第8話
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第8話■感情
酸素カプセルに五時間入ったままのスガワラ・ヨルは不機嫌だった。ソウマ・ヤン博士は長い髪の毛をかきあげ、覗き込んで肌の状態や呼吸を確認する。
「苦しくない?」
「苦しくないけど、そろそろ出たいわ」
「もうちょっと辛抱して。これも仕事のうちよ」
「だって飽きたんだもの」
「訓練したでしょう?」
「地球の訓練もつまらなかったけど、ここへ来てもまた訓練? もううんざりよ」
「わがまま言わないで。他の訓練生はもっと辛い訓練を受けたのよ? 血も滲むような」
「そうかな…私の訓練は簡単なものばかりだったけど」
ソウマ博士はふと視線を上げると、出入り口に立つセリザワ博士に手を振った。セリザワは小さく頷いた。
「まあ、そう焦らないで。あなた、まだ月へ来たばかりじゃない。本番までは三ヶ月もあるのよ」
「憂鬱だなあ。こんなこと毎日しなきゃいけないの?」
ソウマは「またあとでね」と言い残すと部屋を出た。扉の前で待っていたセリザワは、ソウマの腕を掴むと引き寄せた。
「詳細は、軍部から伝わってるわね」
「もちろんよ」
セリザワは胸を抑えて肩を落とした。
「大変なもの預かってきたのね、ユリ」
「そうなのよ。できることならあのまま酸素カプセルに閉じ込めておきたいくらい」
「心配しないで。ヨルの担当は私になったわ。なるべく人との接触を避ける。それにしても、あの子本当に訓練を受けたの?」
セリザワは眉間にシワを寄せて首を横に振った。
「やっぱりね」
「しっかり訓練を受けた候補生は、ほぼ全滅だった。あの子たちは、心が死ねば体も死ぬの。今回の件で思い知ったわ」
「なるほどね。テストだけ合格というのはそういうこと。今までの訓練生は、大体事情を把握してから月へ来ていたけど、あの子は何も知らない。本当に、そのへんで拾って、そのまま連れてこられた感じ。今から自分が何をするのかさえ知らない」
「お願いよ。あの子しか残ってないの」
「サイは? 状態はどう?」
「お陰様で。留守中、ありがとね」
「どういたしまして。あ、あと、あなたが留守中、ソニア教授から電話があったわ。メール、届いてなかった?」
「あ、まだ見てないわ。なんだって?」
「なんでも、予算が降りたとか。かけ直しておいてね。ほっとくとうるさいから」
「了解」
ゴンゴン、と何か叩く音がして見ると、酸素カプセルを中から叩く音だ。振動と共に蓋が揺れている。
「あの子、ホンットにもう!」
走って駆け寄るソウマを目で追い、腕を組んだセリザワは廊下の奥の暗闇に向かって歩き始めた。