フリーウィル 6
機体に乗り込んでから一週間が過ぎた。不思議なことに追っ手はかかっていないらしい。追いつくことの出来ない不毛な鬼ごっこを諦めて、降りたところを捕まえるつもりなのだろう、とロボタンは推測した。特にあてもなくぐるぐると無作為に飛び続け、距離だけなら地球を何周もしたことになるだろう。
携帯食は賞味期限が大幅に切れていることを気にしなければ実にバリエーションが多くて飽きることはなかったし、機内にスポーツ施設もある。サバイバルで生きていた感覚を、たった一週間で忘れつつある自分にダイチは驚いていた。
特に変わったこともない平穏な日々も、ありがたいと思ったのは最初の数日だけだ。「有り難い」はあっという間に「当たり前」になった。好きな時間に起きて、なんの労働もせず朝食へと向かうことも。そして、考える時間だけがたっぷりとあった。
「おはよう」
食堂――立派なものがあるのだが、初日にお茶を飲んだコクピット横の会議室をそう呼んで使っている――へ行くと、カイリとマユが食事を終えたらしく出て行くところだった。
「あ、おはようございます」
「ダイチも朝ごはん?」
この一週間に少し変わったことといえば、カイリとマユがいつ見ても一緒にいる事くらいだろう。やはりアサトは正しかったのだ。その点は癪に障るが、二人が落ち着いた様子になったことがありがたい。
「ああ、いよいよ今日だな」
「はい。十時で変更なしだとロボタンが言ってました」
カイリは返事をしたが、マユは曖昧に頷いた。話し合いを重ねた結果、数日前にウィングスーツを利用して飛んでいる機体から降下することが決定した。目的地のコロニーのすぐ傍ではなく、数十キロ離れた湖の上、もともと予定していたルート上に降下する。
「マユ、みんな一緒に降りるんだから大丈夫だよ」
「降りるんじゃなくて、落ちるんでしょ……」
マユは恨みがましい目でダイチを見てから歩き去った。ウィングスーツは少し訓練したら簡単に取り扱うことが出来たのだが、マユはどうしても落ちるという恐怖が拭えないらしかった。カイリが苦笑してマユのあとを追っていく。あとでな、とカイリに声をかけて、ダイチは食堂に入った。
ソファーに座ったマシロがもはや見慣れた携帯食を皿にも移さずに食べており、空の袋がテーブルの上に山積みになっていた。その横でアサトがコーヒーを飲んでいる。入ってきたダイチに気がつくと軽く手を上げて応じた。ダイチはまっすぐコーヒーサーバーに向かう。
「マシロ……これから降りるのにそんなに食って大丈夫なのか?」
「俺も言ったんだけどね、あ、俺にも頂戴」
ダイチはサーバーからカップにコーヒーを移し、アサトの空になったカップにコーヒーを注ぎ足した。マシロは最後の一口をごくりと飲み込む。
「……問題ない。全部持っていけないなら、出来るだけ腹に入れていく」
ふー、と言って満足そうな顔でソファに倒れるマシロを見て肩を竦め、ダイチはアサトに向き直った。
「降下の手順を確認しておこう」
またか、という顔を隠しもせず、アサトはそれでも小さく頷いた。計画を立てたロボタンとダイチとカイリは全てを把握している。マユもああ見えてしっかり聞いていたと思うし、カイリがしっかり教え込んでいるはずだ。
危ないのはこの二人だった。嫌がられようともきちんと頭に入れておいてもらわないと不安で仕方がない。
寝転がっていたマシロが起き上がってキッチンに向かった。まもなく、保存食を暖める音が聞こえ始めた。
「おい。まだ食うのかよ?」
「ダイチの面白くない話を聞くには甘いものが必要だろう」
マシロは甘い匂いを漂わせるパンケーキを、こんもりと皿に乗せて戻ってきた。途中落ちた一枚を膝で蹴り上げて口に咥える。
