メメント・モリ 3
「何故!」
シロの叫びに耳がきいんと鳴って、イチは肩をすくめた。シロの案内で鹿の残りを取りに森の中に戻ったのだが、仕留めたという鹿は忽然と消えていたのだ。血の痕はあるから、場所はここに間違いないのだろう。イチはぐるぐるとあたりを見回す。
「肉食獣がいるのかもなあ、鳥かもしれないし。でも骨までないのはおかし……」
「いい匂いがする!」
イチの話の腰を折って、シロはくんくんと鼻を鳴らしながら歩き出した。
「犬か……それより絶望的に寒いだろ。食い物より先に服を探そうぜ? 全部回収されちまう」
「そんなことより絶望的に腹が減った。匂いがわからなくなるから黙れ」
苦情を言うイチをじろりと睨みつけ、シロは鼻を突き出してすんすんと匂いを辿るように進む。戦闘でまるで役立たずだったのだから逆らえない。イチは両手で自分の二の腕を擦りながら、とぼとぼとシロのあとに付いていった。バトルスーツはグローブからブーツまで一つ繋ぎになっている。真冬に半そでのTシャツ、ズボンは履いているものの足元は靴下のみ。凍えて死んでしまいそうだ。シャツを着ただけの裸足のシロは見ているこっちのほうが寒い。イチはぶるっと震えて鼻を啜り、再び両手で体を擦った。その前でシロがぴたりと立ち止まる。
「間違いない。あっちだ!」
「はあ?」
イチには匂いなど何もわからない。シロは嗅覚まで人間を超えているのだろうか。
「待て!」
駆け出そうとするシロを制止する声が響いた。イチは驚いて声がした方向を振り返る。一瞬の間にシロは姿勢を低くして襲撃に備えていた。
「敵じゃないから、武器はおろして。危ないから……主に俺が」
再び声が響いた。
――この声
そんなわけがない、あいつがここに居るわけがない。イチは聞き覚えのある声に自分の頭の中に浮かんだ顔を必死に否定した。シロは斧を構えてジリ、と移動する。
「断る」
戸惑うイチにはお構いなしにキッパリと言うと、シロはいつでも飛び出せるような姿勢にぐっと体を倒した。
「ええー、だめ? 残念。すげえ上手に鹿肉が煮えたのに」
声は木の陰からからかうような調子で響く。この声、この言い方、イチの心臓は早鐘を打つ。シロの耳がぴくりと動いた。
「……本当か?」
警戒を解きかけているシロの前にひとりの男が現われた。その名を呼びかけて、イチは言葉を飲み込む。男の伸びた髪には多くの白髪が混じり、日に焼けた肌には深い皺が刻まれている。イチの知っている男に良く似ていながら、見たことのない風貌をしていた。男は声も出ないイチを見て少し口の端を上げると、ポケットからタバコを取り出して咥えた。シュボっとライターから火をつける。
「……サト?」
イチはとうとうその名前を口に出した。間違いなく、あれはサトのライターだ。そんな、なんで……イチはぎゅっと目を閉じて再び開く。こんなとき一緒に居て欲しい唯一無二の友。その願望が見知らぬ老人をサトに見えさせているのではないか? と思ったのだ。
「お、久しぶりだなあ、イチ」
男はイチの名を呼んだ。くちゃっと笑った顔も、声も、話し方もイチが感じる全てが間違いなくこの男はサトだと言っている。わけがわからず、イチは呆然とその姿を眺めた。
「つれねえな。俺ってば泣きそうなくらい感動してるんだけど」
サトは煙が目にしみたように顔を歪めて、ほとんど吸っていないタバコを投げ捨て靴で踏み消した。
「ま、そんなこと言ってる場合でもない。詳しくは後で話すからメモリーチップ外してよこして。それ入れてると場所がばれるから」
サトは自分の首の後ろをちょいちょい、と指差して手のひらを上にして差し出した。なるほど、という顔をしてシロはチップを外してサトの手に渡す。何故かすでに信用しているらしい。
「……イチも早く」
イチは我に返ってチップを外した。そしてサトの同情するような目で気が付いた。自分は間違いなくリスポーンの可能性を失ったのだ。たった数時間の記憶といってしまえばそれまでだけれど……イチは深く息を吐いてチップをサトに手渡した。
「ここを真っ直ぐ……大きなケヤキの木があるから先に行っててくれ。俺はこれを始末してから行く」
サトは獣のように気配を残さずに去った。今、自分は幻を見たのではないかとすら思ってイチは首の後ろに手をやる。メモリーチップは差し込まれていなかった。
――何がどうなって?
