最終章 5
「足場がある」
下り始めてどのくらいになっただろうか。時間の感覚が麻痺してきた頃に、マシロが久しぶりに声を出した。見下ろすと、確かに細いグレーチングが並ぶ通路が見えるような気がする。
ダイチは安堵の長いため息をつく。もうだいぶ前から体が言うことを聞かなかった。無意識に手を離して落ちてしまうのではないか……と思ったことは一度や二度ではない。疲れなのか、毒なのか、何かが確実にダイチの体を蝕んでいた。だが、先が見えたことで体に力が戻ったような気分になる。
マシロに続いて、ダイチも間もなく通路に降り立った。バトルスーツに付属している腕の時計に目をやると、降下から既に八時間余りが過ぎている。カイリと最後に通信してからは六時間と言ったところだろうか。もしかして繋がるかもしれない、という望みとともに、ダイチは通信のボタンを押す。だが、カイリの応答はなかった。
「出ないな。移動中で通信手段がないのかもしれない」
カイリはテセウスに戻ると言っていた。今どのへんだろうか……確かな距離感もわからないのに考えても詮無いことを思いながら、ダイチは左右を確認した。連絡が来るまでに今あるだけの情報で、予備電源に近づかなくてはいけない。マシロもきょろきょろと左右に首を振るが、いかにマシロでもわずかな発光灯では数メートルの視界しか得ることはできないだろう。
「どちらにしようかなってかんじだな。マシロ、どっちにする?」
「こっちだ」
冗談で聞いたにもかかわらず、マシロは迷わずに歩き出した。
「え? えっと、マシロ。なんで」
「こっちの方が温度が低いからに決まっている。こっちに下への通路があるということだろう」
温度などダイチにはわからない。冷たい風が吹き込んでいるという感覚もない。マシロの特異性にはだいぶ慣れてはいるものの、驚きは隠せなかった。
マシロが「下は寒いだろう」という話をちゃんと聞いて覚えていたことも意外に感じた。すたすたと通路を歩き出したマシロが、来ないのか、というように振り返る。ちゃんと待つんだな、とダイチは口元が緩みそうになるのを堪える。
「じゃあ、行ってみるか」
マシロがくるりと背中を向けて歩き出した瞬間、ダイチの目がかすんで膝が震えた。ぐっと腹に力を入れ手すりに摑まり、転倒を免れる。音を立ててしまった、とマシロに目をやる。だが、一瞬立ち止まっただけでマシロは振り返らなかった。ダイチは音をたてぬよう細く白い息を吐き、体を起こしてマシロのあとをついていく。カツンカツンという軽い靴音が、耳に大きすぎるほどに響いた。やがてそれはビン、ビン、と鼓膜を弾かれるような感覚に代わる。
――鼓膜が、これは痛い、のか?
ダイチは思わず両手で耳を塞ぎ、ぐりぐりと乱暴に擦る。弾かれるような感覚はドクンドクンという小さな響きに代わり、消えた。ほっとすると、今度は目の前のマシロが、近くなったり遠くなったりするように見え始める。
――おい。もうだめ、なのかよ
決して振り返らないマシロの細い背中を見つめる。どこかがひどく痛むわけではない。崩れ落ちそうなほど疲れているわけでもない。でも体の何かがおかしかった。自分はいつまでもつのだろうか。思わずため息をつきそうになったとき、マシロが大きく振り向いた。
視線はダイチを通り抜けてその後ろの暗闇を見つめている。ダイチもつられて振り向くと、かすかな赤い筋が見えた。
「不法侵入です。直ちに退去願います」
機械音声が響く。金属の擦れあう音が徐々に増え、沢山の何かが暗闇に控えていることが想像できた。
「マシロ、走れ!」
ダイチはもつれる足を必死で動かして走った。マシロからどう見えるかなどかまってはいられなかった。ダイチの背後を睨み付けたまま動かないマシロの手を取ったが、すぐに振り払われた。
「逃げても追われる。私が足止めしている間に進め。すぐに追いつく」
ダイチを振り返ることもせずにマシロは言った。ダイチの体が動かなくなっていることに気が付いていて、盾となるつもりなのだ。ダイチは後ろからマシロの腕を掴む。虚を突かれて少しバランスを崩したマシロを引っ張る。
「ダメだ。逃げるぞ」
マシロの手を引き、全容を把握できない敵に背を向けて逃げ出した。すぐにダイチがマシロに引かれる格好になる。通路の突き当りは高い壁になっていて、扉があるものの固く閉ざされていた。ダイチは弱弱しく扉を叩く。
「くっそ」
「壁を下ろう」
マシロが手すりのない通路から身を乗り出して下方を確認する。ダイチは通路を振り返り、向かってくるものを確認しようと発光灯を向けた。
ぼんやりとしたあかりに浮かんだのは、二メートル以上軽くある丸いフォルムのロボットだった。通路の金網を、がしゃん、がしゃんと踏みつけながら近づいてきている。戦闘用ではないようだがかなりの数だ。ダイチも通路の下を覗き込んだ。
「この壁を降りるのは俺には無理だ。マシロ、頼みがある」
