月渡り、影の月
月が陰る朔の日は、月兎たちの休息日です。
月の光が弱くなるこの日は、まるで月が眠っているように静かです。
そして休息日の月兎たちは、月の裏まで出かけたり、天の川で舟遊びをしたり、のんびり過ごすのです。
さて、この月の最初の朔の日、今宵は月待ちの丘に住む銀蜻蛉のトーミさんと、ささやかな宴会の約束をしておりました。
トーミさんは、以前に月から落ちた銀兎を、大切な遠見鏡で見つけてくれたのです。
月兎が欠けるなんて想像もしない事でしたが、銀兎を見失って初めて十二兎が一兎でも欠けると、それはそれは心細く寂しく辛いことだと月兎たちは感じたのでした。
そして月兎たちは、今宵も仲良く並んで、月待ちの丘を目指します。
朔の夜は天上の一番小さな星の輝きさえまぶしく感じます。
その六等星を数えながら、丘までの通いなれた道を歩きます。すると、苔むした木のウロに白い光が見えました。
「蛍茸だ、これで道を照らそう」
月兎たちはよく光っている蛍茸を選んで摘み取りました。小さな星と同じような優しい光は、ほんの少し闇を払いました。
銀兎が面白がって、蛍茸を帽子のように頭に乗せると、闇の中に銀兎の頭だけ浮かんで珍妙な様子です。
月待ちの丘のてっぺんの宿り木にいたトーミさんが、十一の蛍茸の行燈と一つの月兎の頭に気づき「月兎は理解しがたい……」と、煙草のケムリを溜息と一緒に吐き出しました。
月待草の蒼い花の中を、縫うように丘を登ってくる月兎たちの銀毛は、蛍茸の光に反射した花の淡い青に染まっています。
トーミさんは丘の上に着いた月兎たちの、頭に飛び乗って数を確認し始めました。
「ひぃ、ふぅ、み……、うむ、上々じゃ。そろっとる」
さっそく、丘の上で宴会です。トーミさんを真ん中に、月兎たちが輪になって、甘露のお酒を飲んだり、木の実の入った焼き菓子を食べたり、丘の上を転がったりしました。
ほろ酔いになると、みんなで丸くなって寝転がり、星の囁きに耳を澄ませていました。
銀兎のお腹の上に乗ったトーミさんは、遠見鏡を取り出して星空の観察をしています。
その時、シャンシャンシャンと軽やかな鈴の音が響いてきました。
それは群青色の星空に、赤い軌跡を描く火焔でした。炎は近づくにつれ翼を広げた烏の姿になりました。烏はその身にすべての炎の色をまとって、周囲をまぶしく照らしています。
月兎たちは、その炎の鳥を知っていました。なぜなら、それは日輪に仕える金烏でしたから。
月の主に仕える銀毛をまとった兎が月兎であるように、日の主に仕える赤金の炎をまとった烏が金烏なのです。
「紅絽さーん」
月兎たちは輪になったまま、金烏の名を呼びました。すると金烏は呼び声に応えて、真っ暗な月面に浮かんだ、青銀に光る十二兎の月兎の輪を目指して降下してきました。
「おっと、ほっほっ……っと」
金烏の紅絽さんは、三本の足のうち二本で丘に立ちました。大きな両翼をその背にたたむと、炎の色は暗く静まり全身が射干玉色に包まれました。
しかし息をするたびに上下する胸の羽毛が、熾火のように赤く燃えるのです。
そして金烏の三本目の足には、ホウセンカの赤い花が握られています。
ホウセンカの赤い花は天を翔ける鳥の姿に似ており、その実が弾けんばかりに膨らんでいます。
