直感は現実になる
最初にピンと来たのは、直樹の携帯電話からだった。
二週間ぶりのデートで、わたしは直樹と夕食をともにした。彼によると広告代理店の仕事があまりにも忙しかったそうだ。業務を途中で切り上げて急いで駆けつけたと、遅刻の言い訳をした。
予約した店は、グルメサイトに紹介されているフランス料理店だ。格安の携帯クーポンが使えて、きっとそれを利用するに違いない。つきあって一年を過ぎると、こういう店で間に合わされるのかと悲しくなった。
直樹は上着を椅子の背にかけ、手洗いに立った。
ほどなくメールの着信音がした。直樹の上着のポケットから聞こえたようだ。わたしは席を立ち、直樹の上着を探って携帯電話を取り出した。
メールの差出人は、如月沙耶と表示されていた。
きさらぎさや、と読むのだろうか。なんてお上品な名前なんだ。本名だろうか。直樹から一度も聞いた覚えのない名前だ。
――お仕事、お疲れさまです。偶然の巡り会わせって本当に不思議ですね。
「久美。勝手に見るなよ」
直樹が背後に立っていた。すぐに携帯電話を取り上げられた。
「割引クーポンがあるかと思って」
わたしは、そう嘘をついた。
「おれのおごりなんだ。会計は気にするな」
「きさらぎさや、さん」
直樹が携帯をポケットにしまいながら着席した。
「きさらぎさや、って読むんじゃないの?」
わたしは訊き返した。
「そうだよ。なんだか難しい漢字を書くんだ。クライアント側の担当者だよ」
「直樹がスルーするから、読み方を間違えたかと思った。見なくていいの?」
「いいよ。デート中だろ」
「取引上の急用かも。確認だけでもしておいたら」
「仕事の話はよそう。しばらくぶりのデートじゃないか」
「二週間ぶり。電話はつながらないし、メールしてもなかなか返ってこなかった」
わたしは批判じみた口調で言った。
「こんど大きな広告がとれたんだ。そのプレゼンをおれがまかされてさ」
「仕事の話はよそう」わたしはさえぎった。
「そうだな」直樹がメニューを取った。
――おかしい。わたしの脳内で直感が働きだした。
ウェイターが注文を聞きにきた。直樹がグラスワインとステーキを注文した。わたしは無言でメニューを眺め、適当に魚料理を選んだ。
赤ワインで乾杯し、ディナーが始まった。
「久美はいつも魚料理を頼むけど、よっぽど魚が好きなんだな」
「家では面倒くさくて、なかなか調理できないから」
わたしは気のない返事をした。
「デジカメ大手のデジリオって知ってるだろ。秋にデジタルビデオカメラの新製品を出すんだ。うちが宣伝依頼を受け、おれがそのプレゼンをまかされた」
「仕事の話はしないんでしょ」
「仕事の話じゃない。それでデジリオの宣伝部と話し合う機会が増えた。その担当者が如月沙耶なんだ。つまり、そういうわけだよ」
「その担当者からなんのメール?」
直樹がステーキを頬ばった。そうすれば、答えられないからだろう。なおも口を動かしながら、グラスを口に運んで空だと気づいたようだ。目のやり場がなくなり、しかたなくというふうに、わたしを見た。
「仕事の話はよそう」
直樹が繰り返した。
二週間ぶりのデートは最悪だった。わたしは如月沙耶の読み方を尋ねただけなのに、直樹は勝手にその女の説明をしだした。わたしの直感は、直樹の言動の答えをすでに出していた。
翌日、直樹から電話でデートの誘いがきた。
クライアントに対するプレゼンテーションの内容がおおよそまとまった。つぎの休日には身体が空きそうだから、遊びに行かないか。リニューアルオープンした水族館があるんだ。久美は魚が好きだって言ってただろ。そこに世界最大の魚と言われているジンベイザメがいるんだ――。
そんな電話だった。
魚が好き? 先日のディナーで魚料理を注文したからだろう。生きている魚はあまり好きじゃない。ジンベイザメをわたしに食わせるつもりだろうか。
