シュトロハイム・デオニーソス・ミューザー・ギルド
ギルドに向かう前にやることが有る。それは宿の確保をすることだ。
俺がこれから最低三月は世話になるんだ、出来るだけ安くて快適でサービスの良い飯も美味い宿に泊まりたいもんだ。
だからまず、門から立ち去る前に門番達にどんな宿が良いか聞いておく。
「悪い、この街で銀貨3枚以下で3日以上泊まれる良い宿をいくつか教えてくれないか?あぁそれと、ついでに高くても良いから良い宿もついでに教えてくれ」
質問に対して返ってきたいくつかの宿の名前をしっかりと記憶して、改めて2人に今度は銅貨を3枚ずつ渡して街の中に入る。
街の中は門近くは八百屋や肉屋やパン屋なんかの市で賑わっていて、少し遠くを見れば足元をフラフラさせた同業者と思われる奴等が肩を組んで歩いてたりするのが見える。
ここはデオニーソス。冒険者に『食と酒の街』なんて言われるだけあって、どうやら居酒屋は朝までやってるらしい。最高か?
そんな中を通って俺は1つの八百屋に目を点ける。女性、それも俺の親ぐらいの世代の女性が番頭をしている八百屋に近付く。
「どうだお姉さん、売れてるか?」
「いらっしゃい!お姉さんなんて久し振りに言われたねぇ。売れ行きはまぁ、ボチボチって言ったところだね。何を買っていく?」
「そうだな…、お姉さんのオススメする軽食に向いた果物が欲しいな。俺は見ての通り冒険者で、しかもちょうど今さっきこの街に入ったんだ。だから何か手軽に美味い物を食いたくてね、だがお姉さんの目利きで選ばれた物なら美味いと思ったんだ。だからお姉さんが選んでくれよ」
「そんなに煽てたって1銅貨も蒔けないよ」
「ありゃ、そりゃ残念。でもまぁ、お姉さんが選んだのは美味しそうって思ったのは本当だ。だから選んでくれないか?」
言って、スッと銅貨を1枚番頭の前掛けのポケットの中に入れる。
「あれま…、アンタ、若いのに相当悪い人だね?こんなオバサン捕まえて何をしようってんだい?」
「いや、ちょっと知りたい事が有ってね」
「ふぅーん…。まぁ、わかったよ。そうだね、これなんてどうだい?」
番頭が見せてきたのはまだ青さの残る熟すまであともう少しって感じのアポーだった。
「アンタ、さっき街に入ったって事はかなり高位の冒険者様だろ?てことは夜の外を来た訳だ。そしてそろそろ眠気を我慢するのも限界なんじゃないのかい?
だからコイツだ。程よく酸っぱくて眠気も少しは覚めるし、酸っぱさの中にほんのりとした甘みで疲れた体を少しは癒してくれるだろうさ」
「ほれ」、そう言われてアポーを手渡される。当たりだな。
俺はありがとうと言って商品棚に書いてある値段分の銅貨2枚、それにこれから知りたい情報料として銅板3枚を番頭の手に乗せた。
「それで、何が知りたい?」
「さっきも言ったが街に入ったところだから宿を探しててね、銀貨3枚で3日以上泊まれる良い宿をいくつか教えて欲しいんだ」
「あぁ、だったらあそこの――――――――」
それから何軒も似たようなやり取りを繰り返したあとギルドへ向かった。
この1週間ほどの活動拠点となる宿のおおよその候補を絞り、あとはギルドでも名前が出てくればそこに泊まろうってつもりだ。
この街のギルドには1度来てるから前の宿に泊まれば良いんだが、前の宿に三月も泊まろうと思うと今の持ち金じゃ1泊も出来ない。…………こんな冒険者初心者時代のような事をやる手間を思うと、見栄張らずにもう少しエリオンに渡した金の中身抜いとけば良かったかね?
