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肉体的にも精神的にも疲れた状態で家に帰るために電車を待っていた。
いつもと同じ行動、いつもと同じ光景。
なんの感慨もなくただひたすらに同じ毎日を繰り返す。飽き飽きするわけでも、頑張ろうとかっていう気持ちも起きないような何も変哲のない日。
せいぜい思っていたのは今日の夕飯に何を食べようかという事くらい。
いつも通りに電車が駅に着き、いつも通りにひとのまばらな電車に乗り込む。家に帰るために。
そこからの記憶が何もない。
気付いた時には日が暮れかかった山の中にいた。気を失っていたわけでも、眠っていたわけでもないはずだったが、気づいた時には山の中に立っていた。
鬱蒼と茂る木々の間、立っている場所は辛うじて平らだったが、周りは一歩踏み出せば滑り落ちそうな斜面と登るためには多大な努力が必要そうな上り坂…というよりはもはや崖。
仕事帰りだったから上下紺の細かなストライプのスーツにローヒールの靴。仕事用に購入した紺と白の切り返しのあるA4サイズの書類が入る大きめの鞄。そのままの格好で山の中にいた。
そんな状況の中、まず一番最初にしたのはスマホの確認だった。結果から言えばスマホは動いた。けれど電波は圏外、時間表示は00:00のまま動くことはなかった。
まさか巷で流行りのラノベのように異世界に来てしまったとか?
そう思いもしたが、バカバカしいと否定した。けれど状況的にはそう思う他には出来なくて。
空を見上げれば赤く染まっている。日暮れなのか朝焼けなのか分からなかったが、徐々に暗さを増していく空にこれが夕闇なのだと理解させられた。
こんな何もない山の中で一晩過ごすなどあり得ない。食料の心配だけでなく野生生物の心配もある。もしもラノベのように異世界に転移したのであれば魔物と呼ばれる類のものがいないとも限らない。
そもそも街中でしか生活をしたことの無い私が、こんな山の中で生きていけるとも思えない。昨今は森ガールとかいう人たちがいるのは知っているが、私はそれらに縁のない人間だ。
道も無い、自分の足元には膝丈ほどの草が生えており私の足元を覆い尽くしている。右も左もわからない、途方にくれるしか無かった。
けれどそのまま立ち尽くしても時間だけが過ぎるばかりで意味がない。ため息をついて一か八かで山を下る選択をした。
『山で迷ったら頂上を目指せ』そう聞いた事はある。確か山裾は広く探しにくく、頂上は発見されやすいだったか。よくは覚えていない。
ただそれは空から探すことができれば、ではないのだろうか。そもそも聳え立つような斜面を登っていける自信はない。
それよりも下る方がまだ良い気がする。滑落しなければ。とはいえ素人判断だから下る方が逆に危険なのかもしれない。それでも動かなければどの道詰みだ。
普通に歩けるような場所など無く、木の幹や枝に掴まり足を滑らせながら進むが、山歩きに向かない服装で無謀でしかない下山。何度も転び、草木に色々な所を引っ掛け細かな傷を作り、蜘蛛の巣のようなものに引っかかりながら、それでも足を動かした。
赤かった空はどんどんと闇を深めていく。何かに追われるようにただひたすらに足を動かし続ける。しばらくすると、元々運動なんてしない私の心臓が悲鳴をあげた。呼吸もままならない。
自分の体がおかしいと感じたのはその時だった。手が震えるのも頭痛も息苦しさも、知らない山の中を恐怖に駆られながら下山しているせいだと思っていた。
けれど立ち止まって動かずにいるのに息が整わない。
頭痛に吐き気をもよおし始め一瞬高山病かとも思ったが、それとも違うと言えた。
体の中にある何かが出口を求めて渦巻いている感覚。吐き気を堪えても苦しさは増すばかり。吐き出してしまえば楽になると頭では分かっていても、体の中に渦巻いているものがどうやったら吐き出せるのかわからない。我慢しきれずに胃液を吐き出しても少しも楽にならなかった。
斜面に両手を付いて荒い息を繰り返すと、徐々に両掌が熱くなっていくような感覚がした。その感覚はどんどんと強くなり、苦しさとともに熱さを増した。
なんとかこの苦しさから逃れたかった。だから何も考えられなかった。何も考えていなかった。
苦しさが掌を通して移動していくのを感じて、苦しさから逃げたい一心で一気に押し出すように願った。
その直後ドンッという爆音とともに目の前に火柱が上がった。
すっかり闇に覆われていたはずの空に届いたのではないかと思うほどの高さで。
ほんの数秒。空高くに上がった火柱が火の粉を撒き散らして消えた後に残ったのは、燃え上がる目の前の木々だった。
パチパチと爆ぜながら燃え上がっている大木に呆然とした。
何がどうなっているのかわからない。けれど、先程まで体内を駆け巡っていた苦しさと吐き気は綺麗に消えていた。
ジリジリと火が徐々に広がっていくのを見てハッとした。
森林火災。
「う、そ、でしょ」
辛うじて出た言葉。口に広がる胃液の苦さを感じながら炎に追われるようにしてその場から逃げ出した。
『生木に火がつくのは乾燥している証拠。火は一気に広がり何日も燃え続ける。消火するのは容易ではない。』
何かで聞きかじった言葉が頭の中を駆け巡る。
斜面というより崖にも近い山肌を転がり落ちるようにしながら炎から逃れなくてはと必死で下りる。近くで常にパチパチと爆ぜる音の状況を確認するような余裕はなかった。
ジリジリと肌を焼く熱と、増すばかりの息苦しさに意識が朦朧とし始めた時だった。
空から白い馬が滑るように近づいてきて、馬に乗っていた人物が何かを呟くと私の両手に鎖のない黒い枷のような輪をはめた。途端に重たくなった身体を抱き上げられ、そのまま馬の背に乗せられると空を駆けて麓まで連れていかれた。
空から見て初めて自分がいた場所が山頂に近く、到底私の足では下山なんて叶わなかったという事を思い知らされた。
それと同時に徐々に広がる炎にぞわりとした恐怖に襲われる。
「なんで、こんな…」
自分の状況など何も解らず、只々炎と黒煙が広がる光景に絶望した
次話は10月14日更新予定です。