ドッペルゲンガー 7
イチは赤目を背負って歩いていた。一歩進むたびに、赤目に刺されたふくらはぎの傷が引きつるように痛む。地底湖から伸びる横穴を見つけ、分岐のたびに迷いながら上を目指していた。通り抜けるのがやっとの隙間も多く、背負ったり引きずったり、動かない人間一人を抱えての移動にあっという間に体力が奪われた。食料の入ったザックはもちろん穴の上だ。空腹も苦痛に輪をかける。
「ああ! なにやってんだ俺」
発光筒を口に咥えたまま愚痴る。地底湖のほとりにだまって座っていればいいのだ。明け方に訪れる安楽死を待って眠ってしまえばいい。
――それでも、私は死にたくない
赤目の言葉が何度も頭の中で繰り返される。その度に、ちくしょう、だからなんなんだっつーの、関係ねえんだよ、と繰り返しながら、それでも先へ先へと進む歩みをイチは止められなかった。
「明かり」
前方にわずかな光を捉えてイチは叫んだ。疲れ果てているはずなのに、どんどん歩みは早くなる。近づくと人が一人やっと通れるくらいの隙間から外の光が差し込んでいた。イチはその穴から外に這い出し、片手を差し込んで赤目の襟首を掴んで引きずりだした。
そこは木々に囲まれた空間だった。白んできた空に微かに光る星が樹影の隙間を飾っている。影とも色ともつかぬ水墨画のような景色の中に、イチの吐く息が白く流れて消えた。森は空腹と疲れに苦しむイチのことも、瀕死で眠る赤目のことも、ここで行なわれている争いの全てなどあずかり知らぬというように、凛とした静謐な空気で満ちていた。
「こんなところがあったんだな……」
イチは赤目を抱えたまま枯葉の吹き溜まった木の根元に座り込み、太い幹に寄りかかる。ぼんやりと薄れていく星を眺めていると、ゆっくりと空が色を変えていった。優しい優しいオレンジ色。森は輝きを取り戻し、頬に当たる木漏れ日がこの寒さの中でさえ僅かに暖かかった。
――生きててよかった
いつの間にか空っぽになっていた思考に突然浮かんできた思いに、イチは息をのんだ。静かな興奮が体に満ちては穏やかに引いていくのを感じる。これが生命力というものなのだろうか。あがいてみよう、このままリスポーンを待たずに生きて帰ろう、とダイチは思った。だが、そのためには定刻までに大門まで移動しなくてはいけない。
――でも、こいつの戻るべき門とは逆方向なのにどうすりゃいいんだ? その前に少しだけ、ほんの少しだけ休もう……
体温を感じない赤目の重さだけを感じて、イチは深い眠りに吸い込まれた。
■
パチパチという木が爆ぜる音でイチは目を覚ました。目を開けると、乱雑に集められた細い枝が燃えていた。着火剤が撒かれているらしいが、このままでは消えてしまう。イチはもそもそと置きあがり、乾いた太目の枝を拾って火にくべた。周りに細い枝を並べて様子を見る。しばらくすると火は安定して白煙を立ち上らせはじめた。乾いた枝も充分に集めたからこれでしばらくは大丈夫だろう。
「……じゃなくて」
火をつけたのは恐らく赤目だろう。あの怪我で……どこに行ったんだ? イチはあたりを見渡し、黒く変色したナイフが落ちているのに気が付いた。焼いたナイフを傷口にあてて血止めしたのかもしれない。
「……怖いわまじで。悲鳴とか全然聞こえなかったし」
背筋を這い上がる怖気を振り払うように、イチは冗談めいた口調でつぶやき、時刻を確認した。
――もう間に合いそうにない
そのとき、ガザガザと茂みが動いてイチは身構えた。
「起きたのか」
現われた赤目は、鹿の足らしきものを手にしている。イチは驚きを隠し切れずに赤目を凝視した。マスクを外した赤目の髪は真っ白だった。眉毛もまつげも白い。アルビノか、イチは声に出さずにつぶやく。
髪は少年のように短く刈り込まれているが顔立ちは少女そのもので、白すぎる肌と赤い瞳はきりりと冷えた森の空気の中で神秘的といえるまでに美しかった。
「これしか持ち帰れなかった。あとで残りも取りに行こう」
赤目は鹿肉を無造作に草の上に放ると、焦げたナイフを拾い上げて肉を片足で踏みつける。
「俺がやるよ」
イチは我に返って立ち上がる。人の腕を焼いたナイフを使い、足で押さえて捌いた肉を食べるのはさすがに勇気がいる。近くを流れる小川で肉とナイフを洗い、皮を剥いて薄く削いだ。赤目は黙って腰を下ろしてイチが動くのを見ている。
「それより……腕、大丈夫なのか」
もうすぐ安楽死だというのに大丈夫も何もない、と思いながらイチは赤目の布が巻かれた手首を見つめる。
「問題ない。気がついているかもしれないが私は遺伝子を人為的に組み換えられている。傷の治りも早いし、感染症などにもかからない。」
「……本当かよ。痛くないのか?」
「痛覚も鈍く作られている」
遺伝子組み換えは違法なはずだ、と思った自分にイチは苦笑する。所詮は人の作ったルールなのだ。出来ないことと、出来るがしてはいけないことの間には大きな隔たりがある。赤目はそれ以上話す気はないようだし、イチも追求する気になれず鹿肉をうまく焼くことだけに集中した。風のない朝で、森はしんと静まり返っていたが嫌な沈黙ではなかった。
「ほら」
焼けた肉をイチは赤目にさし出す。赤目はがぶりと大きく食いついて肉を引きちぎった。
「……うまい」
あっという間に飲み込んで本当に感心したようにつぶやく。それを見て思わず笑みがこぼれそうになり、イチも慌てて肉に食いつく。来月からまた敵同士なのだ。馴れ合う気はない。無言で咀嚼を繰り返した。ただ焼いただけの味気ない肉だったが、丸一日何も食べていない体にじんわりと染み渡る。二人とも無言のまま、あっという間に全てを平らげた。