何はともあれ、ギルドに着いた俺は、朝1番という事もあり、良い依頼にありつこうと沢山の依頼書が貼られた掲示板に張り付く同業者の横目に、比較的空いている受付の列に並んで順番を待った。
「次の方どうぞ」
聞こえてきた声は、元パーティーの時に俺達の事を担当してくれてた『ロット』という中性的な顔の奴だった。
「よぅロット、元気か?」
「! ジュード様、ようこそいらっしゃいました!今回のパーティー脱退の件はなんとも残念な」
「あー、そういうのは良いし、どう聞いてるかは知らんが俺の意思で抜けたから気にすんな。むしろ俺としてはようやく解放されたって感じだ」
「そ、そうでしたか。………それで、ご用件は?」
「最優先事項は宿の紹介だな。大半の金をエリオンに渡して出て来たから前の宿に一泊も出来なくてな。銀貨3枚以下で3日以上泊まれる良い宿をいくつか探してる」
「わかりました。では資料をお持ちしますので少しの間お待ちください」
そう言ってロットが建物の奥へと入って行った。
それを見計らってか、隣の受付窓口に並んでいた同業者パーティーの1人が話し掛けて来た。
「よぉアンタ、名前はジュードって言ったか?さっきのやり取りを聞いてたが、パーティーを追放されたんだって?」
だが、どうでも良いため無視をする。というか、さっきの会話でそう聴こえる大変愉快な耳を持っているのなら、明らかに俺を笑いたいだけの性根の腐ったクソッタレだ。無視するに限る。
「おいおい、無視すんなよ!ジュードと言やぁ、『剣盾の誓い』の片割れと同じ名前じゃねぇか!そんな大物様が追放されたってのは、どういう事なんだぁ?」
ねちっこく、まるで蛇のように絡み付いてくるような言い方で話し掛けてくるも、この後の展開が読めている上、どう転んでも代わりない事は目に見えてるため更に無視を決め込む。
「おいおい、Aランク冒険者様は俺等みたいなCランクにも上がれない奴等なんて視界にも入らないって事かぁ?随分上からなんだなぁ!天下の追放されたAランク様はよぉ!!」
俺達のやり取りに気付いたらしい他の同業者やギルドの職員の視線が集まって来てるのが見なくてもわかる。クソ野郎もそれをわかってか更に囃し立てて来た。
「ハハハ!見ろよオメー等!追放された元Aランクパーティー冒険者様はこんだけ言われても何も言い返して来ねぇ腰抜けだ!そりゃ腰抜けなら追放されても仕方ねぇわなぁ!なぁお前等!!」
ハァー…、Cランクにも上がれないって言ってたから、コイツもダサンと同じくDランクか?なんで自分がDランクから上がれないのかわからない馬鹿は、なんで自分より格上に対してこういう態度を取れるのかね?
この後、自分がどうなるか本気でわかってないのが救いようがない。
「………なぁ、ここまでボロクソに言ってんのに無視するたぁ、お前耳付いてんのかよ?なぁ?…………おい!俺の話を聞けってんだよ木偶の坊!!」
とうとうその時が来たらしい。クソ野郎は感情のまま俺の肩を掴んで来やがった。
だから俺は、クソ野郎の腕を右手で掴んで力の限り握った。するとクソ野郎は痛みからか手を離した。
そこからは俺と同ランクか1個したの奴にしかハッキリとは見えなかっただろう。
まず俺は右手でクソ野郎の腕を握って肩から手が離れた後、掴んだ右手を押してクソ野郎の頭がちょうど掴みやすくなったところで左手でクソ野郎の前髪を掴んで、右手でその鼻っ面に思い切り拳をブチ込んだ。そして殴った手で前髪を一時的に掴んで拘束し直して、離した左手をクソ野郎の後頭部へと回して掴んで5回ぐらい受付台にクソ野郎の顔面をぶつけた。そこで一旦左手を離してやった。
痛みからクソ野郎は崩れ落ちる。その顔面に、今度は爪先で蹴りを入れた。
顔面を蹴られて仰け反って倒れたクソ野郎の股間を左足で踏んでグリグリとした後、そのまま左足を軸足にして右足を持ち上げ、何度も何度も顔面を踏みつけてやった。
顔の原型がわからないぐらい腫れ上がった顔面に仕上がった所でクソ野郎の首を左手で掴んで持ち上げ、目線の高さを合わせたあと、こう言ってやる。
「あ?悪い。なんか羽虫が耳元で飛んでたみたいでアンタの声が聞き取り辛かった。羽虫は耳元から追っ払ったし、悪いがもう一度アンタが俺に何を言ってたか教えてくんねぇか?」
当然だが周りの空気は冷えきってた。そしてクソ野郎も、歯が折れてるのかマトモに話すことすら出来ずに涙を流しながら、恐らく「ごめんなさい」「許してください」と聞こえるような気がするよくわからん言葉とも思えない音を口から漏らしていた。
だが『そんな事は関係ねぇ』『知ったこっちゃねぇ』精神でクソ野郎の腹を空いた右手で1発殴る。
「あー、なんだ?何が言いたいんだ?そんな醜い顔と醜い声で言葉かどうかもわからない音を出してるだけじゃ会話なんて出来ねぇぞ?
