落想1
落想
吹く風もその冷たさが増していく秋の終わり。
美咲はいつものように滝沢のギターの調べを心地よさそうに聞いていた。
「馨ちゃんのギターを聞いていると、本当に安心する」
美咲がベッドに寄りかかりながらポツリと呟いた。
滝沢のギターの音色が、名残惜しそうにゆっくりと部屋の中へと消えてゆく。
滝沢は自分のギターを幸せそうに聞いてくれる美咲の顔を見るのが堪らなく好きだった。
「そろそろ、予備校の時間ね」
美咲が残念そうに立ち上がった。
「なあ、美咲ちゃん。センターまでもう二ヶ月切ったんだ。そろそろ似顔絵の方はやめてもいいんじゃないか」
滝沢がベッドの上にギターを置いた。
「どうして?」
美咲が不思議そうに首を傾げた。
「どうしてって、普通なら今頃はもう追い込みの時期だろ」
「うん。頑張ってるよ」
美咲はバックの中に絵の道具を詰めている。
「嫌、頑張ってるのは分かるよ。でも、似顔絵の方止めたらもっと頑張れる訳だろ」
「いいの、私は自分の夢の為に大学へ行きたいだけだから。もし、今回が駄目でも私は何度でもチャレンジするわ」
外は既に陽が落ちて、木枯らしが吹き荒んでいた。
「しかしさ、その為にわざわざ回り道するような事しなくたっていいだろう」
「別に回り道だとは思わないわ。肝心なのはその本人がその無駄だと思える時間をどう過ごすかでしょう」
「そりゃあ、そうだけど……」
「夢を諦めないで、その夢のために時間を費やす事は、周りから見たら無駄と思えても本人にとってはとても貴重な時間なのよ」
自分より六つも年下なのだが、こういう話しになると何故か美咲の方が貫禄があった。
「ねえ、美咲ちゃん。君の夢って聞かせてもらってもいいかな」
「もちろん、絵描きになる事だけど、その前にG芸大のスミス先生にきちんと絵の指導を受けたいの」
「ロバート・スミスってG芸大の先生なのか」
「あれ、話してなかったっけ。でね、『天使の涙』をもう一度見せて貰って、私もいつかその『天使の涙』みたいな素晴らしい絵を描きたいの」
目を輝かせながら熱く語る美咲の表情を、滝沢は優しく見守った。
「その『天使の涙』っていつでも見れるわけじゃないの?」
「うん、三年前の学園祭の時に、特別展示されただけ。それ以来一般公開はしていないの」
「ふーん。よっぽど凄い絵なんだな」
「うん。馨ちゃんだって見たらきっと泣いちゃうよ」
「大丈夫だよ。俺の感性は人と少しズレてっから」
「確かに、そうね」
「普通、そこで駄目押ししないだろう」
美咲が無邪気に笑った。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ、気を付けてな」
美咲が慌ただしく部屋から出て行った。
「夢のために費やす時間か」
滝沢がベッドに置かれたギターに視線を移し
「俺の夢……か?」
滝沢の口から溜息が漏れていた。
「少し、またやってみるかな……」
滝沢が、ギターを弾き始めて数時間が経っていた。
さすがに夜の時間帯という事もあり、滝沢はギターに消音器を付けて弾いている。
金属の機械を弦に挟むタイプのもので、これでかなりの音を消す事が出来る優れものである。
夜間、近所の迷惑などを考えず思う残分弾きたいと、美咲が滝沢のギターを聞くようになってから買ったものである。
その時突然、滝沢の足下で携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「あっ!」
美咲の携帯電話だった。滝沢がそれを拾い上げてディスプレイを開くと『父』と表示されている。
やべえ!
滝沢はそれに出る事も出来ず、美咲の携帯電話を持って取り敢えずアパートを出た。
まったく、よく忘れ物をするよな──
そう思いながらも、滝沢にとっては美咲の所に行ける口実が出来てうれしかった。