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テセウスのゆりかご  作者: タカノケイ
三章 アガスティア
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アガスティア 5

――三年前



 カイリがバトルドームテセウスのリスポーン室で目覚めた時、そばには誰も居なかった。


「えっと……」


 カイリはベッドから起き上がり、寒気のするような不安に襲われて辺りを見回した。ここはバトルドームテセウスのリスポーン室。自分の名前はカイリ。それはわかる。ベッドもわかる。ドアもわかる。これから行くべき自分の部屋もわかる。それなのに「自分の事が何もわからない」という恐怖が全身を包んでいた。カイリは自分の過去の全てを失っていたのだ。

 真っ白な中に「バックアップ更新時の事故で、記憶データを全てロストした」という紙に書かれたような記憶だけがあった。焦燥感に追われるようにして白い部屋を出て、見覚えのない家具といくつかの箱が積まれた「自分の部屋」に移動する。

 だが、その部屋にある全てもまた、カイリによそよそしい顔を見せた。カイリはチリチリと痺れる指先で、黙々と積まれている箱を開けていく。次々に出てくる服も食器も雑貨も……何一つ、心に触れてこない。これを自分が用意したのだろうか。


「なんだろ……息が苦しいな」


 声に出すと涙が零れた。なぜ、苦しいのかわからない。だが、ただただ苦しかった。泣きながら荷解きし、最後の箱から出てきたのは最新式のラップトップだった。入れた記憶はないのだが、これが最新式であることはわかる。偏った記憶に押しつぶされそうになった。瞬間、ひとつの疑問が浮かぶ。バックアップデータをロストするなどということがあるだろうか。そもそもロストしないためのバックアップであるはずだ。

 それに、身の回りの世話をするアンドロイドも連れていないのは何故だ? アンドロイドにいくらかの記録が残っているはずではないか。

 カイリはラップトップの操作リングを指に嵌める。その感覚は初めてカイリの心に馴染んだ。自分のルーツを知るために、カイリは訓練もそっちのけでネットワークに深く潜って行った。そして……この世界の真相を突き止めた。


――この世界は全て、NIの暇つぶしの為のショーで、自分たちは人類という生物を残すためにだけに生かされている家畜である


「ばかげてる」


 カイリは、倒れるように横になった。メインデータにアクセスするのは勿論、簡単ではなかった。それでも入れた。こちらはあくまでも指先で入力しているのだ。本気でガードする気があれば入れるはずはない。入らせられた? 全ては手のひらの上の出来事なのだろうか。全てが信用できなかった。自分の事でさえも。何より、自分の「記憶がないという設定」は他でもない自分のNIが考えたことなのだろうから。


 生きた人類を存続するために足掻いた時代の負の遺産「人造人間」もゲームの余興として投入されているらしい。自分は「真実を知るものが現れる」という余興用なのだろうか? だとしたら……自分はこれを誰にも言うまい。ざまあみろだ、とカイリは自嘲気味に笑った。

 やがておとずれたバトル初日、カイリはたった一人で戦場に立ち、森の中で誰にも見つからず一日を過ごした。戦う気になどならなかった。何もしない、それがNIに対する唯一の報復だと思った。そして白い部屋で目を覚ます。


「え……」


 全ての記憶がなくなっていた。カイリはまたもや呆然と部屋に戻る。テセウス前の記憶がない。だが、テセウス入りしてからの記憶もほとんどない。食事をした記憶はある。つまらない訓練に参加した記憶も。時間切れで安楽死になったことも。だがこの部屋で過ごした記憶が全くなかった。部屋にいる間、眠り続けていた? そんなことがあるだろうか。自分の匂いのする部屋の家具も間取りも覚えている。僕は確かにここにいた。呆然と立ち尽くすカイリの目に新品のラップトップがうつる。買い換えた記憶はある。でも前に使っていたのも新品だったはずだ。何故、買い換えた?


「……記憶が消えてる? 操作……されてる?」


 それは犯罪のはずだ。記憶はいかなる場合においても第三者が見たり手を加えたりすることは許されていない。消すようにバトル前に自分が望んだのだろうか。それはありえない、とカイリは強く思った。記憶の欠如がどんなに苦しいか誰よりもわかっている。更に消すなんてことを選択するはずがない。


――時間切れで安楽死になった記憶がある。でも間に合う場所にいたのに何故戻らなかった? 


「まさか」


 バトル中に強制的に安楽死させられ、記憶を消されてリスポーンさせられた。そう考えるとつじつまが合う。再び、カイリは電脳世界にのめり込み、再び同じ真実にたどり着いた。


「なるほど。僕はこれを知ったのか」


 どうりで簡単に入り込めたわけだ。殺して記憶を消してしまえばいいのだから。なくした一ヶ月間の記憶も取り戻せたが、知ってしまった以上、次回のバトルでまた殺され、記憶を消されるだろう。そして、この世界の真理など知っていても何の徳もないのに、自分はまた苦しみながらここにたどり着くのだろう。そして、記憶を消される。