約束の日、直樹と最寄り駅で待ち合わせた。
水族館は、ホテルの一階部分に広がるアミューズメント施設の一角にあった。何年ぶりかで来たが、リニューアル後は初めてで、だいぶ様変わりしていた。カラオケや映画館、ちょっとした遊園地もあった。
水族館の券売機の前に、たくさんの客が並んでいる。直樹は、チケットはあるからと、わたしを入り口にうながした。きょうは手回しがいいなと思い、あとにつづいた。夏休み中ということもあり、館内はすごい混雑だった。家族連れも多く、子供がやたら騒いでいる。
直樹に手を引かれ、水中トンネルをくぐった。アーチ型をしたガラス壁が、十メートルほど先まで延びている。ガラスの向こうは水中で、大小様々な魚が泳いでいる。こうしてぐるりを水槽でおおわれていると、海中を散歩している気分になる。頭上を巨大なエイが通り過ぎていく。水中トンネルは何度か来ているが、久しぶりのせいか、意外と面白かった。
トンネルを抜けると、狭い通路の向こうに巨大な水槽が広がった。その手前にジンベイザメの写真が掲げられ、簡単な説明がしてあった。
直樹がセカンドバッグからビデオカメラを取り出した。
「デジリオの新製品で、まだ市場に出まわっていないモデルなんだ」
「そんなの勝手に持ち出していいの」
「大丈夫だって。試してみて感想を聞かせてくれよ」
直樹にカメラを渡された。
「ジンベイザメを撮るの?」
「記念にね。ジンベイザメは世界一大きな魚類で、というとクジラは? って思うだろ。残念でした。クジラは哺乳類なんだ。体長はでかいやつで十五メートル以上になる。重さは十八トンもあるんだぜ。周囲にカツオが群がっていることが多く、ジンベイザメがいれば大漁間違いなし、というわけで、漁師たちからは甚兵衛さまって呼ばれて慕われているんだ」
直樹が、ネットでリサーチしたであろう、うんちくを語っていると、甚平さま、ご本人がガラス壁の近くまでやってきた。
たしかに大きい。濃紺と白の抱き枕みたいな魚で、とてもサメには見えなかった。顔全体が横に長い口になっていた。
直樹が両肩をつかみ、わたしは水槽に向かされた。しかたなくカメラを構える。画面のなかで甚兵衛が口を開いた。それは大きな口で、こっちが食べられるんじゃないかと思ったほどだ。
わたしはビデオカメラを回してジンベイザメを収めた。
イルカショーを見たあと、軽く食事をとろうとフードパークのあるフロアに向かった。そのとき直樹の携帯が鳴りはじめた。
直樹は携帯のディスプレイを見るなり、わたしにのぞきこまれるとでも思ったのか、背中を向けた。携帯を耳に押しつけ、小声で話しだす。
「バカ。なんで来てるんだよ」
直樹が声を荒げた。
わたしをちらりとうかがい、いっそう声をひそめる。なんだか困ったような顔つきだ。通話は一、二分で終わった。
「誰か、知り合いでも来ているの?」
「来てない。なんで?」
「なんで来てるんだよ、って言ってたから」
「違う。おふくろがさ、おれのスタジャンを勝手に着やがったんだ。野球場で応援してたら、立ち上がった拍子に背中が破けたって言うからさ――バカ、なんで着てるんだよって。本当に」
なんて無理な説明だろう、とわたしは呆れた。
直樹はマンションで一人暮らしをしている。母親が勝手に部屋に入り、スタジャンを持ち出して野球場に行くだろうか。
「部屋の鍵をお母さんに渡しているの」
わたしは訊いてみた。
「渡してはいないけど、合鍵を隠してある場所は知っているんだ」
「それって止めたほうがいいわ。鍵の隠し場所くらい、空き巣だったら、たいがい承知しているものよ」
「それは大丈夫だ。ぜったい見つからないところだから」
直樹が自信ありげに言った。
フードパークで食事をしているときにも着信があった。直樹は席を立ち、丸めた背中のかげで携帯を耳にあて、なにかしきりに頼み込んでいた。
