天才の俺が秋山瑞人のテーマを明らかにし後継者を見つけたいー残響証明―
タイトルは釣り。秋山は神
秋山瑞人は天才である、というのは疑いようの事実だ。それは彼の文体に明瞭に現れている。よくネット上で散見する指摘に秋山瑞人は文章はよろしいが構成に引き出しがない、というものがある。これは正しい。至極正しく、そしてその上で意味がない。なぜか?それは秋山瑞人の文章が超を三乗してなお足りないほど面白れーからだ。
ここで一度書き出しをまとめると秋山瑞人は文体、文章術において特異な天才であり、扱う主題は普遍的であるということである。したがって俺は彼の天才的な文章術を追随しようと思わない。彼の文章は彼独自のものであり、俺が彼でないように彼は俺ではないからだ。だから、この文で明らかにするのは秋山が書いた主題であり、秋山が受け継いだ主題であり、俺が見出した主題である。
さて秋山の主題とはなにか、という問いに端的に答えてしまうならばそれは「未知との遭遇」だ。秋山の文章はまず「俺はあいつのことは分からないが、あいつも俺のことは分からねえ。その一点で俺とあいつは平等である」という点から出発している。これは秋山がよく描く題材にする心を持った機械と人との対話であり、平凡な中学生と超能力者の出会いであり、最下層民の剣の達人と王女の逢瀬であり、閉鎖社会で認められた地位を持つ者と迫害された天才の戦いである(ミナミノミナミノ?もういいだろ?ここまで喩え出してこれ以上書くってのは野暮だ。鉄コミュ?(読んで)ないです)。
では秋山瑞人の終わらせられた本と、そうでない本の違いからなぜDORGONBUSTERの3巻がいつまで経っても発売されないのかという理由を追及して行きたい。先述した通り秋山瑞人の主題は未知との遭遇だ。未知と遭遇し、一時を過ごし、そして価値観のすれ違いから分かれる。これが大雑把な秋山瑞人の小説の構成である。この作法を秋山の小説は外していない。海原の用心棒だってそうだろ?すまん実はEGFも全部読んでないから、DB(DORGONBUSTERの略、以下DBとす)と他の奴との比較になる。まあ、いいでしょ?これは論文じゃあないんだから細かいこと気にすんなよ。次行くぞオラアン。ともかく、DB2巻のラストで月華は涼孤のことを人でなしと呼び、二人の道は分かれた。秋山瑞人のこれまでの作法を守るならこれで終わりだ。つまり、未知と遭遇し、一時を共有し、別れる。なにも外してはいない。秋山の卓抜した文章術に転されて続きがあると読者が勝手に思い込んだだけとも言えるのである。
さてこういった物語のもっとも国民的な例としては中学の国語の教科書に載っている中島敦の「山月記」がある。山月記において袁傪は虎と化したかつての友、李陵に出会うところから物語は始まる。勘違いしてはいけない、三人称視点で書かれる李陵が虎と化すまでの文章はただの前戯しだ。なぜならば袁傪はどうして李陵が虎になったのかということを知らず、読者もまた李陵の経緯は知りつつもその内面の変化は詳細は理解しておらぬからである。DBをこの山月記に当てはめるならば月華が袁傪で涼孤は李陵という見方に九十九割がた外れはないと思うのですけどいかがなもんでしょ?まあ、そういうことで話を進める。
山月記において二人は互いに理解出来ねえ地平に行っちまったんだなということを理解して、素直に分かれる。ここら辺は中国の政界で酸いも甘いも嚙分けた官吏の処世法がさらりと書き出されており大人の対処という感じがする。
ここでもう一段階秋山のDBを読み進めると群狗と焼き場のおばあの関係性がいずれ月華と涼孤の辿るであろう関係性であることが誰にだって分かる。群狗はこれからの月華であり、二人とも虎にいや龍に魅入られその手を伸ばし触れようとし、そしてつかみ損ねた。そういう転輪の物語である。群狗とおばあはあの後に出会うことはなかったし、月華と涼孤だってこれからもう会うことなどないだろう。群狗とおばあの場合は時間と場所が合わずに出会えなかず、結局群狗は涼孤を通しておばあに出会い価値観の相違を突き付けられそこで諦めた。月華と涼孤の別れはさらに性急で、ゴロツキとの大立ち回りのあとに剣など止めじゃあ!!と宣言されお前の顔なんか見たくない、と言われ分かれている。さらに身分も天と地ほどに隔たりがある。多分もう会うこともない。
イリヤの空~では浅羽とイリヤの心は通じ合っての別れで海原の用心棒のラストにも似ていたが、DBはどちらかといと猫の地球儀に構成が近いといえるだろう。いや、あるいは月華が戦いの中で龍の足跡を見つけ、その足跡をたどって歩き方を学び、終には龍になる物語になるかもしれない。
まとめに秋山瑞人のテーマである「未知との遭遇」にはいろいろな切り口がありパターンがある。どうしてそうなったのか、またはどうしてそうならなかったのか。秋山はテーマの中で実験を繰り返しもっとも理にかなった選択を卓抜したセンスで文章に書きだしている。だから、面白い。
ここまで書いて思うことがある。
やはりDORGONBUSTERの三巻は出ないのかもしれない。
俺がここまで書いた話は所詮手前勝手な妄想と願望の詰め合わせであり、秋山の理ではない。俺には分からない。あいつにもわからないんだ。けれどもあいつは三巻を書くと言った。
けれどもDORGONBUSTERの三巻を読みたいと願うのが読者であるが、きっと俺の読みたい秋山瑞人はDORGONBUSTERの三巻を出さない秋山瑞人だ。
DORGONBUSTERの三巻は出ない。
三巻出ろー!!