銀兎は初めて見たホウセンカの花と細かい産毛におおわれた実が不思議で、そっと触ろうと手を伸ばしました。
「おっと、これはイナバへの届け物だ。お前はイナバか?」
「ちがうよ、ぼくは銀兎だ」
すると、白兎が一歩前に出ました。
「お久しぶりです、紅絽どの。お変りはございませんか?」
「おお、イナバ、息災であったか。……まったく、月兎は見分けがつかん。厄介なことよ」
ため息まじりに言った紅絽さんに、白兎が「それが月兎ですから」と、笑いながら答えました。
銀兎は『見分けがつかないって……? ぼくたち、こんなに違うのに。それに白兎をイナバって呼んだ?』と、頭の中が混乱してしまいましたが、最後には『紅絽さんは金烏だから、変わってんだなぁ』と納得しました。
紅絽さんからホウセンカを受け取った白兎が、そっと実を弾くと、パチンと音をたてて爆ぜました。
すると、風に揺れる風鈴のような涼やかな声が聞こえてきました。声の主は日輪の主様、アマテル様です。
御言葉が終わると「では、三日後に」と、紅絽さんは言い残して、アマテル様のもとへ帰っていきました。
金烏の炎が遠ざかると、月待ちの丘には、ふたたび闇が戻ってきました。静寂に包まれた月待ちの丘で、月兎たちは誰も言葉を紡げずに呆けていました。
「ふーむ、こんなに間近に金烏を拝めるとは、長生きはするもんじゃね」
トーミさん悦に浸って呟くと、お気に入りの宿り木にツーンと、とまりました。
それを聞いた、月兎たちはいっせいに「はやく、はやく主様にお知らせしなくちゃ!」と大騒ぎで、トーミさんへの挨拶もそこそこに十六夜の塔へ帰って行きました。
「はぁ、月兎とは、せわしないのう」
トーミさん月待ちの丘のてっぺんから、転がるように帰っていく月兎の数を溜息まじりに数えるのでした。
ツクヨミ様が夜を統べる御方であるように、アマテル様は昼を統べる姫君でいらっしゃいます。
しかもアマテル様はツクヨミ様の姉上様でもあるのです。
まるきり反対の世界の主であられる御二人には、お会いできる機会はほとんどありません。
ましてや、日輪の主が月にお渡りになられるなんて、稀有なことです。
「おお、三日後とは急なことだ」
月兎たちの知らせを聞いた主様は、いつになく慌てているようでした。
「みんなで準備をしておくれ。それと、白兎。お前は私に従って姉上の歓待をするようにね」
「はい、主様」と、白兎は短く答えました。
銀兎は自分が主様に呼ばれなかった事に、がっかりしました。
あの優しい声の姫君様はどんなお姿をしているのかしら、主様と似ていらっしゃるのかしら……と、期待が膨らむほど会いたい気持ちも増すのでした。
しかし大事なお客様を迎えるのは、一の月兎の役目でしたから、叶わぬことなのですが……
それからの月兎たちは、アマテル様をお迎えする準備に、おおわらわで月の上を跳び回りました。
約束の三日後、主様の住む月宮に、お迎えの準備が整いました。
あとはアマテル様をお待ちするだけです。
月宮には白兎が残り、みんなは十六夜の塔から月宮を眺め、まだかまだかとソワソワしていました。
「おーい、月兎ども。わしもまぜておくれ」
塔の天窓から顔を覗かせたのは、トーミさんでした。月待ちの丘を離れるなんて、なんて珍しいことでしょう!
