ドッペルゲンガー 2
――イチとサトのテセウス入りから四十年後
長い眠りから目覚めたような感覚で、イチは目を開いた。リスポーンをした時の感覚に似ているが。手のひらを自分の前にかざして眺め、そうではないことを確認した。
「おはようございます、マスター。……マスター?」
「あ、ああ、おはよう。ロコか」
気ぜわしげに自分を見ているロコを安心させるために、イチは微笑んだ。故障した部位に合う代替パーツがなくなったロコを新しいボディに交換してからもうだいぶ経つ。
同じシリーズの同じ型にしたのだが、どうしても最初は微妙な違和感あった。すっかり慣れていたはずなのに、その時のような感覚を久しぶりに味わったのだ。
「懐かしい夢を見たせいかな」
「夢、ですか?」
なんでもない、と首を振ってロコの柔らかな金色の髪を撫でる。白で統一した部屋に、質素な家具。相も変わらずに、地味で質素な部屋だった。
――ここに、ずいぶん長居しているな……
四十年前にテセウスに運び込んだ家具は全て壊れた。似たようなものに取り代えているから、部屋そのものは全く代わり映えしていないが、当時と同じものはひとつもない。イチとロコの体でさえも。顔でも洗おう……イチは頭を掻きながら、洗面台に向かった。洗顔料を手に取って、お湯を出すと、洗面台の鏡に映る自分と目が合った。俺はこんな顔だったか? イチは鏡に映る自分に違和感を覚えて戸惑った。短く刈り込んでいる黒くごわごわしている髪には、ところどころ白いものが混じっている。大きい一重の黒い目に、東洋系にしては堀の深い鼻筋は変わらないが、肌にはりがない。薄い唇の横にはほうれい線がくっきりと刻まれていた。最後にリスポーンをしたのは二十年前だから……このボディの年齢は四十歳くらいだ。
テセウスにやってきたばかりの頃の夢を長々と見たせいで、年老いた自分にさえ驚くとは。自分に少し呆れながら、イチは赤いバトルスーツに身を包んだ。ここでの生活にも飽いたら、もう行く場所ない。イチは唇の端をあげて笑う。
「……いってらっしゃい、マスター」
うつむいて呟くロコを抱き寄せてイチはその額にキスをした。心配そうな青い瞳が揺れて、イチの胸に添えた白い指先が、何かを掴みたいようにかすかに動く。
「すぐに戻るよ」
ロコの頬を撫でて体を引き離し、パシュ、と横開きに開いた扉から一歩を踏み出した。テセウスに入った当初のような気負いも緊張も、何もなかった。惰性はここでも繰り返されている。
――どこかに……帰りたい
イチは頭に浮かんだ思いを振り払って、足早に廊下を歩きだした。行く場所はバトルフィールドで、帰る場所はこの部屋だ。
バトルドームテセウスでは、一月に一度、バトルが行なわれる。二十四時間、赤サイドと青サイドに分かれ、直径十キロメートルの円形のドームの中でひたすらに殺しあうのだ。勝っても負けても何も手に入らないし失わない。死ねば百体用意されている自分のクローンが一体減るだけだ。
ただ、何回リスポーンしたか、何人殺したか、勝ちチームに所属していたか、などが戦績として点数となり、順位が発表される。他に何もないからこそ、バトルに参加するファイターたちはこの戦績の順位に一喜一憂していた。
「イチ、おーい、おっさーん」
戦場へと開く大門の前でサトと落ち合った。サトはニ年ほど前にリスポーンしたばかりので若々しい。周りには既に大勢のファイターが待機していて、高い天井にも関わらずむっとするような熱気に満ちている。
バトルドームにに来てからイチは五回、サトは七回リスポーンしていた。戦績順位はイチが上である。討伐数はサトの方が多いのだが、リスポーンすると大きく減点になるのだ。二人とも十分立派な順位なのだが、イチに負けていることが余程悔しいらしく、サトはイチの老いた容姿をしつこくからかう。
「いいね、若くて。リスポーンは七回目だったけ?」
イチの棘のある言葉にサトはチっと舌を打つ。なあなあ、そろそろ若返ったほうがいいんじゃねえの? 太いよ、このへん……などとしつこく絡むサトを無視して、イチはサトの隣に立つカイに手を上げて挨拶をした。
「おはようございます、イチさん」
カイが笑顔で答える。カイは数年前からテセウスに参加している新人で、今年からイチのチームに加わった。すでにニ十回以上、リスポーンしている。バトルのたびに死んでいるといってもいい。このままだとあっという間にクローンを使い果たしてしまうのだが、本人はあまり気にしていない様子だ。
「おはよーさん」