「皆に、これを話したら……」


 自分の独り言を自分であざ笑う。ずっと一人でいた自分の突飛な話を誰が信じるというのだ。笑われて終わりだ。そして、目覚めたときに何も分らない苦痛は延々と続いていくのだ。抜け落ちた記憶の数だけ増やして……カイリはぶるっと身震いした。


 次の月のバトルの日までに、カイリはナイフの中にチップを埋め込めるよう加工した。そして、他のファイターたちに注目され笑われながら、大きなクスの木と、その根元にラップトップを膝に乗せて座った自分の絵を描いて食堂に飾った。

 翌月のバトルが始まると、カイリはすぐに森に入り、大きなクスの木を探した。セッコクの花が根元に咲いている。そこにチップを仕込んだナイフを突き刺した。


「さて、ちょっと怖いけど」


 カイリは自分の咽元にナイフを当てる。バトル前にチップは外している。ここで脳が死ねばバトル開始から今までの記憶はどこにも残らない。カイリは目をきつく瞑って、腕を引いた。


 そしてまた白い部屋で目を覚ます。何の記憶もなしに。


 三たび、消えた記憶に疑問を持ち、調べ上げ真理を知る。だが、違っていたのは絵が残っていたことだった。次のバトルにカイリはラップトップを持ち込み、クスの木を探した。そしてセッコクの花のなかに突き刺さるナイフを見つける。今回の自分の一ヶ月の記憶とチップに収められた一ヶ月の記憶。かなり重複はしていたが、記憶を重ねてチップに記録し、またナイフに隠して自害した。

 繰り返す……しかし本人にとっては初めての、記憶が欠落したまま不安と共に目覚める白い部屋。それはどうしても避けようがなかった。だが……全ての記憶のある一日を繰り返すことにより、森に隠したチップに収められている情報は膨大なものとなっていった。



「僕がしていることに、彼らが気づいていたかどうかはわかりません。恐らくですが、バトル前の検査に引っかかった人間の記憶をリスポーンさせて消す、というマニュアルを感じます。何もかもすごく雑で……意思のある人間……NIですね、が管理に携わっていない気がします」


 話の最後をそうカイリは締めくくった。視力がよく、回避能力も学習能力も高いカイリがバトルのたびに死んでいた理由はそれだったのだ。だがダイチの頭にふ、と疑問がわく。


「じゃあ俺たちと一緒に行動するようになってからは何も知らないでいたってことか?」

「はい」

「絵に気づかなかったのか?」

「自分からのメッセージには気づいていました。でも気にならなかったというか」


 カイリはそっとダイチの顔を伺うように見た。


「覚えてないかも知れませんが、始めて会った時にも、ダイチさんはさっきみたいに頭を撫でてくれたんです。そのとき、生まれて初めて深く息を吸ったような気がしました。チームでいることが本当に楽しくて……クスノキに行けばそれが終わってしまうだろうと感じたんです」


 カイリはすうっと息を吸い込んで吐く。頭を撫でた。たったそんなことだけで……不安に苦しんでいたカイリを思って、ダイチは胸が痛んだ。


「僕のことなのに、そうやって苦しそうな顔をしてくれる。サトさんも、ちょっとわかりにくいけどマユさんも。それが嬉しくて」


 カイリは本当に嬉しそうに微笑んだ。


「そうか。……でも、じゃあなんでドッペルゲンガーになんかなったんだ?」

「ダイチさんを見つけて……ドッペルゲンガーだってすぐにわかりました。それで……、もしかしたらなれるかもって……誰かの必要な人間に。イチさんやサトさんやマユさんには代わりがいっぱいいるけど……」


 どんどん声が小さくなってとうとう俯いたカイリの頭をダイチはそっと撫でる。


「今、俺たちにはカイリが絶対に必要だ。でも、前の俺にだって必要な仲間だったよ」


 カイリはうれしそうに顔を上げた。ダイチも笑顔を返す。


「ドッペルゲンガーになってから、クスの木のチップの記憶を見たんだな?」

「はい……黙っていてすみません。言わないほうがいいことだと思って……」


 また俯くカイリに、そうか、とダイチは呟く。ひどく疲れていた。知りえた情報が多すぎて、頭も心も追いつかない。今は何時だろうか。眠らされていた時間はそう長くなかっただろうと思う。ロコのこと、これからのこと、テセウスの真実、本当の自分――思わず深いため息をつく。


「少し休みましょう」


 ダイチの疲れに気づいたカイリが、そう言って壁に背中を預けて目を閉じた。


「そうだな、マシロも寝てるし」


 脳に入る情報を減らすためにダイチは目を閉じる。

 自分の記憶は自分によって作られたもの――そのことが心の底にわだまかっていた。もしそうだとすれば、自分の過去を植えつけるとき、それを美化せずに行なえる人間が居るだろうか。誰かを助けた記憶は見殺しにした記憶を改竄したものかもしれない。

 自分はもともとNIイチのような人間なのだろうか。美化した記憶を植えつけられ、他人を思いやっているつもりになっているだけなのかもしれない。

 いや、NIイチの心がNI化の後に歪んでいったということも在りうる、そう、思いたい――めくるめく思考に流されたが、疲労が勝り、いつしかダイチは眠りに落ちていた。

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