カルネアデス 7
騒音とともに大勢の興奮した声が、厚い扉越しに聞こえた。アサトは散乱する工具をひょいひょいと避けて、扉に近づき耳を当てる。少しして真剣な面持ちで戻ってきた。
「対処が早いね、塞いでるみたい」
「もうですか!?」
カイリが絶望的な声を上げる。ダイチの腕の中で、マユが小さく震えた。
「ご……めんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」
「マユ、どうした? マユは何も悪くない。よしよし」
ダイチはマユの背中をとんとん、と叩く。歩き回りながら壁や天井を見回していたマシロが、ダイチとマユにずかずかと近づいてきて、ぐい、と二人を引き離した。
「何だか知らないが、昔のことだろう。あれはカイリじゃない」
マシロはマユに向かい、少し苛立った声で告げる。そして、くるり、とダイチに向き直った。
「ダイチ、そんなことをしている場合ではない。何とかここから出なくては……何故ならここには食べる物が少ししかないからだ」
それを聞いて、ぶほ、とアサトが吹き出した。ダイチも呆れてマシロを見つめる。でも言っていることはもっともなのも間違いない。
「……嫉妬にはまだ早いか」
ダイチをちらりと見て意味深に呟くと、アサトは近くの机にザックを下ろし、中身を広げ始めた。
「まあまあ。とりあえず、今、慌ててもしょうがない。ここから出るにしても、バトルイベントが終わってからだし。まずは皆の荷物を確認しよ。食べ物と飲み物がどのくらいあるか……」
ザックを背負っているのは、アサトとカイリとマユだ。二十四時間分の食料が三人分ということになる。カイリは、気持ちを切り替えるように自分の頬をぱん、と叩く。マユを一瞬見つめて、誰にともなく頷くとカイが持ち込んだザックをおろして中身を机の上に広げた。
「……けっこう、入ってますね」
カイの持ち込んだザックには、アサトのザックの倍ほどの食料が入っていた。ドッペルゲンガーになった元仲間に分け与えようと思ったのだろう。寂しそうなカイの死に顔を思い出して、ダイチは皆に気づかれぬようため息を付いた。そんなダイチをちらりと見てから、アサトはマユに向かって手を伸ばした。
「マユも、ザック寄越して。……な、ダイチで足りなかったら俺の胸を使ってもいいんだぜ?」
「……う、うっさ。だ、誰がアサト、な、なんか」
しゃくりあげながら、マユはアサトを睨む。アサトはにやり、と微笑む。
「あ、あれれ? 涙黒いけど大丈夫? それ何かの病気?」
「うるさい!」
マユは勢い良く立ち上がり、ぐい、と袖で顔を拭う。つかつかとアサトに歩み寄ると、ザックを投げつけた。そしてくるりと向き直り、マシロを睨み付ける。
「それから、あたし、あんたのこと、嫌いだから!」
マユはしゃくりあげながら言って、びし、とマシロを指差す。かくん、とマシロは首を傾けた。
「何故だ?」
「うるさいっ! 天然女! ムカつくのよ!」
困ったようにダイチを見つめるマシロに苦笑いして、ダイチは立ち上がる。通りすがりにマユの背中を叩いて、カイリに歩み寄った。この調子が戻ればマユは大丈夫だ。そっとカイリの頭に手を載せる。
「大丈夫か?」
「……はい」
作り笑顔だと一目でわかる青ざめた顔が痛々しい。まだマユの石つぶてが当たった腹が相当痛んでいるはずだし、過去について今すぐにマユを追求したい気持ちと、知りたくない不安で揺らいでいるのだろうと思う。ダイチがどうしたものかと考えあぐねている間に、アサトはあちこちから椅子を集めて、即席のテーブルをつくっていた。
「こんだけ工具が揃ってるんだから、なんとか出られると思うしさ。休憩しようって。ほら、皆座って。水でも飲んでー菓子でも食ってー」
マシロが、華麗な体裁きで散らかった部屋を移動して椅子に座った。ダイチがそれに続き、カイリもマユを気にしつつ椅子に座る。イライラと足踏みしていたマユは、諦めたようにズカズカと即席テーブルに近づいてきて、どすん、と椅子に座った。