「あー、食った」
イチは伸びをするとごろりと横になった。赤目も真似るように隣に横たわる。眩しさに目を閉じると一気に眠気に引き込まれそうになった。
「そろそろだな」
イチは閉じそうになる目を無理やりに開け、時計を見てつぶやく。午前九時に大門は閉まる。それまでに戻れなければ安楽死になるのだ。もうどうあがいても間に合わない。
「ああ、そんな時間か」
赤目は焦ったように立ち上がり、スーツを脱ぎ始めた。
「……おい、何やってんだよ」
イチは驚いて身を起こす。
「脱げば薬剤が入らない」
「いや、だからなんで脱ぐんだよ」
「……薬剤が入らないように?」
赤目は不思議な表情でイチを見つめている。いや、何でお前が不思議そうなんだ? こっちが不思議だし話が噛み合ってないし……イチは手で顔を覆って混乱した思考を整理する。
「……あのな、お前おかしいからな? このボディは廃棄なんだよ。新しいクローンに記憶を移し変えてリスポーンするんだよ。わかってるだろ? ここで生き残ったらドッペルゲンガーになるんだぞ?」
まくし立てるイチを無視して赤目は脱ぎ続ける。稀にではあるが、リスポーン前の体が安楽処理で死にきれずに生き返ることがある。そうして生き残ったものはドッペルゲンガーと呼ばれ、逃げ出しでもすれば大ニュースになるのだった。
「お前こそおかしい。リスポーンのあとに生きるのは私の記憶を持った誰かで、私じゃない。そして私は死にたくない。みっともないと思うのかもしれないが私はそういうふうに作られている。たくさん殺し、どんなことをしても生き残る」
「え……」
イチは言葉に詰まる。遺伝子組み換えといい、一体どういうことだろう。人為的にバトル向けに作られた人間がテセウスに参加しているということだろうか。
それに、イチは今まで幾度となくリスポーンをしてきたが、記憶を移した後のクローンは自分ではないという感覚など持ったこともない。意識がなくなり、目覚めれば白い部屋のベッドで起きる、それだけだ。前回のように二十年分も若返れば多少の違和感はあるが、それでも自分は自分だ。イチが考えている間にも赤目はスーツを脱ぎ捨て、下着だけになっていた。
「だから、そもそもスーツの下がパンツ一丁ってのがおかしいんだって……」
イチはぶつぶつと言いながらスーツの上半分を脱ぎ、中に着ていた長袖のシャツも脱いで赤目に向かって投げる。
「汗臭いけど我慢しろ」
「問題ない」
赤目は何の抵抗もなくイチのシャツを身に付けた。小さい赤目には短めのシャツワンピースのような丈になってちょうどいい。
「中にいろいろ着てると動きにくくないか? ……お前は死ぬのか」
スーツを着なおすイチを見て、赤目は不思議そうに首を傾けた。九時まであと五分だった。太陽が昇りきった空は明るく、木立の間から漏れた光がスポットライトのように二人を照らしている。赤目は目をそらさない。
「当たり前だろ」
「そうか、残念だ」
その声には、初めて感情がこもったように聞こえてイチは戸惑う。自分がここで安楽死したら赤目はどうするのだろう。明日には赤目のクローンが記憶のバックアップを受けてリスポーンする。赤目はドッペルゲンガーとしてリスポーンのサイクルから取り残されるのだ。
――ここに一人で。
赤目は長すぎる袖を捲り上げようとして、手がないことに気づき困惑した顔をしている。火のつけ方から見ても、戦う以外の能力は低いように見えた。
「……ちくしょう、どうかしてる。俺はどうかしてるよ」
イチは立ち上がり、赤目の袖を捲くってやると、バトルスーツを脱ぎ捨てた。
――帰還時間をオーバーしました。安楽処理を実行します。
その瞬間、切っていたはずの音声が、耳の後ろから響いた。
――死亡確認できません。不適切個体として排除を開始します。その場を動かないでください。目標 X:2585 Y:25 Z:6245 スイーパー稼動しました。
排除? イチは息をのむ。
「なあ、鹿肉の残りを取りに行くのを手伝っては……」
「お前、イヤホン付けてないのか? そんな場合じゃないぞ。俺たちはスイーパーに排除される、不適切個体だ」
イチは不機嫌に答える。
「なるほど、では武器を探そう」
さっさと歩き出す赤目を見てイチは唖然とした。
「……なんでそうなる? 相手はおそらくアンドロイドだぞ? 戦ったって勝てるわけないだろ」
「それは、戦わない理由になるのか」
赤目は呆れた、というような声を出して立ち止まった。
「そうじゃなくて、俺たちには最低の人権もない、クローンもない、テセウスからも出られない。勝ったところでどん詰まりだ」
「それなら、戦わない理由になるのか」
赤目の背中に訴えるダイチを、くるりと振り返って赤目は言い放つ。
――男を見下している女の目
イチはこぶしを握り締める。かっとなる気持ちと同時に、やはり自分が間違っているような気がしてくるから厄介なあの目だ。……俺は間違ってるのか? イチは黙り込む。
「考えている暇はない。黙って殺されるか、逆らって殺されるか、逆らって助かるかだ。……私はこれ以上、お前の選択を待たない」
走り出す赤目を呆然と見つめて、イチは自分の口元が笑っていることに気がついた。
「あー面白えな! ちくしょうめ!」
一声叫んで、赤目のあとを追った。