第二部7
第二部7
ネリーの隔離期間が終わる一日前に、僕はやっと居場所を教えてもらえた。
隔離場所は、ラングルフォート学園の建つこの山で、学園の敷地の少し上の標高に位置する観察小屋だという。
小さい小屋だが、ベッドはあるし、井戸も付随している。
隔離期間中はT先生が朝晩通って食事を届け、様子を見てくれていた。ネリーのもとへ行けるのは、T先生だけだ。不顕性感染で免疫を獲得し、Rubellaには二度とかからない体質になったのだと説明してくれた。
母さんはネリーの無事と居場所を聞かされたあと、駆けつけると言ってきかなかったようで、とりなすのに父さんは相当苦労したようだ。
手紙のやり取りは可能なので、母さんは毎日書き送っているらしい。僕もネリーに手紙を書いた。
T先生に預け、持って行ってもらうのだ。
ただもう手紙を書くのも、T先生の手をわずらわせるのも今日までだ。明日にはネリーの隔離期間が終わる。忌まわしいRubellaウィルスは、地上から根絶されるのだ。
東の空に面した観察小屋の、朝日がのぼる光景は美しかった。観察小屋の窓に沿って木が払われ、連なる山脈の切れ目から、陽光がさしこみ、あたりを静かに燃え立つ色に染めていく。
小屋のドアの横の小窓には、花を飾ったビンと、キルト生地のぬいぐるみが飾られている。僕はノブを回す。
「ネリー」
「まあ。ずっとイケメンだけを見つめる日々だったので、兄さんには悪いけれども比較してしまいますわ」
ベッドに腰掛けるネリーは、首をめぐらし、いつもと変わらぬ調子でいう。
「三日ぶりに会う身内にかける言葉を、淑女らしく選んでいるか? それ。第一、なんだよイケメンって」
「T先生に教わった言葉ですわ。女性がいいなと思ったMANを、そう呼ぶんですって。ハンサムより広い範囲で使ええて便利ですわ」
妹が「イケメン」認定したT先生は、話し相手になってくれただけでなく、こまごまと気を配ってくれたようだ。飾った生花は新鮮なものだし、木製のシンプルなベッドは、明るい色のベッドカバーで覆われ、無機質さを感じさせない。
サイドデスクには鉛筆と大量の紙がある。紙は二種類あり、升目に数字が並んだものと……白黒ぬりつぶして絵になっているものがある。
「数字を書くのがナンバープレイス。白黒塗り絵がピクロス。隔離状態で暇だろうと、T先生が用意して下さったんですの。初めて聞くパズルですが、ルールは至極かんたんで、わたくし熱中して、何十枚も解いてしまいましたわ」
熱心に解いた様子は、すり減った鉛筆からも見て取れた。
「イケメンT先生は、わたくしの飲み込みの早さを褒めて下さいましたのよ。こんなに機転が利く賢い女の子はなかなかいないよ、この世界にも女学校があればよかったのにね、と」
恐ろしい伝染病の患者であったことを微塵も感じさせない、ほがらかで屈託ない笑顔のネリー。
ネリーの安否を知り、命に別状はない病気だと教えられ、父さんは涙を浮かべて喜んでいた。母さんがネリーに毎日書き綴った手紙も、大事な子供への愛情が、生きていてくれるだけでも嬉しい感情が満ち溢れていた。
なぜ僕はそうできないのだろう。表情筋が鉛になったように重いのだろう。最後に笑ったのはいつだったか思い出せない。
僕の心はおかしくなっているのではないか。切り離して隔離して治癒が必要なのは、むしろ僕なのではないか。
ダニエルとゲオルグの小さな弟たちを近所に預けてから出発する両親の到着は、昼頃になる予定だった。
なので早朝にネリーに会った僕は、いったん学園に戻って午前の授業を受け、昼休みに再度小屋を訪れた。
父さんも母さんもまだ来ていなかった。二人の到着後、休憩兼昼の食事をし、ネリーを連れて帰宅するので、小屋を引き払う準備を僕は済ませておくことにした。花を処分し、ぬいぐるみを荷物に入れ、小屋を片づけていく。
病み上がりのネリーは、ベッドに座らせていたが、この娘が大人しくしているはずもなく、はしゃいでしきりに喋りかけてくる。
やっぱり人寂しかったんだな。病気だと聞かされ心細くないはずがない。まだ小さな女の子なんだ。