「……で? 話を戻すけど、俺とマユが知らないことがあるみたいだね」
アサトは水のパックを手渡しながらカイリを見つめる。カイリが困ったように口を開かないのを見て、ダイチに視線を移した。ダイチは手渡された水を一口飲む。
「まず……俺たちが信じている世界と、本当の世界は違うんだ」
そしてダイチはぽつりぽつりと話し始めた。NI化、人類の肉体を残す措置としてのクローンとリスポーン。それを維持するための作られた世界、テセウスと作られた記憶。それらはカイリの手で明らかになった事実だが、それすら本当なのか定かではないこと。自分たちの記憶の不確かさ。ダイチが語り終えると、アサトは上を向いてはーっと長く息を吐き出した。
「なるほど。この世はよくわからんってことがわかったわけだな」
かくん、と顔を正面に戻し、アサトは無理に明るい声で告げる。しかし、誰も何も言わなかった。痛いような静寂の中、アサトはボリボリと頭をかきむしった。
「いろいろありやがるな、全く。でも間違いないのは、俺はお前ら全員が大好きだってことだな。あと、生まれたからには死にたくねえ。お前らが本当は誰か、とか、前はどうだった、とかさ。本当の世界とか、真実とか、別にどうでも良くねえ? 俺は俺で、お前らはお前らで、俺はお前らが好きで、面白いから一緒にいたい」
アサトはゆっくりとみんなの顔を見回す。最後にマユの上で止まった顔が微笑みを作った。
「……ばっかじゃないの、キッモ」
それを見たマユが鼻を啜って俯く。はー、と息を吐いてマシロが不思議そうにアサトを見た。
「そんなの当たり前だろう、新しいアサトはちょっと変だな。つまらん話はもういいからメシを……」
「僕も、皆さんが大好きです!!」
マシロの隣で、カイリが立ち上がって叫んだ。皆、驚いてカイリを見つめる。
「僕はダイチさんが好きで、アサトさんが好きで、マシロさんが好きで、マユさんが好きです!」
カイリの白い顔が首まで真っ赤に染まる。
「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに」
とマユが小さい声で憎まれ口をきき、何故か真っ赤になった頬を隠すように手で覆った。重苦しい空気が消えて、和やかな雰囲気に変わりつつあった。ダイチはぼんやりと天井を見上げる。黙っているダイチをどう思ったのか、アサトが心配そうに見る。
「ダイチ?」
「あ……ああ。そうだな、何もかも不確かで俺も不安だ。だけど、アサトの言うように俺たちは仲間として信頼しあってる、自分を信頼してくれている仲間を信用すればいいんだろ? 皆が大事だと思う気持ちは本物だろ?」
寒気がするほどのきれいごとだと思う。だが、この状況では「今そう思っている」ことだけが間違いのない事実なのだ。ダイチは口角を無理やりに上げてニカ、と笑う。
「よし! マシロが飢え死ぬからメシにしようぜ」
「賛成!!」
マシロがこれ以上まっすぐにはならないくらい、まっすぐに手を上げる。アサトが、ははっと笑って胸の前でぱん、と両手を合わせた。
「はいじゃあ、皆揃って……いただきます!」
「いただきます!」
「……いただきます」
五人はそれぞれに複雑な思いを抱えたまま、目の前に積んだ食料に手を伸ばした。静かだが、それでも先ほどまでの重々しい雰囲気は完全になくなっている。ダイチはアサトに深く感謝した。
「ごちそうさま!」
一番に食べ終えたマシロが席を立った。黙って壁際に歩いていったかと思うと、くるりと向きを変え勢いよく駆け出してくる。そしてアサトの座る椅子の背もたれを足がかりに飛び上がり、天井の照明を設置するための梁を片手で掴んだ。その勢いで片手で一回転して、すとん、と梁の上に乗る。ミシ、と音を立てる梁から飛び上がって、天井から垂れ下がった大きなフックに飛び移った。雪のようなホコリがもうもうと降り注ぐ。突然のことに、全員呆気に取られて、マシロを見上げた。
