アガスティア 4
目にも留まらぬ、というのはこのことだろう。マシロは自由になった手でブーツに仕込んであった小刀を取り出し、カイリの両手を繋ぐ枷の割れ目に突き刺した。そのまま立ち上がり振り上げた足をナイフの柄に叩き込む。力の加減と踏む位置を一歩間違えればカイリの手が切断されるかもしれない荒業を瞬き一つの間にやってのけ、カイリの枷が、かちゃん、と外れた。
カイリはそのままラップトップに飛びついて、本体から操作リングを引き出し両手の五本の指に嵌める。そして猛烈な勢いで何かを入力しだした。マシロは続けてダイチの枷を壊す。カイリが指を動かすのをやめると同時に、ひゅーん……と音がして部屋の明かりが全て消えた。カイリはカチリ、と発光筒を点けて口に咥え、操作リングを外して、ガードがおそいんだよ……バカにして……と小声で呟いた。
「何をしたんだ?」
「電源、落としてやりました。対応がお粗末なんですよ。向こうは指なんて使わないで抵抗できるはずなのに」
ダイチに向き直ると、カイリは肩を竦めた。向こうというのはNIのことだろうか、ダイチが質問するより早く、カイリは発光筒を左右に振って、部屋の中を確認しはじめた。ダイチも胸ポケットから発光筒を取り出して点ける。
「ダイチさん、ここ外せますか?」
天井を見上げていたカイリが一点を指差した。そこには換気用ダクトの網が見えた。ダイチは頷いて机の上に椅子を乗せた。
「何がなんだかわかんねえけど、やるっきゃねえ感じだな」
誰に言うともなく呟いて椅子に乗り、金網に両手の指をかけて思い切り引っ張った。何度目かで錆びたボルトが千切れて金網が外れ、排気管の中がむき出しになる。随分と古い時代に作られたもののようで、内側の金属にはすこし錆がついていた。
「急ぎましょう。復帰手順をめちゃめちゃにしてから落としたけど……何分もつか」
カイリはダイチを急かして、ふ、と動きを止める。
「あ、空調も止まったから……クローンが……」
息を飲むカイリの頭にぽん、とダイチは手を載せる。
「……とにかく今はここから逃げよう」
「はい」
カイリは悔しそうに唇をかむ。ダイチとて、アサトを諦めきれない。だが、リスポーンして生き続けることと、ドッペルゲンガーとなり次がないことで得た生の感覚が相容れないものであることに、とっくに気がついている。無理やりに誤魔化して飲み込んだ感情が頭の隅を掠めはじめていた。
――きっと、アサトはリスポーンを望んでいない
「ダイチさん?」
「あ、ああ」
カイリに呼ばれて我に返る。驚異的なジャンプ力で飛び上がり、片手で自分を引き上げて排気口の中に入るマシロとマシロに引き上げられるカイリをぼんやりと眺めてしまっていた。しっかりしろ、と自分に言い聞かせてダイチも排気口にもぐりこんだ。
排気口の中は狭く、体の大きなダイチはやっとのことで潜り込み、真っ暗な中を匍匐前進の格好で二人に続いた。やがて通気管は四つんばいでも動ける大きさの通気管にぶつかった。通路が少し太くなったとはいえ非常灯すらなく、か弱い発光筒の光だけが頼りだ。いつまでこうやって移動するのか、とうんざりしかけたとき管は突然立てるほどの広さになり、太く上に伸びる管へと繋がった。ここで管が終わっているということは、ここが最下層なのだろう、とダイチは予測した。
「行き止まりか」
ダイチは管を見上げた。管の途中に横に繋がっているらしい穴が無数に見えるが、人が入りこめそうな大きさのものまでは五メートルほどの高さがある。ダイチの肩にマシロを乗せて持ち上げてみるが届かないし、助走をつけられるような空間もない。
「すみません……別の部屋に降りられるかと思ったんですが」
「引き返すか?」
謝るカイリの頭をぽん、と撫でるとダイチは今這い出て来た穴を指差す。
「その前に少し休みましょう」
カイリは上を見上げて床に座り込んだ。マシロも隣に座り込む。ざらついた喉をごくりと鳴らしてダイチはまっすぐカイリを見落ろした。水が欲しい。それに、この状況の説明が欲しかった。
「なあ、どうなってるんだ? 知ってることを話してくれないか?」
「わかりました」
カイリはことり、と発光筒を置く。それを中心にカイリと向かい合うようにダイチは腰をおろした。
「まず、どこからかな……そう、大前提としてテセウスの外に人の生きる世界はありません。誰も住んでいないんです。テセウスのような施設がいくつかありますが……全てテセウスと同じ。完全に管理され閉じられた施設です」
膝を抱えてその上に頭を預けているマシロの白いまつげがそうっと閉じた。どうやら興味がないらしい。カイリはそれを見てくすりと笑うと先を続けた。
「ニ千六百年代、体を捨ててデータの世界で生きるものにも人権を与えるというNI人権法案が通りました。少しずつ、ある時から爆発的に人々は体を捨ててNIの世界に入っていきます。そしてとうとう、このままでは人類が……体を持った生物としての、という意味ですが……絶滅する可能性が出てきました。そこで政府は新たな法案を通します。NI化した人間は、そのDNA及びそれを利用して作ったクローンをヒトという生物存続のために国の管理下に預ける、というものです」