そう言い聞かせないと、ろくに返事もできない自分の心の重さが嫌になる。
「あのさ、ネリー。あの日アップルパイを届けてくれた後のこと、教えてくれないか」
「わたくしが兄さんに最後に会った四日前のことですわね」
ベッドから降り、ネリーは僕のすぐ横に来た。真剣な口調で真剣なまなざしだった。
「まずお礼を言っておきますわ。わたくしを探してくれてありがとう、兄さん」
「なんだよ、水臭いな」
「父さんからもイケTからも聞きましたの。わたくしを必死に探してくれたってこと。
あの日、わたくしは父さんに連れられ、正門前で荷馬車を降りました。まっすぐ事務室に向かい、面会用の帳面に必要事項を書き記しました」
「ずいぶん遡って話してくれるんだな」
「その理由はすぐ分かりますわ。
面会の書類を作るのに時間がかかるので、わたくし廊下をぶらぶらしていました。T先生が話しかけてきて下さったのはそのときですわ。久しぶりだね、面会許可の待ち時間? そのあいだココアでもどうだい、そんな感じで」
「うん」
「T先生とお茶と短い会話をした後、面会許可が下りて兄さんに会いに行きましたわ。その後、兄さんと別れるまでは省略しますわね」
「分かった」
「わたくし裏の石段から降りて、お招きの屋敷に向かおうとしました。でもその前にT先生に呼び止められたんですの。
『さっきネリーちゃんとお茶をして気になったんだ。熱っぽさはないかい? どこか腫れていたり、発疹が出ていたりしないかい』と」
「T先生に……」
「ええ。わたくしが痒みを訴え、発疹の跡を見せるとT先生は顔を曇らせ、感染症の症状に一致していることを警告してくれましたわ」
「……そこでT先生に連れられて、この観察小屋に隔離された……」
「T先生に山道を連れて行かれながら、聞かされましたわ。この感染症は命に別条はないけど、症状の副作用が未成年の男子に特に危険なこと。学校という共同体では爆発的に伝染するから、決して拡大させてはいけないって。
『お兄さんや小さい弟、ご両親を守るため、ネリーちゃんは一人で我慢できるかい』そう聞かれて、わたくし、しっかりええって答えましたわ」
うつくむ小さな顔。あごで結んだリボンの先が小刻みに震える。ネリーの声も心なしか震えていた。
僕はどうして言えるだろう。心細い思いをした妹を責めることができるだろう。
――その時、隔離の件をT先生に伝言するなり手紙を託してくれればよかったんだ――しっかり者で、ネリーの育ての親で、幸せ者で、何でもなかった僕がそれを言う権利はない。
父さんと母さんが到着した。荷馬車で行ける高度まで山道を踏破し、その後は徒歩だ。道は悪くなく、距離もさほどではないが、他の理由で難儀したようだ。
大量の荷物を運んできた父さんは疲労困憊している。
ハイキング用のバスケット、厳重に包まれた紙袋、サッチェルもパンパンで、中からは晩餐会でも開催するのかと思われるほど食料があふれだしてきた。
母さん特製のミルクケーキは、コーティングが前代未聞の分厚さだ。ナイフを入れながら、なかなかスポンジ層に到達しないので驚いたくらいだ。断層に目を見張りながら、贅沢の二文字と、練乳の甘味を堪能する。
チキン三種のサンドウィッチ。照り焼きに塩漬けに煎りそぼろ。材料はいずれも鶏肉なのに、飽きずに食べ続けられるるのは母さんの料理の腕の賜物だ。
秘蔵のハチミツで作ったレモネードもあった。50人が出席するパーティでももてあます量で、下山時に持ち帰る父さんの苦労をしのんで、僕はせっせと母さんの料理を口に運んだ。
母さんはずっとネリーを抱きしめて離さず、ショールでぐるぐる巻きにされたネリーが「暑いわ」とこぼしても、離れようとしなかった。
「ほらネリー、もっと食べなさい。母さんの料理、三日ぶりでしょう」
目を細め、片時も離さない長女に、優しく語りかける母さん。
(……僕は三か月ぶりなんだけどな……)
よくかきまぜていないレモネードは、酸っぱい味がした。
まもなくT先生が小屋を訪れた。