「おお」
思わず感嘆をもらすアサトを、ダイチは軽く睨んだ。このペースに持っていかれると説明ができなくなってしまう。
「いいか。降下の開始は十時。今から二時間後だ」
「わかってるよ」
「……マシロは?」
「うう」
マシロはパンケーキを口に詰め込んだまま苦しそうに相槌を打ち、ダイチのコーヒーを奪って飲んだ。ダイチは思わず出そうになるため息を飲み込む。
「ロコがギリギリまで高度とスピードを下げる。ハッチが開いてから五人が十秒以内に飛び出さないといけない。順番は、ロボタン、マユ、カイリ、アサト、マシロ、俺」
ダイチが顔を見回すと、二人はこくこくと頷く。
「淡水湖の上だ。今日の気流だと自然に南に流されるが、更に燃料の許す限り南に向かう。目的地はなく、湖を避けるために行きやすいほうに流された、というように見せかける。着地したら湖を回り込むようにして西に向かう。そうすると南北に走る高架橋があるから北に辿……おい、ここが一番大事なんだよ。はぐれたら一人で移動するんだぞ?」
アサトはちゃんと聞いている様だったが、マシロはまだパンケーキと格闘し、アサトのコーヒーも奪ったところだった。
「マシロ!」
「南、西、北だろう? わかっている」
「星座の見方も覚えたんだろうな?」
「ばっちりだ。それにみんなの匂いがわかるから大丈夫だ」
匂い……ダイチとアサトは顔を見合わせる。まさかではあるが、マシロがいうと本当のように聞こえるから不思議だった。
「じゃあ、続けるぞ? 北に向かうと巨大な都市の跡がある。地下に巨大シェルターがあるから、そこに逃げ込んだと思わせるんだ。実際にはそこから網目状に広がっている地下通路を利用して、別都市に移動する。目印は南西にある三日月のモニュメントの乗ったビル。そこでシズが準備をして待ってる」
先行させた女性型アンドロイドのシズ。彼女と落ち合うはずだった場所を目指すことになっていた。そこに行けば逃避のための手段が準備されているはずだ。随分と時間がかかってしまったが、シズは今でもそこで待っているだろう。
「万が一バラけたら、そのビルで二十四時間待つ。それでも来なかったら先に出る。いいな?」
最後の一枚を口の中に放り込んだマシロが、カップを煽るようにしてパンケーキをコーヒーで喉の奥に流し込む。
「……南西の三日月のビル。もうわかった。少し食休みしてくる」
じっと見つめるダイチに、立ち上がりながらマシロが答えた。ダイチは小さく頷く。
「そうだ。誰が欠けても出発すること。アサトもわかったな?」
「完璧に。俺も時間まで少し休むよ。またしばらくベッドなし生活だろうし」
やっと安心して力を抜が抜けたダイチの肩を、アサトが苦笑いで叩いた。
立ち去る二人を見送って、ダイチはソファに沈み込む。しばらくじっとしていると、機体がぐっと下を向き速度を弱めたことに気付いた。降下が決まってから今日まで、数時間に一度、低空を低速で飛んで、「降下したかもしれない」というダミーにすることを繰り返していた。そして、それはダイチたちが降りてからも繰り返さなくては意味がない。
「……ロコ」
『はい』
ダイチの小さな呼びかけに、ロコがすぐに応答した。
「嫌な思いをさせることになるな」
『私はAIです。一人でも寂しいなどということはありませんから、どうかお気になさらず。必要なときはいつでもお呼びください』
「……ん」
ダイチは心苦しさを感じながら答える。自分でも知らぬうちに眉間に力が入っていた。
『マスター』
「なんだ?」
『くれぐれも無理をなさらないでくださいね』
そんなダイチの気持ちを察したように、ロコが心配そうにつぶやいた。
「わかってるよ」