カイリの言葉はどこか違う世界の物語のようにダイチの耳には響いた。外に世界がない? じゃあ俺が居たあそこは何だ? NI人権法案? ニ千六百年といえば俺は何歳だった……あれ、今、何年だ? そこまで考えると、ギリっとした痛みがダイチの目の奥に走った。
「大丈夫ですか? 思い出そうとしないほうがいいです。その記憶は入っていないはずなんですけど……なんというかノイズのようにどこかに残っているみたいなんです。そうですね、映画の話だとでも思って聞いてください」
「……わかった。大丈夫だから続けて」
ダイチはこめかみを押さえて、はー、と深呼吸する。カイリは心配で引き攣った顔を安心したように少し緩めて頷く。
「NI化した人々は電脳世界のなかで、ほとんど現実のように生活していたらしいです。手足の感覚もちゃんとある。おなかも空くし眠くもなる。食べれば味がする。リスポーンなんてしなくても、老いもなく、怪我や病の心配もなく、歳も取らない。そこは楽園のはずでした。それなのに、彼らはしばらく経つと徐々にスリープ状態に入って活動をしなくなりました」
話し方もクセも、何もかもがサトでありながら、決してサトではないあのNIサト、そしてNIイチ……彼らが生きている世界にダイチは思いを馳せた。彼らから感じ取った微かな感情、あれは羨望ではなかっただろうか。
「二つの意味で人類絶滅のカウントダウンが始まったんです。肉体……つまり生物としての絶滅、そして魂ともいえるNIの不活動化。そこで政府は再び新たな法案を通しました。政府が管理していたクローンをNIが望む世界で生かし、その行動を観察することを許す、と」
ダイチが理解する時間を与えるようにカイリは黙り込む。つまり、さっきの俺はNI化した俺で、俺はあいつのクローンであいつの意思でテセウスに入れられてバトルゲームをするところを面白おかしく観察され続けていた、ということか? ダイチは驚きに目を見開いてカイリを見る。
「……想像の通りです。僕たちは本体の暇つぶしの為に、テセウスに入れられたクローンなんです」
「暇つぶし……」
呆然と呟くダイチを痛ましい表情でカイリは見つめている。
「ちなみに、ダイチさんがテセウスに入るのはニ度目ですよ」
「……は?」
「一度目はNI化してすぐです。六十歳を過ぎたくらいで死んでます。そのころは百体ルールがなかったようで、殺し合いも今ほど激しくはなかったようですね。クローンの供給も今ほど確立していなかったんでしょうし」
「いや、俺は……テセウス入りして四十年だ。というかテセウス自体が五十年しか……」
またこめかみに痛みが走ってダイチは顔をしかめる。
「記憶はいくらでも操作できます。NIは自分のクローンに、好きにそれまでの人生を書き込めますから。といっても、ファイター同士であんまり誤差があっても困るからその辺は微調整してあるみたいですけど」
何が面白いのかわからないがカイリはふふふ、と自嘲的に笑う。ダイチはテセウス入りする前の記憶を呼び覚ます。チップに入っているのではないから不明瞭だったが、ある事実に気がついた。サトがもう生きられないといった日、ロコにアルコール処理をしてもらった記憶……あのときのロコでは手の平からのアルコール処理は出来ないはずだ。だが、テセウスに入ったときのロコは古い型番だったはず……そもそも「二百年使える」が謳い文句のアンドロイドを購入したのだ。五十年やそこらで代替の部品がなくなるのはおかしいのではないか……
――俺の記憶は……作り物なのか?
ダイチは両手で顔を覆う。自分の過去、自分が選択し、実現したと思っている事柄は真実ではない? あのNIイチが作り出した偽りのものなのだろうか。舌先が痺れるような不安が全身に広がる。
「じゃあ俺は……本当はどこの誰なんだよ……」
「ダイチさんはあまり変えられていない気がしますけど……アサトさんと居て、つじつまが合わないことはなかったのでしょう?」
カイリに言われてダイチはほっと胸を撫で下ろす。同時に、自分は一年前からの存在だと割り切っているつもりで、それ以前の譲り受けた過去の記憶が事実であるかを不安に思うなど滑稽な話だと思った。そんなダイチとは対照的にカイリの笑顔が急に曇った。我慢しきれないように口を開く。
「僕には過去がないんです。一番初めの記憶がテセウスのリスポーン室で……」
ダイチはじっとカイリを見つめる。過去がない? それはカイリのNIがそう設定したということだろうか。カイリのNIは記憶を奪ったままこんな施設に自分のクローンを送り込んだのだろうか。
「……そうか。でもそれは前のクローンの記憶で、俺たちの本当の始まりは一年前からなんだから」
「そうですね」
自分に言い聞かせる為にも明るく言い放ったダイチにカイリは少し明るさを取り戻した声で答える。……ダイチはふ、とあることに気づく。
「……カイリは何でそれを知ってるんだ?」
「……それはちょっと長い話になります」
カイリはうつむいて自分の髪をくるくると弄んだ。不安になっているときのカイリの癖だ。ダイチは自分の事にいっぱいで、カイリの気持ちにまで気が回っていなかったことに気づく。無言のままそっと手を伸ばしてカイリの頭を撫でた。カイリの肩が荷物をおろしたように下がり、すーっと深く息を吸い込んだ。