ぼんやり考えているイチに向かって、シロが先に行って手招きする。片手を上に向けてチョイ、と上げるそれは、かかってこい、にも見えた。
「早くしろ、イチ」
なんだかわからないが、どうせわからないことばかりなのだ。考えても仕方がない。
「……だな」
苔の光る森の道にイチも一歩を踏み出した。シロは食べる物があるとわかって跳ねる様に歩く。冬の静かな森の中で、真っ白な少女が白いシャツ一枚で踊るように歩く。まるで御伽噺の光景のようだった。本当にこれが青サイドの鬼なのだろうか。なんだか可愛らしいくらいだ、とイチが思った瞬間、シロは行く手を阻む太い枝を高速の斧で叩き切った。イチは思わず立ちすくむ。
「……シロ、屈んで避けろよ、ここを人が通ったとばれるだろ」
「なるほど、気をつける」
シロは素直に答えると、ひょいひょいと器用に枝を避けながら進んでいく。体の大きいイチは一つ一つの動作が大きくなる。次第に息が上がってきて、よろけてパキンと小枝を折った。シロがニヤニヤした顔で振り返った。
「気をつけろよ、ここを人が通ったとばれるだろ?」
こいつ、こんな性格なのか? イチは舌打ちを堪えて歩く。遠くからもその大きさが際立っていたケヤキは近づくと荘厳なほどの佇まいを見せて天空に伸びていた。
「おおお」
シロは口を開けてケヤキを見上げた。イチもつられて見上げる。幹には所々に木の板が打ちつけられていて、足がかりになっているようだ。足場を辿って目を凝らすと、びっしりと絡んだ常緑のツタの間にツリーハウスの出来損ないのようなものが見える。早速登ろうとするシロをイチは片手で押しとどめる。
「待て、俺が先に上る」
片腕ではいくらシロでも何かあったときに対応できないだろう。
「先に食う気か」
シロはぎっとイチを睨む。イチは呆れて一瞬ものが言えなくなる。
「……食わねえよ。なんでそんなに食い意地がはってるんだ? 上に何か居たら片手じゃ対応が出来ないだろ」
そうか、とシロはしぶしぶといった感じでイチに先を譲る。
「何故か食べないと動けない。特に怪我をしていると腹が減る」
不服そうにぶつぶつ漏らす言葉の内容に疑問を抱きながらも、イチは黙々と木を登った。やがてツリーハウスの床下についているらしい扉のようなものに行き当たった。片手でそれを持上げて中に入る。
「なんだこれ……あ、暖っか。来ていいぞ、登れるか?」
イチは下で待つシロに声をかけた。なんなく片手で登ってくるシロに手を伸ばして中に引っ張り上げる。立派とはお世辞にも言いがたい狭い小屋の中には、鍋やフライパンなどそれなりの家財道具が並んでいた。調味料も所狭しと並んでいる。壁や天井はどうやら、バトルスーツを剥ぎ合わせて作られているらしく、熱が逃げずにとても暖かだった。
小屋の真ん中には小型の調理器が置かれていて、乗せられた鍋の蓋の隙間から白い湯気が立っている。
バトルは二十四時間なのでファイターは皆、それなりの食料を持って入る。中には調理器を持ち込んで煮炊きして食べるものも居る。おそらく死体からそれらを集め……家のために身包みまで剥いだのだろう。ひどい話だと思ったが嫌悪感よりも暖かいことが嬉しい。
「処分してきたぞー」
カタン、と床下の扉が開いて、サトが顔を出した。どさ、どさ、とザックを五つも中に投げ入れてから自身も小屋の中に入ってきた。ゲホゲホと咳き込み、はあと長い息をつくと、腰を伸ばして叩いて、うう、と呻く。
「サトだよな?」
少し冷静になったイチは静かに質問した。サトは屈んでザックの中身を確認し始めていた手を止めてイチの目をじっと見た。
「おう。でも……そうだな、これからはアサトって呼んでもらおうかな。俺もダイチって呼ぶから。ここでは正式名で呼ぶという決まりにしよう。うん、そうしよう」
サトは物心がつく頃から親しんだ呼び名だ。イチは腑に落ちない顔でサトを見つめ返す。まあ、そのうちわかるから……とサト……アサトは困ったような顔で呟いた。
「……まあ、それならそれでいいけど、お前、いつからここに?」
「ダイチ! 話はあとでいいだろう、腹が減った」
シロ……マシロが、痺れを切らしたように口を挟む。早速、アサトの言うとおりに呼び名を変えているあたり、相当お腹がすいているのだろう。アサトは苦笑いしながらぐらぐらと煮立っている鍋の蓋を取る。いい匂いと暖かな湯気が部屋中に広がった。中身を椀に入れてスプーンと一緒に渡と、ふうふうと息を吹いて冷ますのもそこそこにマシロは掻き込むように食べ始めた。
「この子は? ……仲間?」
「赤目だ」
ダイチに椀にを渡し、自分の椀にも取り分け始めていたアサトの手が止まる。がつがつと食べているマシロをじっと見つめた。信じられないという表情だ。
「マシロだ。そう呼んでいい、アサト」
マシロは空になった椀をアサトに差し出した。
「マジか」
マシロの赤い目を見つめてアサトは呟く。
「マ、ジ、だ。お、か、わ、り」
マシロが焦れたように椀を上下させながらいうと、アサトは、あ、いやあ、そうか、うん、と差し出された椀に鍋の中身を取り分けてマシロに返した。何があっても飄々としているアサトの唖然としている顔を見るのは、こんな時でも愉快だ。ダイチは呆けているアサトの手を掴んで、減ってきた煮込みを掬い、自分の椀に移す。
「いろいろ聞きたいことも話すこともある。でも、こいつに全部食われる前に俺達も食おうぜ」
「ん、ああ」
ダイチも椀の中身を掻き込み始める。味付けして根菜とともに煮込んである鹿肉は驚くほど美味しくて、鍋はあっという間にからっぽになった。
「ああ、うまかった……」
「うん。うまかった」
満足げに言う二人を見て嬉しそう笑うと、ちょっと待ってろ、とアサトがどこかに消え、二人のサイズにぴったりの清潔な服を持って戻ってきた。お湯で体を拭いて新しい服に着替えると、ダイチはすっかり人心地が付いてごろりと横になった。蓄積された疲れがどっと体を包んでいる。
「今日はお祝いだな、取っておきだ」
アサトはにやりと笑って背中の後ろからワインのボトルを取り出す。眠りかけていたダイチは思わず跳ね起きた。ありがたい、心からそう思った。
「無理するなよ? アルコール処理してもらえねえからな。二日酔いは死ぬぞ」
ニタニタしながら、アサトは三つのカップに酒を注ぐ。
「ええとー、とりあえずまあ……生きて会えたことに乾杯?」
「乾杯!」
三つのグラスがこつ、と愛想のない音を立てる。静かで居心地の良い夜が更けていった。