あ、言っておくけど、洗剤は食えないと思いますよ」

「あはは、いくら何でも洗剤は食べないよ。それじゃあ、うがい薬の設置よろしくね」

ハリスが出ていく。保健室には青ざめた僕と養護教諭が残された。

「エバハルトくん。君もクラブの参加者だよね」

「……はい」

「後片付けにももちろん加わったんだよね」

「……はい」

「天然素材の洗剤をT先生が気にかけていた様子はなかったかな?」

「えっ」

「溶剤という仕様上、合成だろうと天然だろうと服についたときの色落ちが懸念されると、T先生はおしゃっていたんだよ」

ビクンと僕の体は跳ねた。

実際はそんなやわなものではなかった。落雷エネルギーが体内を通過し、地面に打ち跳ねさせ転がった真っ黒の感電者、それが僕だった。

「君の服も、色落ちを気にして調べただけじゃないのかなあ」

「……」

「洗濯物自体はT先生が一時預かってくれていたみたいだね。昨日、廊下に放置されていた洗濯かごに気づいて、通行の邪魔になるからって、近くの空き教室に控えさせて」

「……」

「今はリネン予備室に戻してあるから、明日には業者が回収してくれるよ」

「……」

「エバハルトくん?」


洗濯物の行方を気にかけ、ここを訪れたときの僕は、ただの無気力な生徒だった。

つぎに逃げ込んだときには、得体のしれない怪物に襲われたような顔だった。

今は……落雷に打たれて、地に引き倒されてピクピクするだけの黒焦げ感電者だ。

かろうじて生きているだけだ。

半死半生の体で、一体どうすればいいのか。

なんでいっそ打ち殺してくれなかったのかと、天を恨めばいいのか。


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