父さんは世話になりましたと頭を下げ、母さんは娘の命の恩人に御馳走を勧める。ネリーは「学園のパンより、うちで焼くパンの方が美味しいの、確かめてもらえますわよね」とサンドウィッチを突きつけつつ、数日の隔離期間で培った親密を見せつける。
「そうだね、ネリーちゃんの言う通りだ」
サンドウィッチをぱくつきながら、T先生は穏やかに答える。たちまち追加のサンドウィッチが膝に積まれ、レモネードのなみなみ入ったコップを持たされ、苦笑いするT先生。
まるで幸せな家族のような談笑の風景。
(帰路の父さんの荷物、少しは軽くなるかな……)
幸せの風景に加わる方法を忘れてしまった僕は、よそを向いてそんなことだけ考えていた。
昼休みの終了が近づく。
両親とネリーも荷物をまとめ終え、帰りの準備が整った。
T先生は小屋の小屋の最終チェックをし、いちばん最後に小屋から出て施錠をした。
「この小屋、実は無断拝借だったんです」内緒話をするような声。「ネリーちゃんを隔離したあと、慌てて管理者に問い合わせて使用許可をもらったんです」
そうだったんですか、と両親。
「サウスラングル市の管理物件なので助かりました。市長とは懇意にしてますので、融通を利かせてもらいました」
「何から何まで……T先生に見つけてもらい、保護してもらったこと、本当に僥倖でした」
父さんと母さんはひたすら恐縮する。
「いえいえ、僕もまだ足りない部分があることは自覚していますから。テラでの学生生活中に、専攻を理系分野に向けていれば、ワクチン、ウィルス、感染症について満足いただける説明をできていたでしょうね。
再発や感染など不安に思っている点や疑問など、完全に払拭してあげられないのが悔やまれます。
僕の力の限りは尽力いたしますが」
「あら、わたくしは心配なんてまるでないわ」スカートを翻しネリーは言った。「イケTの言うことを信用していますもの」
「イケT?」
「イケメンTさんの略ですわ」
「まあ、ネリー……命の恩人に、なんて口を」
母さんがたしなめる。T先生がまあまあとなだめる。
「僕が教えたテラの流行語です。それを使って僕の愛称を呼んでくれるのなら、むしろ嬉しいですよ。
僕のことを信用してくれているというのもね。ネリーちゃんは、再発や、感染を恐れてないんだね」
「だってイケTが断言しましたわ。もう家族に会って家に帰っていい。感染の危険はなくなったからねって。イケTの言うことは正しいのですわ。信じるに値するんですわ。この小屋に連れてきてくれたときもそうでしたわ。ネリーちゃんのように若くて元気な女の子は、症状は軽くて済むし、熱もほとんど出ないし、ベッドで休んでいるのが嫌になるくらいだろうね、って言ってました。まさにその通りでしたわ。だから、わたくし…」
まだまだ続けようとするネリーを、やんわりと留めて、父さんは頭を下げた。
「大事な娘を保護してくだったT先生を、わたしたち家族は心の底から信頼しております。世間さまに迷惑をかけぬよう配慮下さったモラルの持ち主に異議を挟むことなどあろうはずがありません。異世界の卓抜した知恵と知識で救いの手を差し伸べて下さる先生のお手を、説明を求めてわずらわせるなど、とんでもなく恐れ多いです。わたしどもはただただ従い、信じ、頭を下げるだけです」
「主人の申す通りです。心から信頼し尊敬できる大人に出会い、教えてもらえるなんて果報者です。サイトも、ネリーも」
感極まった様子で母さんが声を震わせる。
ネリーがスカートをつまんで、お辞儀をする。
T先生がこちらを見た。僕もあわててペコリとする。
「僕も……その通りです。先生に心から感謝しています」
これは自分の声ではない、僕はそう思った。
でもその場にいる誰も、僕の声ではないことを指摘しなかった。
家族と別れ、教室に戻っても、僕はまだ本調子とは言い難かった。
昼休みは終わっているが、午後の授業の教師がまだ来ておらず、生徒たちのあいだには休み時間の喧噪が継続していた。
「なあ、エバハルト。お前のお陰だってな」
僕が着席したのに気づいて、ひとりの生徒が声を上げた。
