第9話
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第9話■夢と現実
ブザーが鳴るので何かと思って廊下に出るとゴトウが笑顔で立っていた。軍装している。
「地球時間じゃ、朝の七時だぞ」
「知ってる」
「なあ、ちょっと付き合え」
「なんだ、観光にでも連れて行ってくれるのか」
「外に出たいか? 何もないぞ」
「ここにいるのは息が詰まる」
「じゃあ、来い」
グレーの軍服を着た二人は、狭く長い廊下をまっすぐ進む。よく見ると、壁の材質も床の材質も、違うものを貼り合わせて補強しているようだ。錆びて穴の空いた場所など、放置されている。
「ガーデンに行くか」
「ガーデン?」
「この月基地で一番金のかかっている場所だ」
「ああ、お姫様のお城だな」
「知ってるのか」
「話だけは聞いてる」
「俺も姫には会ったことがない。いくらエネルギー制御されてるからと言って、触って爆発したら怖いからな」
「触ると爆発するのか?」
「そこまでは知らない。でも、あれだけのエネルギーを持ってるんだ。握手しただけでも体が吹き飛ぶって話だぜ。気をつけな」
研究棟の4階を突っ切って、さらに奥に進むと、右に曲がる通路が現れる。緩やかなスロープになっており、そこを下ると、別棟の通称「ガーデン」に入る。
「この扉の奥がガーデン。そして、そこから先は全部、このガーデンの制御装置。ほとんどが機械だ。フル稼働していないと間に合わないんだと」
「燃料は?」
「地球からの物資だ。持ってきたうちのほとんどがここで使われる。入るか?」
「いや、いい」
「じゃあ、ここで待ってろ。車呼んでくる。何もないけど月観光しようじゃないか」
スロープを上がっていくゴトウの後ろ姿を見ながら、手に持っていた軍の帽子を被った。正面についた刺繍は、防衛軍のロゴだ。地球政府のものとは異なる。
ガーデンの扉も、他の棟の扉と変わらない。鉄でできた重い扉だ。躊躇したが、ノブを握って、回した。
中は、明るい。まるで、地球の朝のような明るさだ。
「誰?」
水に濡れたすずらんを揺らしたような女の声がする。
「ジン? ユリ?」
白いシルエットはゆっくり立ち上がり、こちらへ向かってくる。長く垂れた植物の葉をくぐると、目の前には小さなの素足が並んでいる。
「あなた、新しい人?」
視線を上げると、華奢な栗毛の女が、首を傾げて微笑んでいた。
一瞬、ここは地球なのではないか、とトモヤは思った。高い天井からは太陽光が降り注ぎ、緑が溢れ、暖かい土の香りが広がっている。優しい眼差しがトモヤに注がれた。
「ここは…?」
「ガーデンよ。道に迷った?」
「君は」
「私はサイ」
名前を聞いたのは、初めてだった。大きなエネルギー源が、生きている人間で、目の前にいる。目も鼻も口も腕も足も、人間のそれと何も変わらない。特別な人間ではない。
「あなた、もしかして、ジョー・トモヤ少佐?」
「ああ」
「知っているわ。はじめまして」
差し出された手を握るのを、躊躇った。この姿を見て、まさかとは思ったが、恐怖が勝った。サイはそれを悟ったのか、口元に手を添えて小さく笑った。
「大丈夫よ。このガーデンにいる間は、エネルギーは宇宙空間に放出されているから」
恐る恐る手を握ると、その手は柔らかく暖かかった。
「あなた、思っていたより背が低いのね。年はいくつ?」
「二十歳。身長は一五八cmしかないんだ。操縦者は小さくないと、コクピットに入れないから」
「そうなのね。私は十九歳。身長は一五三cmよ」
「そう…なんだ」
サイは走り出すと、ベッドの上の猫を抱えた。
「この子はイチ、三毛猫よ。あっちはニイ、黒猫。そこにいるのが、サン、茶トラ」
「ああ、うん。名前?」
「そう、名前。私がつけたの。ジンが、地球から連れてきてくれたの」
遊び相手を見つけた子供が、はしゃぐようだった。誰かが来るのを待っていたのだろうか。ひとりぼっちで閉じ込められたままで、寂しかったのだろうか。
まるで、小さな子供のように、サイはトモヤの手を引いた。
「こっちに来て、お花が咲いたの」
鮮やかな光が踊り、降り注ぐ暖かさは、今まで味わったことのないような気持ちと、懐かしい記憶を呼び出した。木漏れ日がメリーゴーラウンドのように、くるくると回る。
緊張し固まったままだったトモヤの表情は、次第に弛緩し、ふわりと笑顔になった。
サイが木の根元を指さした。濡れた土に白い花が咲いている。
白い花は天井を見上げていた。
いつかの故郷の風景が蘇った。在りし日の母の背中を見上げる、夕日に染まった枯れた土地。何度呼んでも、母は振り返らなかった。風に揺れたのは、白い花だ。
緑に反射した光が眩しい。
サイの裸足がレンガの床を踏む。銀のジョウロを胸に抱えて、サイは微笑んだ。
無意識のうちに、トモヤの両目から涙が溢れた。
音もなく、一滴が顎の先に向かって滑り落ちる。
とつ、とレンガに染みができた。
「ジョー少佐? どうしたの?」
駆け寄ったサイは、トモヤの頬に手を当てた。
「泣いてるの?」
なぜこの女は、見知らぬ人間にこんなに近づくことができるのだろうか。そうか、長い間閉じ込められたままで、人との距離感がわからないのだ。初対面でこんなに顔を近づけるなんて。トモヤは頬を涙が伝うのも忘れて、サイの瞳を見つめた。
「ごめんなさい、私がおかしなことを言うから驚いたのね」
サイは頬から手を離すと、一歩下がった。トモヤは思わず、下ろしかけたサイの手を慌てて握った。
「いや、そうじゃない」
困惑の表情のまま、二人は見つめ合った。水の流れる音が響いている。
「君は…」
「え?」
「君はずっとここにいるの?」
「ええ、ずっとここにいるわ」
「いつもここにいる?」
「ええ、いつも」
そっと手を離すと、トモヤは俯いた。
「申し訳なかった。突然入ってきて、不躾な…ことを」
「また来て」
「え?」
「また、いつでも来て。あなたのこと、もっと知りたい。私、友達が少ないの」
「友達?」
背後から激しいブザー音が鳴り響いた。猫たちが一斉に隠れる。
「ジョー少佐、お車の準備が整いました」
耳障りな雑音混じりのアナウンスの音声だ。
「じゃあ…また来る」
サイは笑顔で小さく三回頷いた。
「待ってる」
鉄の扉は重い。ガーデンの中と外では気圧が違うのだ。外から開ける時は軽く、中から開ける時は重い。振り返ると、白いスカートの裾が踊って見えた。
外は暗い。当たり前だ。窓などないし、外も暗いのだから。袖で涙を拭う。目深に帽子を被り直した。
スロープを上っていくと、ゴトウが走り寄ってきた。
「見当たらないから探したぞ。アナウンスは聞いたか」
「聞こえたよ」
「どこに行ってた」
「どこにも行ってない」
まるで、夢と現実ほどの差がある、とトモヤは思った。