ダイチはつぶやいて目を閉じた。機体に乗り込むときに追いかけてきた、蟻のようなロボットたちが脳裏に浮かぶ。あの速さ、あの固さ、あの数……無事に降下できたとして、あれに見つからずにコロニーに移動することは不可能に思える。かと言って、食べるものがない空をこのまま飛び続けるわけにもいかない。
本当の自由を手に入れるには、やはりNIを破壊するしかないのだ。ダイチはロコに気づかれぬよう、握りしめかけたこぶしをゆっくりと開いた。
◆
二時間後、全員がコックピットに集まった。ロボタンが丁寧にクリーニングしてくれたものの、まだ少し匂いがするバトルスーツの上からウィングスーツを身につけた。
飛ぶことを考えれば当然なのだが、背中や手のひらなど数か所からジェットが噴き出すウィングスーツはかなりがっしりとしていて重たい。
その背中に保存食のパックをぎゅうぎゅうに詰め込んだザックを紐を最大に伸ばして背負った。マユがまだ匂いの取れないバトルスーツに文句を言った以外は、誰も何も言わない。ぴんとした緊張が張り詰めていた。
「十五分前です! 皆さん、スーツを今一度ご確認ください!」
「十四分前です! 皆さん、ウィングスーツのランプを確認しましょう!」
「十三分前です! スーツには排泄補助機能がありますから大丈夫、おトイレに行くのは我慢しましょう!」
「わーかったよ! うるせえな!」
十五分前から、一分おきにカウントするロボタンをアサトが怒鳴りつける。
「すみません! 静かにします! 十二分前です!」
大声を張り上げるロボタンに、アサトが舌打ちし、ぷ、とカイリが吹き出す。
「準備はいいかな! みなさん、準備は整いましたか! あと一分です」
さすがにもうロボタンに文句を言うものは居なかった。時計の秒針を見つめて息を呑む。
「行きます」
ロボタンが、一言軽く言って、開け放たれたハッチからマユを抱えて飛び降りた。いやああああ! というマユの悲鳴が消えないうちにカイリが飛び降り、次いで引きつった笑いを残したアサトが飛び降りた。間を空けずにマシロがハッチの淵に立つ。
「じゃあな、マシロ」
ダイチの声にマシロの瞳が驚いたように見開かれ、そのまま落ちていった。ダイチは黙ってウィングスーツを脱ぐ。
『マスター?』
「ロコ、ハッチを閉めてくれ。命令だ」
ダイチ一人を機体に残し、ゆっくりとハッチが閉じていった。閉まったハッチをしばらくの間黙って見つめ、ダイチは顔を上げた。
「ロコ、マハラ高原に向かってくれ」
『マスター、それは何故ですか?』
いつもより機械質が増したような音声で、ロコは静かに質問する。ダイチはコクピットの一番前の椅子に腰を下ろした。膝に両肘を乗せ、顔の前で手を組む。
「この機体で突っ込んで、NIのタワーを壊そうと思う」
『……マスター』
「近づいたらロコのチップを外して脱出するよ。爆風を利用して遠くへ離脱しよう。食料はあるから脱出しやすいルートを検索しておいてくれ」
『全てのルートで生存は不可能です。周囲百キロメートル以上に毒の大地が広がっています。スーツの機能で移動出来る距離は五キロメートル。風を利用して移動したとしても、墜落しないよう着地するのに必要なだけの燃料を残しての移動なら……最長でも十数キロメートル程でしょう。それから休まずに移動しても、安全なレベルの場所に辿り着くまでに、生体に修復不可能なダメージを受けます』
ダイチは静かに俯いた。
「ロコ、命令だ」
『主人の命を脅かす可能性のある命令については、従わないという選択が出来ます』
長い沈黙が流れた。ダイチはゆっくりと顔を上げて微笑む。
「じゃあロコ、お願いだ」
音声が途切れたことを知らせるプツ、という音が広くなったコックピットにやけに大きく響いた。