アガスティア 6
マシロが跳ね起きる気配でダイチは目を覚ました。カイリも目覚めていてじっと何かを見つめている。その視線を追って、ダイチが振り返ると通気口の上から、スルスルと一本のロープが降りてきていた。追っ手だろうか、だが逆にここから逃げ出すチャンスでもないだろうか。ダイチはロープの先を睨みつけ、催眠ガスを吸い込まぬよう息を止めた。するとロープが出ている五メートルほどの高さの横穴から、ひょい、と顔が覗いた。
「え……」
息をのんだカイリが嫌なものを見たように勢いよく視線を逸らした。ダイチもマシロも呆然と自分たちを見下ろしている顔を見つめた。
「カイリ?……いや、カイか?」
ドッペルゲンガーを始めて見たときの気分の悪さを思い出し、ダイチは座り込んだカイリの前に立ち、二人の視界をさえぎった。本筋に居るはずの「カイ」なのか、また別の何物か。ダイチは黙ってこちらを見下ろすカイの蒼白な顔を見つめる。
「先は縛ってあります。登って来てください」
カイはそれだけを言って通気口の中に消えた。他に選択の余地もない。マシロが頷くのを見て、ダイチはロープを握った。壁に足をつけてゆっくりと上る。横穴に着くと、差し出されたカイの腕を掴んで穴にもぐりこんだ。こちらの横穴も四つんばいで移動できる程度には広い。
「……大丈夫か?」
具合の悪そうなカイに声を掛け、ぽんと頭に手を載せる。びく、と反応したカイに気がつかないフリをしてダイチは窮屈な管の中でどうにか方向転換して、ロープを垂らした。
「カイリ、マシロの腹に縛ってくれ」
「はい」
カイリはロープの先をマシロの腹に結ぶ、マシロが壁に足をつくタイミングを見ながら、引っ張り上げる。続けてカイリをマシロが引き上げた。
「こっちです」
管の先からカイに促されて、再び通気管の中を這うように移動する。やがて枝分かれした細い管に入り、外れている換気口から見知らぬ部屋の中央へと降りた。机が二つ重ねられて足場が作られている。おそらくカイが昇るときにやったのだろう。
「うあー」
狭い空間から抜け出して、ダイチは大声を上げて伸びをする。改めて見渡すとそこはニ・三十人で会議に使うような部屋で、いくつもの机が規則正しく並んでいた。カイは置かれていたザックの中からドリンクを取り出してダイチとマシロに手渡し、一本を机の上に置く。動かないカイリを見かねたマシロがドリンクをカイリに差し出した。いくらか逡巡した後、カイリはそっと受け取った。三人は夢中でごくごくと飲み干す。体中に染み渡るようだった。
「食べてください」
続けて食料を取り出すカイの小さな声に、カイリは背中を震わせる。捕まった時に武器も食料の入ったザックも回収されてしまった。ありがたい。ダイチは渡されたパンを無言のまま食べ終わる。
カイリは少しだけ齧ると、部屋の隅に移動して背中を向けて座り込んだ。ダイチはカイをじっと見つめる。
「えーと、どうしてここに? 誰なんだ?……ってカイだよなあ」
そっくりで見間違いそうだが、バトルスーツが汚れていないことで見分けがつく。カイは髪に手を持っていきかけて、はっとして下ろした。
「今日はバトルの日だよな? 今何時だ?」
「朝の七時です」
「そうか……で何で……」
「実は昨日、今回のバトルではイベントが行なわれるという通知が来たんです」
カイが話しはじめるのを見て、マシロが背を向けたままのカイリを気にしながらも話の輪に入った。
「それぞれの宿舎のバックヤードに潜り込んだドッペルゲンガー狩りをする、と。生きたまま捉えたら一人あたり百ポイントです」
ダイチはごくりと唾を飲み込む。リスポーンは一回でマイナス十ポイント、討伐が一人一ポイントだ。百ポイントとなればファイターたちは躍起になって追いかけてくるだろう。生きたまま、という指示があったとしても何が起こるかはわからない。NIも考えたものだ、ダイチはなんとか舌打ちを堪える。
「赤サイドと青サイドで同時にドッペルゲンガーが逃げるなんておかしいと思って調べたら……青サイドはフェイクで赤サイドはイチさんと自分と……赤目さんだと突き止めました。経緯もほぼわかったので……バックヤードの図面を調べて逃げたなら排気口にいるだろうと予測したんです」
「それで……助けに来てくれたのか」
「そう、ですね」
カイは曖昧に返事をする。しばらくの沈黙のあと、カイリが顔をあげて少しだけこちらに向ける気配がした。