銀兎は「われらにもお客人が来た」と、大喜びで迎えました。
「ほほ、間に合ったかの。さぁさ、月兎ども、月の原に行くぞ」
トーミさんに誘われて月兎たちは、月の原へ行くことにしました。冷たくした月光花茶とお菓子を持って、月宮が一番見えるところに輪になりました。
「おっと、そろそろ日輪の君がお出ましになる頃合いじゃな」
遠くから鈴の音が聞こえてきました。
「わあ、紅絽さんだ! 紅絽さんの炎が月宮に落ちてく!」
満月の光を百も千も集めたより明るい光が、紅絽さんの背中に見えました。月兎たちは余りの眩しさに、その光を見つめる事が出来ませんでした。
しかし月兎たちは、アマテル様だ、姫君様だと飛び跳ねて歓迎しました。
「おい、月兎ども。これからが見物じゃ」
トーミさんは遠見鏡を、みんなが見えるように高く掲げて、こちらを見るようにと言いました。月兎たちはくらんだ瞳を擦りながら、遠見鏡を覗きました。
すると今度は、翡翠星だ、銀兎が落っこちた星だと、大騒ぎを始めました。
「こりゃ、静かにせんか!」
トーミさんが怒ると、やっと月兎たちはおとなしくなって、並んで遠見鏡を覗きました。
久しぶりに見る翡翠星は、やっぱり綺麗な明るい水色です。銀兎はあの辺に落ちたんだよ、と誰かが指さしました。
すると、そこに小さな黒い影が現れました。その影はどんどん大きくなり、最後にはすっぽりと星を包んでしまいました。
「わっ、翡翠星が食べられちゃった」
「ほほほ…… あれは月の影法師じゃ、ほおれ銀兎よ、お前の足元にあるのと同じじゃよ」
「ええっ!?」
「日輪の姫君が月渡りなさると、翡翠星には月の影が落ちて昼間の夜になるんじゃよ」
銀兎は影の月にも、月兎がいるのかしらと遠見鏡を、じっと覗いて探してみました。
それから月の原では影の月を眺めながら踊ったり歌ったり、アマテル様を歓迎していました。
その楽しげな喧騒は、月宮で久方ぶりの再会を果たした姉弟にも届いておりました。
アマテル様は愛おしげに月兎たちの様子をご覧になって、「月兎を一兎ほしい」と、おっしゃいました。
「いや、いくら姉上の願いでも、それはだめです。十二兎あって月は満つるのですから!」
アマテル様の言葉を遮って、ツクヨミ様は願いを退けました。
「そうね、そうでした。あの仔たちが無邪気なので、私の心も子供に戻ってしまったのね」
いたずらを怒られた子供のような困った笑顔でおっしゃいました。
ツクヨミ様は「姉上のそんな顔を見たのは、やはり幼い頃でした」と、くすくすと笑いました。
そして、アマテル様もころころと鈴の音の声で笑いました。お二人の笑い声は、重なり合って綺麗な旋律となって響きました。
「残念じゃったの、イナバ」
紅絽さんがニタリとして白兎に言いました。
実は白兎は月兎になる前に、アマテル様に仕えていたことがありました。その事を知っている紅絽さんが、白兎をからかったのです。
「いいえ、紅絽どの。もう私は月兎ですから」
紅絽さんは白兎の瞳に強い意志を認めて、ふふんっと鼻を鳴らしました。
宴たけなわの月の原。
遠見鏡の中に見える翡翠星が、少しずつ色を取り戻し始めました。
「おや、お帰りのようじゃ」
トーミさんがそう言うと、月兎たちはいっせいに月宮の方を向きました。
月宮の露台に揺れる炎が強さを増していました。すると紅絽さんは、両翼を広げて二度羽ばたくと、ふわりと飛び立ちました。そして焔の尾を引いてゆっくり旋回すると、月の原へまっすぐ急降下を始め、ものすごい速さで月兎たちの頭の上を通り過ぎました。
アマテル様を乗せた金烏が、天の川を越えどんどん遠ざかると、翡翠星は、ますます明るくなりました。
そして、あっという間に遠ざかって姿が見えなくなると、翡翠星をおおっていた影は消え去り、もとの綺麗な水色に戻りました。
トーミさんは「これを蝕と呼ぶのじゃ」と、得意げに教えてくれました。
さて、月の原の月兎たちは、その姿が見えなくなっても、いつまでも星空の彼方を見つめておりました。
そして銀兎は、金烏が月の原を滑空した時に、その身から抜け落ちた尾羽を拾いました。チラチラと燃えながら落ちて来た尾羽は、そっと手のひらで受け止めるとホウセンカの花に変わりました。
それからこの季節になると真っ赤なホウセンカが花盛りとなって、十六夜の塔の周りを埋め尽くすようになりました。
十二兎の月兎たちは、ホウセンカの花を見るたびに、月渡りの夜を想い出すのでした。