あ、それともお前、魔物か?魔物だから人の言葉が話せないんだな!おいおい、だったらさっさと言ってくれよ…。なんで魔物が街の中に居るのか知らねぇが、魔物なら討伐しないとならねぇじゃねぇか!昨日の朝から一睡もしてないのに、全く、緊急時でもないのにこれ以上俺を働かせないでくれよ……」
言いながら左手に込める力を強める。
クソ野郎がそのせいで呻いたが知ったことではない。あぁ、ただ、口から赤い涎が垂れて、それが俺の手首に掛かったのはいただけない。いただけないから、また1発腹を殴る。
「おいおいおいおい、何口から汚物吐いてくれてんだよ!うぇー、この手の魔物は久し振りだったから忘れてたけど、中にはたまに毒を持ってる個体も居るからな…。傷口はないから体に毒が入ることはないとは思うが、気分的に気持ちの良いもんじゃねぇなぁ……」
「お、おおお、おい!わ、悪かった!コイツが悪かったし、止めなかった俺等も悪かった!だから、な?!頼む!これ以上止めてやってくれねぇか!?金払えってんなら金も払う!だから頼むからもう解放してやってくれ!!」
俺がいよいよ手を離してクソ野郎の服で血の混じった涎を拭こうかと考え始めたタイミングで、ようやく正気に戻ったらしいクソ野郎の仲間の1人が俺の左手を掴んで懇願してきた。
『これは良いタイミング!』そう思って、若干芝居掛かった感じで戯けて対応した。
「ァん?この魔物はお前等の魔物か?おいおい、街に魔物を入れるならしっかりと管理しとけよ。こりゃ管理出来ない魔物を街中に入れるのは立派な犯罪だぜ?」
「もうそれで良い!俺等がいたらなかった!だから本当にそれ以上は止めてやってくれ!」
「んー、まぁ、俺もオーガやデーモンじゃねぇし、アンタ等が今後、しっかりとコイツを管理するってんなら何もしねぇし誰にも言わねぇよ。しっかりと管理してろよ?」
手を離し、倒れたクソ野郎のズボンで汚れた手首を拭いたあと、絡んで来たクソ野郎含めてこの場に居る全員に向けて殺意を込めて言う。
「喧嘩を売る相手は選べ。じゃないと本当に死ぬか、死ぬより酷い目に遭うぞ」
そこで1度区切って、そのまま、今度は殺意を込めずに、
「それとこれは先輩からの忠告だ。駄目な奴とのパーティーは限界を感じたらさっさとパーティーを抜けるなり駄目な奴を追放するなりして関係を切れ。じゃないと『剣盾の誓い』みたいなランクに合わないクソみたいなパーティーになって、拷問みたいな日々を送ることになる。それが高ランクになればなるほど話題になって、ソコのクソ野郎みたいな奴に絡まれる事になる。
義理や人情も大切だが、俺達冒険者って奴は冒険者って仕事をしてる。仕事に私情を持ち出してそれを改善しなけりゃ俺みたいになるぞ」
「悪い、口が滑った。今のは忘れてくれ」と話のオチを付けて、そこで話すのを止めてロットを待つ。
さて、はしゃぎ過ぎた。この後絶対、ハゲと殴り合いをさせられるんだろうな……。
その予感は的中し、騒ぎを聞き付けやってきたハゲ頭で上半身裸の変態が大きな声で声を掛けてきた。
「久し振りだなジュード!そしてまたお前かジュード!!」
「うっせぇよハゲ。んな叫ばなくても聞こえてるっての」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
シュトロハイム・デオニーソス・ミューザー・ギルド。デオニーソスのギルドの長をしている男だ。
髪は無い。本人曰く、「掴まれたらそれだけで大きな隙になる」とかなんとか。年齢は確か今年で42だったか。
このハゲは冒険者の戦闘スタイルの中では珍しい徒手空拳を得意とするおっさんだ。体を鍛えるのが趣味。体を酷使するのが趣味。体の悲鳴を聞くのが趣味。強者との殴り合いを愛しているという変態だ。