直樹が席に戻った。
「クライアントだよ。プレゼンの日取りを早めて欲しいって言うから、来週、本社にうかがうって答えた。それにしたって休日だぜ」
「相手は如月沙耶さん?」
「違う」直樹の反応は速い。「別の担当者だ」
フードパークはオープンスペースの食堂だ。食事中、直樹は落ち着かず、しきりに周囲を気にしていた。会話もおざなりだった。店を出ると、どこも人だかりで、迷子になるといけないから、とわたしの手をつかんで急ぎだした。まるで誰かに追われているようだ。
水族館のある施設を出ると、また不審な着信があった。通話のあと、直樹はプレゼンの打ち合わせがどうのこうのと言い、そこで彼と別れた。新作だというデジカメは、わたしのバッグに入ったままだ。
デートはあわただしく終わった。打ち合わせの相手は、如月沙耶に違いないと確信した。それは女の直感だった。
直樹のプレゼンが明日に迫った日、わたしは彼のマンションにデジカメを返却しに行った。直樹はとくに返せと言わなかったが、プレゼンで必要になるかもしれない。直樹の住むマンションに着いたのは、午後七時過ぎだった。ふいをついて訪問し、びっくりさせようと考えた。
エントランスから男女が出て来た。
わたしはとっさに植え込みの陰に身をひそませた。
男のほうは直樹だ。もう一人は目つきの悪い女で、首をかしげ、流れた前髪の下から、細い目で直樹を見上げている。デジリオの如月沙耶かもしれない。
「さーやは昔と変わらないなあ」
「直くんこそ。明日のプレゼンを楽しみにしているから」
この女だ、とわたしは確信した。
二人は会話に夢中で、わたしに気づいた様子はない。腕をからめ、見つめあう表情は、広告代理店とクライアントの担当者どうしには見えなかった。
わたしはデジカメを取り出し、植え込みごしに構えた。
その画面のなかに、直樹のにやけた顔と如月沙耶のクールな笑顔をとらえ、カメラを回しはじめる。これで証拠は収めた。
二人は建物の裏手の駐車場に回った。車を使われたら尾行は無理だ。わたしはマンションに入り、直樹の部屋に向かった。ドアの郵便受けの裏側を探ると、思ったとおり、合鍵がセロテープで止めてあった。
それを使って直樹の部屋に侵入した。室内は散らかっていた。プレゼンの準備をしていたらしく、資料やメモなどがテーブルに置かれている。ノートパソコンに直樹のデジカメがつないであった。
わたしはまずクローゼットに向かった。えもんかけにかかったスタジャンを手に取る。背中にあるはずの破れ目は、魔法のように繕われていた。こんなことだろうと思った。スタジャンを乱暴に投げ込んだ。
明日、直樹はデジリオの本社でプレゼンをする。そこで如月沙耶とも会うに違いない。プレゼンのあと、二人はどこかで待ち合わせるだろう。直樹を徹底的に尾行し、自分の直感の正しさを証明してみせる。
わたしは、新作のデジカメをバッグから取りだした。
思わず頬がゆるむ。
* * *
おれ、久美と別れる決意をした。とてもじゃないけど付き合っていられない。あんなに恐ろしい女だとは思わなかった。
沙耶を疑っているのは薄々わかっていたんだ。久美はああいう性格だろ。隠していたのがいけなかったのかな。
沙耶はおれのもとカノなんだ。別れて三年になるけど、デジリオに転職しているとは知らなかった。担当者だと紹介されたときは驚いた。打ち合わせのあと、ふたりで話す機会があって、つきあっている人いる? と聞かれ、久美のことを話した。それから沙耶の様子は変わったようだ。
打ち合わせと称し、よく電話がかかってくるようになった。相手はデジリオ側の担当者だ、むげにはできないだろ。二人で会わないようにしていたけど、しだいに沙耶の態度は露骨になっていった。