「断る」
マシロは最後まで聞かずに答えて、ダイチを背中に庇って通路に立ち、ロボットたちを睨んだ。
このあと自分はどんどん動けなくなるに違いないとダイチは感じた。毒が回り始めているのだろう。恐らく予備電源までもちそうにない。マシロだけなら目的地にたどり着き、逃げることも可能かもしれないのに、マシロを一人で行かせる言葉が見つからなかった。
ト、と軽い音を残して、止める間もなくマシロが暗闇の中に姿を消した。後を追おうとするが足が動かない。唇をかむダイチの耳に金属がぶつかり合う音が鳴ったかと思うと、下から激しい衝突音が響き、刹那の発光があった。
それは数度に渡って続き、ダイチはこの場の全容を把握した。直径数十メートルほどの円形の吹き抜けの中心に、先ほどダイチが下ってきた直径数メートルの円柱。壁には所々に大小さまざまのゲートがある。床までは数メートルだろうが、落ちれば軽いけがではすみそうにない高さだった。
円柱よりややこちらよりの場所で、マシロは壊れたロボットの腕を武器に戦っていた。恐らく、施設維持用であろうロボットには、手足共に四本ずつ付いている。「殺すべからず」のルールを遵守せねばならないのか、そもそも用意していないのか武器などは装備していないが、マシロに振り下ろされる腕は「殺してもよい」勢いであると感じられた。
マシロは実に簡単そうに次々と彼らを階下に落としている。狭い通路のため、一対一になっていることもあるが、全く危なげがなかった。しかし、新手が別の角度から来ないとも限らない。もちろん、マシロはそれも考慮して円柱より向こう側にはいかないのだろう。扉を開けなくては、と向き直ろうとした瞬間、膝が言うことを聞かずに、ダイチは崩れ落ちた。
――もう立つこともできないのか
背中を冷たいものが走る。死にたくない、だが、NIを壊すことができないのはもっと怖い。それは、アサトやカイリやマユの今後を、自分のミスで暗く照らしてしまうことになる。
ダイチは壁に手をつき、荒い息で立ち上がる。指が扉の横に設置されている黒いパネルにかかった瞬間、ピピ、と音がして扉が開いた。
「……開いた! マシロ!」
ダイチは振り返らないままマシロを呼ぶ。気が付いたマシロが、数体をなぎ倒した後こちらに走ってくる足音が聞こえた。
「入れ!」
ダイチはマシロが通過したことを確認してパネルから手を放す。ピー、と音が鳴って、ダイチとマシロを隔てて扉が閉まった。
「ダイチ! 開けろ、ダイチ!」
扉の向こうからかすかにマシロの声が聞こえた。自分に聞こえるならマシロには聞こえるに違いない。ダイチは息を吸い込んだ。
「マシロ。俺は動けそうにない。情けない話だがお前に託すしかないんだ。予備電源を壊してきてくれ」
「ふざけるなダイチ。そこを開けるまで私はここを動かない」
「なあ、マシロ。こいつらに捕まれば、俺は治療してもらえるかもしれないと思わないか」
自分の汚さを痛感しながら、ダイチは言葉をつづける。ロボットの足音が近づいてきている。時間がない。
「マシロならNIを壊してから地上に戻ることが出来るだろう? こいつらは人間を殺せない。むしろ、人命尊重のルールで治療してもらえる可能性がある。解毒剤だってどこかにあるはずなんだ。命さえ助かれば、また合流できるかもしれない。でも、マシロと一緒に行けば、俺は必ず死ぬ。俺は死にたくないんだよ、マシロ」
頼む。騙されてくれ。ダイチは祈るように霞む目を閉じる。
「わかった。壊したらすぐに戻って、ダイチを迎えにくる」
決意のにじんだ声と、走り去る足音が聞こえた。これが、俺とマシロの最後なのだろうか。どうせ果たせないなら二人で静かに逝けばよかったのではないか……遠くなる足音に弱気が心を支配する。
――行かないでくれ。一人にしないでくれ
頭とは裏腹に、心の中から沸き上がった言葉を喉の奥に押し込めて、ダイチは壁に体重を預けたまま振り返る。
「さて、どれだけ時間を稼げるか」
ダイチは倒れないように手すりに手を絡ませる。戦う力は残っていない。ならばここを動かないことでマシロの盾になる。そう思った瞬間、寄りかかっていた扉が開いた。
「おお、開いた」
嬉しそうにつぶやくマシロに襟首をつかまれて、通路引きずり出される。扉はシュウ、と音を立てて閉まった。
「マシロ、なんで」
ダイチは呆然と、怒ったような顔のマシロを見上げる。
「やっぱりだめだ。私は離れないと決めたのだから」
ぽつん、とダイチの頬にマシロの涙が落ちた。
「知ってるかダイチ? お前は嘘がへたくそだぞ」
「そっか、ばれたか」
ダイチが言うとマシロはダイチの胸倉をつかんで引き起こした。
「でも、お前の夢は必ず、叶えてやる」
まさか、と思う間もなくダイチはマシロの肩の上に担ぎ上げられた。
「マシロ、無理だ」
「無理じゃない」
マシロはダイチを背負い、暗い通路の奥に向かって走り出した。