元Sランク冒険者で当時の二つ名は【拳嵐業火】のシュトロハイム。その拳は正に嵐のように敵を襲い、彼が拳と体に纏う炎は正に森を一瞬にして焼く業火のようだと理由から付けられた二つ名らしい。
二つ名ってのはAランク以上になった冒険者に贈られるあだ名だ。だから当然俺も持ってるし、エリオンも持ってる。
で、今目の前に居るハゲはさっき言ったみたいに強者との殴り合いを愛している。この場合、彼の示す強者とは誰か?悲しい事に俺である。だから必然、会えば必ず広い所で殴り合いをさせられる。暑苦しいことこの上ない。
「やんねぇかんな」
「よしジュード!今から俺達の拳と拳を合わせ、互いに更なる高みを目指そう!!」
人の話を聞いちゃいない。
「俺は昨日の朝から寝てねぇんだよ。そんで夜の外を魔物倒しながらこの街に来て、さっきようやく入れたんだ。だからさっさと宿を選んで寝たいんだよ。わかったかハゲ」
「そうか!だったら尚更やろう!極限の状態で行われる拳と拳のぶつかり合いは時を追い越すんだ!さぁやろう!」
「だから毎回言ってるが人の話を」
「それに、これだけ騒いだ落とし前もこれで着けさせるんだ、悪い話じゃないだろ?」
「……………」
このハゲの何が嫌いって、コレだ。ただの人の話を聞かない筋肉変態馬鹿ではなく、こうやって周りへの配慮とかそういうのが自棄に上手いのが何より腹立つ。腹黒いって言うんだっけか。
俺が今言われて、絶対に言うこと訊かないとならないように事を運ぶんだ、眠たいとか寝たいとか言ってられない。
「ホント、アンタの事苦手だ」
「そうか!俺はお前の事が好きだぞ!なんせ強いからな!!
それに…、」
ハゲはそこで1度区切ると、俺がボコボコにしたクソ野郎を横目で見ながら、
「お前が本当に『剣盾の誓い』を追放されたのか、それともお前が『剣盾の誓い』に愛想を尽かしたのか、ここに居る俺を含めた馬鹿共にその辺の事、実力と今後の『剣盾の誓い』の動向で教えてくれや」
と続けた。
周りを見る。周りの同業者やギルド職員達は、さっきボコボコにした奴とその仲間を除いて、ハゲの言ったように何やら期待した目で俺を見ていた。さっきまでの危ない奴を見る目ではなく、ハゲと何処まで遣り合えるのか期待するような目だ。視界の端には賭けの呼び掛けをやり始める奴等まで居る。
そこで俺は大きく溜め息を吐き、ロットとは別の受付の人に「ロットに伝言。『ハゲに絡まれたから、終わり次第ソッチに向かう。待ってられなくて悪い』と伝えてくれ」と伝えてハゲの案内でギルドの地下へと案内された。
ギルドの地下はちょっとした闘技場のようになっている。ここのギルドは元々闇賭博をしていた場所で、ソコを御上の兵が摘発して建てた建物だ。その闇賭博の内容は、魔物と奴隷を戦わせてどっちが勝つかを賭けるというもので、ハッキリ言って悪趣味なものだった。
だからこの闘技場はその当時のものままらしい。
闇賭博の闘技場。つまり当時のままなら観客席というものは勿論有る。つまり今も有る。そしてあれだけの量の人間が好奇の目で俺の事を見ていたんだ、当然その席は埋まる。
予想外なのは、空いている所がわからないほど人が居るという事だろう。
「なんか人多くね?」
「それだけお前に期待してるって事だぞジュード!」
「ハァー……」
大きく溜め息を吐く。ホントこのハゲ、絶対今から泣かしてやる。
俺は装備の一切をその場で脱いで上半身裸になる。そして脱いだものをこの闘技場の端へと置いてから首を鳴らしてハゲとの距離が拳の届く距離まで近付く。
「ホント、俺寝てないんだが?」
「そんな目をギラギラさせていてよく言う」
「この目のギラギラは眠くて限界だからキマッたようにギラギラしてんだよ」
「とか言いつつ装備まで脱いだではないか!」
「アンタとやる時に装備が有ったら互いにガチになる。ガチになっちゃ後が大変だ。アンタも俺も、周りも」