いま思うと、「期限が近づいているけど使うあてはないから」と沙耶がくれた水族館のチケットは、あいつの策略だったんだ。期限内の休日はあのデートの日以外ないんだぜ。「久美さんと、どうぞ」なんて言うから、沙耶の復縁を迫るような素振りも、おれの勘違いだと思ったくらいだよ。
だからデート中に沙耶から電話がかかってきたとき、なにごとかと思った。近くにいるから久美を紹介して欲しい、なんて言うんだぜ。おれ、頼み込むようにして断わった。おれと沙耶との関係を久美は疑っているようだったから、二人を引き合わせるなんて、とてもできないって。施設のどこかで、ばったり出会うんじゃないかと、ハラハラしどおしだったよ。
沙耶はすぐまた電話してきた。これはきちんと話し合ったほうがいいと思った。久美とはそこで別れ、ホテルのラウンジに戻って沙耶と会った。
やり直すつもりはない、と穏やかに話したつもりなんだけど、あいつめそめそ泣きだしたんだ。クライアントの担当者だろ、ホテルのバーで酒を飲むような雰囲気になったんだよなあ。おれも、少しほろりとなった。
いや、沙耶とは寝ていない。ホテルにはいたけど、なにもなかった。ほんとだって。そのときは下心なんてなかったんだからさ。決定的な出来事があったのはプレゼンの日なんだ。
デジリオの広告をまかされたときは、正直、得意になったもんだよ。これが初回のプレゼンで、それによって制作費が決まる。何千万円もの金が動くんだぜ。しぜん力が入るってもんだ。制作部からサンプル映像をもらい、ノートパソコンに取り込んで、デジリオの本社に乗り込んだわけだ。
プレゼンが始まり、おれは檀上に立った。持参したパソコンを会議室のプロジェクターにつないだ。操作は後輩の武藤に頼んでおいた。
宣伝部長の反応は悪くなかったんだぜ。けっこう感触をつかんでいた。用意しておいた映像を使って説明を続けようと、武藤に合図をした。そのとたん、スクリーンいっぱいに、でっかいジンベイザメが口をぱっくり開けて向かってきた。おれ、思わず檀上でのけぞったよ。
武藤も慌てちゃってさ、映像を止めないで、つぎのを流すもんだから、こんどは、その場でひっくり返りそうになった。
映ってたのは、おれ。しかも女と腕からめあって歩いているところ。その相手というのが沙耶だ。いっしょに来ていた上司から「おまえ、なにプレゼンしてるんだ」って、あとで大目玉だよ。
犯人はわかっているんだ。久美に決まってる。沙耶と会った日、あいつが隠し撮りしたに違いない。さらにおれの部屋に侵入し、ノートパソコンに取り込んであった映像を差し替えやがった。隠してあった合鍵のテープがはがれていたから、きっとそれを使ったんだ。
パソコンのファイルを確認すればよかったんだけどさ、その日は帰るのが遅くなって、そのまま寝ちゃったんだ。沙耶とは寝ていない。その日は、二人で夕飯を食べただけだから。ほんとだって。
プレゼンが終わり、沙耶は上司から叱責されたって落ち込んでいた。おれもへこんでいたから、仕事のあと沙耶と飲みに行った。そのうち盛り上がってきちゃって、沙耶はおれのもとカノだろ、知らない仲じゃない、そのままラブホに直行した。そりゃあ寝たよ。あんな映像流されたら、どうにでもなれって気分になるだろ。それまで下心なんてなかった。ほんとだって。
それなのに久美のやつ、あんな嫌がらせをしやがって。あいつに義理立てするのがバカらしくなった。やってもいないのに疑われるなら、本当に浮気してやれって気持ちになった。
決定的な瞬間は、ラブホを出たあと訪れた。
久美が電柱の横に立っていたんだ。おれ、ぞっとしたよ。きっと尾行していたんじゃないかな。修羅場には、ならなかった。むしろそうなっていたほうが、すっきりしたって。久美のやつ、顔色ひとつ変えなかった。なんかしたり顔で、ひとりで大きくうなずいてんの。
ぶっきみー。
終