「自分のクローンを大量生産したりするものが出ないように、リスポーン時に自分のクローンに対する嫌悪感をインプットさせられていることはわかっていました。……でも、こんなに気分が悪いものだとは僕も思わなかった。その人は、二人でも上手くいくと思ったんだろうと思います」
遠く離れた部屋の隅でカイリがポツリと呟く。カイが我慢し切れないというように髪に触れる。
「……仲間になってくれるってことか?」
カイリの「その人」という言い方が気になったもののダイチはカイに尋ねる
。一瞬目を見開いたカイが諦めたように目を伏せる。
「……同じ思考ですから隠せませんね。そうです。でも、無理でした。本当、なんで……僕の時じゃなかったんだろうな」
くしゃりと顔を歪めたカイの頭に、イチは思わず手を伸ばしかけ、こぶしを握って降ろした。カイリが後ろを向いたまま手をこちらに伸ばす。
「チップを置いて戻って。君の……情報は僕が受け継ぐから」
カイは静かにゆっくりと頷いた。ダイチは二人を交互に見つめる。
「なあ、俺たちはAIやNIじゃない。嫌悪感がインプットされてても、慣れるというか……平気になるときが来るんじゃないのか?」
「そうだ。カイリ、カイも一緒に行こう」
あまりにも気落ちしている様子に、こちら側に居たいと言うならそうしてやりたい、とダイチは思った。マシロも静かに賛同する。カイはきっぱりと首を振る。
「いえ、向こうの皆を心配させる前に戻ります」
「……真実を知ったんだろう? 安楽死させられて記憶を消されるぞ?」
「……慣れてます。あ、この部屋からは早めに移動してくださいね。ドッペルゲンガー狩りはもうすぐ始まります。地図はここに」
カイは首の後ろからチップを抜き取り、ダイチに手渡す。思わずその手を握ったダイチにぎこちない微笑を向けて、カイはするりと手を抜き取る。そのままドアへと向かって、振り返らずに出て行った。
■
部屋を出たカイはまっすぐに廊下を走り、息が切れたところでひとつの部屋に入った。ドッペルゲンガー狩りのためだろう。どの扉にも鍵が掛かっていない。
「もっと狭い部屋がよかったな」
カイはだだっ広い空間を見回して一人つぶやく。天井まで高い。バックヤードにはものの数分で五百人のファイターがなだれ込む。彼らが助かる見込みは薄いだろう。だが、共に戦うのは自分ではない。
どうやら自分は知りすぎた罪で安楽死になるらしい。そして、この記憶は次のバトルで消される。次の自分は、また不安を抱えたままリスポーンし、イチとサトとマユだけをよすがに生きるのだろう。それでもいつかまた真実を知ることになるのかもしれない。そしたら、また……
「……もう、いやだ。ここで降りよう」
カイは用意していた予備のチップを首の後ろに差し込む。
「5738 カイリ バトル放棄します」
ゆっくり、はっきりと発音する。ピピ、という電子音が耳の後ろで響いた。
――宣言を確認しました。こちらの宣言を実行すると、即時クローン配給の権限が失効します。現バトル中に死亡した場合にも、クローンは配給されません。バトル終了まで宣言を保留しますか
「……いいえ」
カイはぼんやりと壁を見つめる。経験がないからわからないが、この選択がイチやサトに伝わらなければいいな、と思った。バトルが終わればわかってしまうことだが、それまで彼らが何も知らなければいい。ドッペルゲンガーが誰なのかも何も知らなければいいと思った。
――繰り返します。こちらの宣言を実行すると、即時クローン配給の権限が失効します。現バトル中に死亡した場合にも、クローンは配給されません。バトル終了まで宣言を保留しますか
「いいえ」
イライラした声で叫んだ。早くしてくれ、バトルが始めれば死亡が伝わってしまう。
――了解しました。現時点でバトル放棄の実行をしてもよろしいですか
「はい」
――繰り返します。現時点でバトル放棄の実行をしても
「はい!」
――バトル放棄の実行をしました。尚、次のバトル開催前日二十四時まではキャンセルが可能です。繰り返します。次のバトル開催前日二十四時まではキャンセルが可能です
音声はフツ、と途絶えた。
――六月期、バトルスタートしました。ドッペルゲンガーを捉えてください
館内放送が鳴り響く。
「ごめん、イチさん、サトさん、マユさん」
カイは咽喉元にナイフを押し当てる。その冷たさは何故か懐かしい安堵感をもたらし、涙が一筋だけ零れた。緩んだ口元に自分でも驚きながら、カイは迷いなく大きく手を引いた。その瞬間……。
――5738 カイリ 死亡
バックヤードへの入り口でイベントが始まるというのに姿を見せないカイを待つ、イチとサトとマユの耳に抑揚のない電子音声が響いた。