「俺はガチでも良いぞ?」
「ヤだよ。さっさと終わらせて俺をベッドの上で寝かせてくれ」
「ではお望みの通りに」
ハゲの言葉が終わると同時に、俺達の互いの左頬に互いの右拳が入った。
互いが互いの左頬に拳を叩き込んだ瞬間、俺達は互いの右方向へとブッ飛んで行き、闘技場と観客席を隔てる壁へと突っ込んだ。俺達に突っ込まれた壁は大きな音を立てて崩れ、俺の上に重なる。
立ち上がって瓦礫を右手で掴む。一般人やCランクまでの人間ならまず無理だが、Bランク以上のパワータイプなら丸々と太った人間が丸まったぐらいの大きさの岩ぐらい握力だけで持ち上げられる。
持ち上げたソレを俺とは反対方向へ飛んでいったハゲ目掛けて投げる。
投げられた瓦礫は真っ直ぐ目標へと飛んでいった。が、途中で瓦礫が何か硬い物とぶつかって壊れる音がした。それでハゲに当たらなかった事がわかった。音的にだいたい俺達がさっき居た辺りでぶつかったな。
ぶつかった所目掛けて地面を蹴る。
認めたくはないが、俺の徒手空拳に於ける戦い方はハゲと物凄く似てる。というか、まだ冒険者として働く前に聞いた【拳嵐業火】の戦い方を参考に、俺が俺のスタイルに合うように修正したのが俺の徒手空拳。と言った方が正しいか。
つまり俺とハゲの戦い方の根幹は物凄く似てる。そりゃそうだ、俺が真似て自分のものにしたのだから。
徒手空拳に於ける戦い方、その戦い時の思考の仕方なんかもある程度真似て身に付けたつもりだった技術は、正に真当たりして、ハゲの戦い方や戦いに於ける考え方も当然似てる。
つまり何が言いたいか。それは、再び俺とハゲが最初に殴り合った地点へと戻ってきて、互いに防御を捨てて相手の体や顔面を殴りまくるという超原始的な戦いが始まったという事だ。
互いの拳が速過ぎて互いの皮膚を切るのが拳越しにわかる。その上、しっかりと互いの拳が互いの体を痛め付けてるのを潰れた己の骨越しにわかる。
右、左、右、左、右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右左右。
呼吸や瞬きすることすら忘れて突き出す拳に合わせて腰も回してしっかりとパワーを拳に乗せて相手を殴る。
互いに最初の1発で顔の骨は折れている。頭蓋が割れてなきゃ何も問題無いとは、認めたくないが俺とハゲの弁だ。
互いが互いの骨やら臓器やらを痛め付け、血を吐きながらも尚相手の体を殴る。俺達の殴り合いを見たいと思い今この場に来ている連中はこの光景を見て何を思ってんだろうな…。頭がおかしいと思ってんだろうな。
俺達は『休む』という概念が無いガキのように有り余る力を相手にぶつける。
ただ悲しいかな、俺とハゲだと数センチハゲの方が高い。だからか腕の長さもその分ハゲの方が長い。
俺の拳が届く距離は当然ハゲの拳も届く距離で、俺の拳がギリ届かない距離もハゲの拳は届く。つまり俺の拳が届く距離というのは、俺の拳とハゲの拳ではリーチの差の分だけ拳に力が乗りやすいハゲの方が有利という事だ。つまり俺がそれだけ不利になる。
誰だって敗けるのは嫌だ。だからまだ、現時点ではまだこのハゲに勝てないから俺はこのハゲが嫌いだ。
それでも毎回、互いにこんな怪我するまで殴り合いをさせてくるこのハゲを泣かすため、体は絶対に止めない。
互いの拳が相手の体に届く度に体から聴こえてはならない音が響く。それが当たった場所から体内を伝って聴こえた音なのか、それとも実際に空気を震わせて耳に届いた音なのかはわからない。
ただ、そろそろ眠気が限界で、だからこそハゲの言葉通り俺は時を追い越し始めた。
