メメント・モリ 1
イチは赤目を追って何も考えずに走った。赤目があまりにも速すぎて考えることが出来なかったともいえる。針葉樹と広葉樹が好き放題に伸び、下草の手入れもないままに放置されている見通しの悪い森は、冬の太陽を斜めに受けてしん、と静まり返っている。藪と倒木を面白いように避けて赤目は飛ぶような速さで進んでいく。イチは全神経を集中して、赤目が手をかけた場所、蹴った場所をトレスしながら食らいつき、数分走ると森を抜けた。
「え?」
イチはハアハアと息を整えながら、首を左右にふってあたりを見回した。そこはイチたちが落とし穴を掘っていた場所だった。赤目はいつも敵陣に深く切り込んでくるし、赤サイドの門に近ければ作業時間が長く取れるから選んだ場所だ。あんなに暗闇の中を歩いたのだからドーム内で一番大きなこの森を抜けるあたりだろうと予測していたのに、実際にはほとんど移動していなかったことにイチは驚いた。
「マユ、サト」
事切れて倒れている二人を見つけて、イチは丁寧に上を向いて寝かせ直した。二人の死の原因がすぐ隣に立っているのは不思議な感覚だったが、まったく怒りは湧いてこなかった。状況が違えば倒れているものと立っているものは逆だったかもしれないのだ。
イチはサトの曲刀を拾い上げて軽く振る。マユの側に落ちている短剣も拾い、それは赤目に投げた。赤目は不服そうに片眉を上げたが、黙って掴んであたりを見回した。
イチと赤目が穴に落ちたあとにも別の戦闘があったらしく、さほど離れていないところにいくつかの死体が転がっていた。赤目は大きな男の近くに転がっていた斧を拾い上げ、刃を日に翳して吟味し始めた。納得したのか、今度はブンブン振り回して重さと握りを確認している。斧は重量をまるで感じさせずに何度も空を切った。
「何かきた」
赤目がぴたりと動きを止めて平原の向こうを見やり、ダイチに視線を送る。思わず見蕩れてしまっていたことに気づかれぬよう、イチは慌てて視線をかなたに送った。赤目の見た方向には、確かに細い土煙が幾筋か上がっているのが見える。
「あれは……何だ……」
その土煙を上げているものの姿が見えたとき、イチが思いついたのは「虫」だった。楕円形のボディに、凹凸のある地面を走るためであろう短い足がたくさんついている。時折ホバリングしており、土煙はその際に立つようだった。
「一・二……約二十体ってとこだな」
イチは目を細めて数える。距離的におそらくもう見つかっただろう。だが、鋼鉄の虫は襲ってくるような素振りをまったく見せなかった。ゆっくりと左右へと等間隔に蛇行しながら前に進むだけである。敵意はなさそうだ、と判断した二人はその行動を黙って観察した。
一体の虫が赤目の拾った斧の持ち主だろう大柄なファイターの前で止まる。楕円の機体の両脇から、触手のようにうねる銀色の腕が伸びて、先端の棘がその男のわき腹に深く突き刺さった。そのまま触手で捻りあげるようにして、ファイターの体を持ち上げ、楕円の中に放る。楕円の中は空洞らしく、ぐしゃという音がしてファイターはそこに収まった。二本の足だけが、楕円の上からおかしな方向に突き出している。イチは思わず顔を歪めた。
「死体回収用か。場所を変えよう」
向かってきたものに危険がないとわかると、赤目はさっさと斧をおろしてイチを促した。確かに攻撃はせずとも居場所は知らせるかもしれない。
移動しなくては、そう思うのにイチはマユの遺体へと向かう機体を目で追ったまま動けなかった。触手の先に付いた鉤がマユのわき腹に食い込む。楕円の機体はそのまま巻き取ろうとしたが、やわらかい皮膚は避け、マユは「ごとん」と音を立てて地面に落ちた。再び鉤爪はマユの腰骨あたりに食い込み、ウーとモーター音を鳴らした。棘を回転させて、骨を貫こうとしているのだ。思わずイチはこぶしを硬く握り締める。やがてマユは触手に巻き取られ、腸を長く垂らしながら楕円の棺に放り込まれた。
赤目は付いてこないイチを気にする様子もなくどんどん森へと戻っていく。確かに二人対多数なら平地より障害物のある森のほうがやりやすいだろう。武器を手に入れたのだからここにいる理由はない。それでもまだイチは動けなかった。ザク、と触手がサトの背中に刺さる。
「ちくしょう」
当たり前のことだ、何も憤る必要はない、そう頭ではわかっているのにやりきれず声が漏れる。どさ、とサトが楕円に回収された。思いを振り切るように一瞬強く目をつぶり、イチは赤目の後を追った。
森にたどり着く寸前で、赤目は横っ飛びに転がった。寸前まで赤目が走っていた場所に針のような形状のものが無数に刺さっていた。イチは針の角度から発射されたと思われる方向に首を廻らせる。やはりさっきの虫が知らせたのだろう。
アンドロイドが一体こちらを向いてぼつねんと立っていた。
それはイチが見慣れたアンドロイドではなかった。昨今のアンドロイドは、じっと見ても人と区別が付かないほど精巧に人を模倣している。だが、今こちらを見ているアンドロイドはそれらとはまるで違っていた。むき出しの人工骨格と人口筋肉。刀を溶接してある腕。眼窩に眼球はなく、ただ黒い闇が広がっている。鼻もなく、口らしき場所にアーモンド型の切れ目が入っているだけの顔。透明な頭部に収められた機器には、弱い光がちりり、と血管を流れる血のように流れていた。人を模倣する必要がない、これがテセウスのスイーパーなのか、イチはじり、と間合いを計った。
「排除します。抵抗しないでください」
「断る」
電子音のような声に、真顔で返事をする赤目に苦笑して、イチは、ぶん、と音を立ててサトの剣を振る。
「けっこう多いな」
ちらりと赤目が視線を走らせた方角から、スイーパーが押し寄せてくるのが見えた。五分もかからず到着するだろう。
「やるしかねえのか」
――こいつに罪はない
だが、イチはその考えとは裏腹に何でも良いからめちゃめちゃに壊してやりたい気分だった。すっと目を閉じて開く。かちゃりと刀を握りなおし、スイーパーに向かって一歩踏み出したその瞬間、ガギン! と硬い音が響いた。
一瞬だけ目を離した隙に赤目がスイーパーの前まで移動して、脳天に斧を振り下ろしていたのだ。斧は弾かれて流れ、スイーパーの左腕を切り落とす。思いがけない反動を受けても、赤目は瞬時に対応して体勢を整える。見事な体重移動でくるりと一回転し、遠心力を使ってスイーパーの腹をなぎ払った。たたらを踏んでなんとか横倒しにならずにすんだスイーパーの膝裏に一回転して戻ってきた斧が食い込んだ。今度は耐え切れずアンドロイドはガシャン、と倒れる。その顔に、腹に、足に、赤目は何度も執拗に斧を振り下ろし続けた。