クラスメートがわっと僕を取り囲む。ここ最近はおろか、入学以来、こんな大勢に近距離で詰められる経験はなかったので、僕は目を丸くした。
「ごめん、何の話?」
「Tクラブだよ。うちのクラスがトップバッターに決まったんだ」
先日、入部申し込み書に名前を書いておいたのを僕は思い出す。クラスのほとんどが名前を書いていた事実から推測すれば、学校全体では、全生徒の99.9%が入部するであろうことは想像に難くない。
全校生徒に匹敵する人数でクラブ活動をすることは不可能だから、グループ分けをするというのは小耳に挟んでいた。
「グループ分けは結局、クラスの編成そのままってことになってさ」
「それで、栄えある第一回目のTクラブ開催は、一学年の北塔クラスの生徒で行うってさ」
誰もが興奮を隠しきれない様子だ。
「Tクラブの一回目の参加者がうちのクラスなんだね。でもそれがどうして僕のお陰なの?」
「うん、入部希望者の名前を書いた紙をT先生の所に持って行ったんだ。他のクラスや他の学年の奴も持ってきてさ。もうこの時点で希望者が多すぎたから、クラス編成で活動することも決まってたんだ。で、順番どうするかってことで、T先生は『くじ引きで順番を決めるのが平等かな』って、まとめた申込書をぺらぺらめくったんだ」
クラブ活動の時間と回数は、学園の規則で決められている。だから、一度に一グループ(一クラス)が活動し、小学部も含めたクラス数を加味すると、運が悪いクラスは参加できるのが三か月後とかになってしまう。
「そうしたらT先生、申込書をめくる手を止めて言ったんだ。『最初に活動するグループだけ、指定させてもらえるかな』って」
「指名されたのがうちのクラス、一学年北塔クラスだっただね。それで、どうやって僕の名前が繋がってくるの?」
「T先生が『サイトくんが入部してくれたようだから、このクラスを一番にさせてもらうよ』って、そのまんま」
そんなストレートに僕の名前が飛び出してくるとは、思いもよらなかった。
「『サイトくんには迷惑をかけてしまったから、そのお詫びの意味でね』って、ちょっと意味深そうだったかな」
「どういうことなんだエバハルト。万能超人の異世界人Tさんが困っているところとか想像できないけど、もしもそういう窮地があって、それをお前が助けたとか、そういうことか?」
「ううん、迷惑かけられてはいないよ僕は。本当、たいしたことはなかったんだ。T先生、謙虚な人だから。だからそういう言い方するんだと思う」
僕は否定しておいた。
「ええ、なんだよ。秘密を共有するほど近い何かがあったのかよ」
「後でじっくり問い詰めさせてもらうからな」
親密の情をこめて髪をくしゃくしゃにされ、肘で小突かれる。
愛想笑いを返しながら僕はチラとドアを見る。午後の授業の教師はまだ来ない。
「まあエバハルトに感謝して、さっそく決めようぜ」僕の机に一枚の紙が置かれる。「Tクラブで作る予定の異世界菓子だ。トップバッターだからな、心して決めなくちゃな」
紙にはポポロン、チョコあ~んぱん、ういろう、パイの実、トッポ、八つ橋など想像もつかないお菓子の名前がずらりと並んでいる。
僕を囲んだクラスメートらが、リストを前にわいわい話し出す。
「まあエバハルトの功績でトップバッターになれたようなもんだからな、選ぶ権利はエバハルトにあるだろう」
「何にするんだエバハルト。やっぱり名前のインパクトでポポロン食ってみたいよな?」
「名前で決めるなら、まず『チョコあ~んぱん』を選んで、チョコなのか餡なのか謎を解くべきだろう、なあエバハルト」
「い、いや……ここは民主的に投票で決めるべきだよ」
「なるほど、さすが代表委員」
投票の準備に、僕を囲んでいた生徒たちが散っていく。僕は小さく息を吐く。
投票用紙に、お菓子の名前をひとつ書くくらいならできるだろう。
だけど……自分の気持ちに問いかけ、食べたいものを選ぶことは、どうしてもできそうになかった。
(……なんでだろう……)
前は魅力的な菓子ネーミングに胸をときめかせたのに。材料と作り方を聞くだけで胃袋が踊りあがったのに。
今は死んだ石みたいに、気持ちはコトリともしなかった。