走馬灯。死ぬ直前に時間がゆっくり流れ始めたように感じて人が自身の過去を追憶することだ。実際は時間は普通に過ぎていて、死に直面した時に物凄い集中力を発揮して時間がゆっくりになったように感じるというものだが、要するにこれは死ぬ直前じゃなくてもより深く集中すれば再現することはいつでも可能だ。
まぁ、それだけ集中力を持続させなければならない訳だから、一般人にはまず無理だ。再現するには才能か強過ぎる信念が必要だ。
ハゲはこの極限の集中状態で見える光景を『時を追い越す』と表現している。
つまり、俺は今、時を追い越し始めた。
必然、俺の体感速度は急激に遅くなり、先程までのハゲの拳が今では先程までと比べると遅く感じ始めた。
口角が上がったのが自分でもわかった。
俺はこれ幸いと、自身の拳の速度を上げた。
驚いたハゲの表情が見える。だがその顔もすぐに止め、より一層険しい表情となり、ハゲも拳の速度を上げた。
しかし、悲しいかな、上がった速度も今の俺からすればほんの少し速度が上がったようにしか感じられなかった。普通の歩る速度から早歩きの速度になったぐらいの差だ。
最初は互いの拳の速度は互角だったため互いの体に当たる拳も同じ回数だった。それも次第にハゲの拳の数は減っていき、俺の拳の数は増えて行った。最初が5:5だったのが7:3ぐらいになった感じだな。
どれだけ殴り合っていたかなんて今の俺にはもうわからない。体感時間がぐちゃぐちゃになるほど変化しているんだ、そりゃわかる筈がない。
わかる筈がないが、始まりがあれば必ず終わりというものはやってくる。遂にその時がやって来て、俺の拳がハゲの体をハゲの後方へと吹き飛ばした。
飛んでいくハゲ。それを追い掛ける事はせず、そこでようやく体が呼吸や瞬きを思い出したかのように一気に空気を吸い込み目を閉じた。
唐突に押し寄せる苦しさと目の乾きと体の重さに思わず倒れそうになるのを体の痛みで必死に堪え、いつハゲが戻ってきても良いように構えて待つ。その間にしっかりと目を潤し呼吸を整えるのも忘れずに済ませる。
ある程度整ったところで迎え撃つ準備が万全になった俺だったが、しかしハゲが起き上がってくる事はなかった。
ハゲは大の字に仰向けに倒れていて全身で呼吸をしていた。その呼吸速度は粗くて早く、今にも死にそうにも見えた。
「おら、ハゲ!もう終わりかこの野郎!」
返事は無い。代わりに右腕を動かして起き上がろうとした。だが動きはそれで止まり、持ち上げた腕も力を無くしたように地に落ちた。
沈黙が辺りに満ちる。ハゲは起き上がってくる素振りを見せない。
それを見た俺は、初めてハゲを打ち負かしたんだと認識して、いつの間にか構えを解いて脱力した後、『俺が勝った』と証明するように勢い良く左下に顔を落として強く握った右拳を天へと突き立てた。
その瞬間歓声が沸き上がる。何を言っているのかはわからないが、少なくとも俺とハゲとの殴り合いを称賛してくれているだろう事はなんとなくわかった。
その歓声を聞きながら、俺は突き上げた拳そのまま、後ろに倒れる感覚と共に気を失った。
いい加減眠いんだよ。
【ロット】
デオニーソスのギルドで受付をやっている20歳の男。茶髪に黄緑色の瞳をした全体的に華奢な体型。
3年前にギルド職員になるための教育を終えて地元デオニーソスのギルドにて日々冒険者の相手をしている青年。
今後主人公がこの街に居る間はちょくちょく出てくるかも。
【シュトロハイム・デオニーソス・ミューザー・ギルド】
元Sランク冒険者の筋骨粒々のスキンヘッド。二つ名は【拳嵐業火】。その戦闘スタイルは完全徒手空拳で、例え熔岩を纏った相手だろうが、幽霊のような実体を持たない存在だろうが、魔力を纏った拳で殴り殺す様から名付けられた。年齢は42歳。現在はデオニーソスのギルド長をしている。
人を殴るのと、殴った時の感触と、殴られた時の痛みをこよなく愛する変態。美人な奥さんの前ではデレデレなんだとか。