イチはカイの頭にぽん、と手を載せた。嫌がる風もなくカイはにっこりと微笑んだ。白に近い金髪に透き通るような青い瞳という風貌は、彼を少女のようにさえ見せる。背も小さく華奢な上に運動神経も良くない。何故テセウスに参加しようと思ったのか全くわからないが、イチもサトもそこまでは立ち入らない。もう一人のメンバーは……イチが周りを見渡すと、
「ごーめーん。遅れたー」
と慌しく、マユが走ってくるのが目に入った。マユはバトルドームには珍しい女性のファイターで、イチのチームの一員だ。カイと同じくらいに参加した新人だが、リスポーン回数は一回だけである。
走るのに合わせて、二つに高く結い上げたストロベリーブロンドの髪がぴょんぴょんと跳ねている。イチたちのもとに辿り着くと、頭を下げてハアハアと荒い息をついて見せた。下げた頭の根本の黒が彼女がもともとは黒髪であることを主張している。ずっと走ってきたような様子が演技であることは本人を含めて全員が気が付いている。恐らく、本当に走ったのは数歩だけだろう。
「なあ、これから戦場に出るのに化粧する必要ってあんの? どうせマスクをつけるんだし?」
「黙れサト。おはよう、イチ」
マユはおそらく通常の倍ほどの大きさに書き直されているだろう目でイチにウインクをする。重そうなまつ毛に縁どられた瞳はカラーコンタクトだろうが、こちらもピンク色で、およそ戦いに行く人間のいでたちではない。あれほど途切れていた息は一瞬の間に整って、汗の一滴もかいていない。
「おはよう」
苦笑いで返事をするイチの腕に、マユは自分の腕を絡ませた。一瞬眉を寄せたが振り解くことはせずに、イチは壁に取り付けられたデジタル表示の時計を見る。サトがカイと目をあわせてニヤニヤと笑った。
青サイドでは四・五人のチームで戦うのが主流である。バトルドームでは戦場に出てしまえば、殺しあう以外のルールなど何一つないのだが、バトルの回数が重なるにつれ、なんとなく出来上がっていったローカルルールのようなものだった。もちろん、一人、二人で、もしくはもっと大勢で行動してもなんら問題はない。現に赤サイドの生きる伝説のファイター、戦績首位の「赤目」は常に単独行動だし、十人以上の大所帯のチームもある。
イチとサトは「チームポイント向上の為、面倒を見てくれ」とカイとマユを押し付けられたのだが、この状況を楽しんでもいた。カイが背中に背負った弓をイチに見せるように後ろを向いた。
「僕、今日は弓で行きます」
「お、練習してたもんな」
「はい、サトさんに薦められたので」
バトルドームでは銃や火器の使用は禁止されている。武器は刃物か手で打ち出す道具のみで、いくつ持ち込んでもいい。
カイはリーチが短いのだが、それを補う長い武器を持つには筋力が足りず、軽い武器で小回りしようにもいかんせん、動きが鈍いのだ。だが、とても目が良かった。誰より早くに敵に気がつくカイのおかげで、何度も有利に戦うことが出来た。それに目をつけたサトが何気なく言った「弓なら」という言葉で、カイは今まで毎日、多くの時間を割いて練習を積んできたのだった。
「何を持っても、コイツは役に立たないと思うケド」
「マユ」
「ごめんなさーい」
叱咤するイチに上目遣いで謝ってから、カイに向かってマユは舌を出した。事実、マユの方がカイよりずっと戦績がいい。無理をしない性格で着実に生き残り、倒せるときだけ確実に倒すのだ。遠距離武器も手持ちの武器も意外なほど器用に扱う。体が小さく小回りが利き、急所を的確に狙う天性の才能があった。サトが少し不愉快そうにマユを睨む。
「仲間を囮にして逃げるやつよりマシ」
「囮にしかならない無能なやつが悪いんだもん」
嫌味を言われてもマユは気にした様子もない。マユは性格に少し問題がある。気分のムラが激しくチームを無視して自分勝手な行動をとるのだ。それでもイチのチームに入ってからはそれなりにイチに従っている。
「二九八四年一月期 バトルスタートします」
アナウンスが流れ、イチたち四人はお揃いのマスクをかぶった。人道的な見地から、ファイターは素顔を晒して戦うことを禁じられている。バトルスーツは規定のものの着用が義務付けられているから、ファイターたちはこのマスクで個性を表現した。
イチのチームのお揃いのマスクは芸術的な才能のあるカイのデザインしたマスクだ。普段はカイに文句ばかりのマユもこれは気に入っているらしく大人しく被っている。
ブーと長いサイレンが鳴って大門が開く。およそ十キロ先にある青サイドの大門も開いただろう。五百人以上のファイター達はおおう、と鬨の声と地鳴りを上げて戦場へと駆け出していった。