「ちょ、やだあああ、もう!!」
埃を見て我に返ったマユは自分の食事を抱えて部屋の隅に移動する。マシロは我関せずな様子でぶらぶらと揺れながら天井を指差した。
「この辺の天井が薄い気がする。音の伝わりが大きいんだ」
悪意の全くない大声の報告を聞いて、アサトは、きっ、とマシロを見上げてスプーンで指した。
「マシロちゃん、皆が食べ終わるまで座ってなさい! ……お前は猿か!」
呆然と上を見ていたダイチとカイリは顔を見合わせて笑い、埃に咽て盛大に咳き込んだ。マシロの乗ったフックの揺れが徐々に小さくなり、止まる。マシロは咳き込む二人を交互に眺めた。
「えーと……すまん?」
「何で疑問形なんだよ!」
ダイチが叫んで、マユが飲みかけたお茶を吹き出す。はっとして後ろを向いたが、背中がヒクヒクと動いていた。それを見たアサトが吹き出し、カイリもつられて笑い出す。ダイチも腹を抱えて笑った。マシロはゆらゆら揺れるフックの上から不思議そうに四人を見回して、ひょい、と三メートルはある高さから飛び降りた。ダイチはゲラゲラと笑い続けているアサトを見る。
「なあアサト。テセウスに入ろうってお前に誘われたとき、俺死のうとしてたか?」
アサトは一瞬真顔になったあと、にやりと笑った。
「……してねえよ。面白いことねえかってお前がしつこくて……でもそれ、偽の記憶だろ? 俺たちテセウスに入ろうとしてないんだから」
「そうだな」
ダイチはふっと息を吐き出す。テセウスに入ることを決めた日の記憶の齟齬、どちらの記憶も作られたものなのかもしれない。でも。
――死にたかったのは多分、俺だ。
もし、自分が先にドッペルゲンガーになっていたら、四十年間一人では生きられなかっただろうと思う。
「……俺は……イチは、サトになりたかったんじゃないかな。俺の中の俺の記憶はサトっぽく作り変えられている気がする」
「はい? なんだよ突然。でも、まあなあ、俺超カッコイイからな。しょうがない、それはしょうがねえ。許す」
ダイチが何を言い出すのか、と静まった空間の中、あごに手を当てたアサトの滑稽なキメ顔を見て、カイリがまた笑いの発作に襲われる。
「いや、許してくれとかじゃなくて……」
ポーズを崩さないアサトに、たまらずにダイチも吹き出した。ダイチにとっては一世一代の告白だった。もちろん、アサトにはどうでもいいことなのかもしれない。……だが、笑えた自分に驚いた。
「ダイチが……アサト? ……アサトは二人は要らないぞ」
マシロが悩んだ顔で真面目に言うので、さらにダイチは笑う。
「そうですね」
「アサトが二人とか、あたしは絶対に嫌」
カイリが同調し、マユが首を振る。アサトは、ハーと息を吐きながらわざとらしく首を振って、両手を広げた。
「またまたー、俺のこと大好きなくせにー。ほら、飛び込んでおいで、ほら!」
手を広げたままカイリとマユを追い回すアサトをダイチは目で追う。この取ってつけたような陽気さを、いつか本当にするのだ。その為に、しなくてはいけないことがある。たった一人でも、どんな危険を冒しても……重くなりそうになる心をダイチは無理に引き上げる。
「ここを抜け出せばどうにかなる、と約束は出来ない」
話しはじめたダイチに皆が注目する。
「……でも俺は一人じゃ何も出来ないし、間違う。気持ちも弱い。本当……ろくな人間じゃない。それでも、一緒に来てくれるか?」
ダイチは長く憑き物のように自分に絡み付き、必死で振りきろうとしてきたものをごくり、と身のうちに取り込んだ。
「もちろん」
アサトが振り返ってまぶしそうに微笑む。
「当たり前だ」
マシロがつまらないことを、というように肩を竦めて答える。
「うん」
「はい」
声が被ったカイリとマユが顔を見合わせて笑う。
「……助かる。しかし、埃すげえな」
ダイチは天井を見上げた。瞬きをたくさんしてからゆっくりと顔を下ろして、皆を見回した。