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散花  作者: 夢涙月
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夢俘2

 「本当に今日はありがとうございました」

 車から美咲の荷物を運び終え、滝沢が車に戻りかけた時美咲がペコリと頭を下げた。

「私、絵を描くのに夢中になってしまって何時間も滝沢さんをほったらかしにしてしまいました。ごめんなさい」

「何回謝れば気が済むの。本当に気にしてないって、そんな事」

 滝沢が微笑えんだ。

 結局、帰りの車の中でも滝沢は自分の気持ちを美咲に伝える事が出来なかった。

 美咲が滝沢を見つめた。

「滝沢さん。私、上手く言えないんですけど、凄くうれしかったです」

 美咲が恥ずかしそうに俯いた。

「滝沢さんが、私が絵を描いている間、黙って何時間も見守ってくれた事。本当にうれしかったです」

 一瞬の沈黙があった。

 その瞬間、滝沢はその沈黙に耐え切れず美咲を抱きしめていた。

 穏やかな時間が滝沢と美咲を優しく包み込んでいる。

「約束守ってない……」

 美咲が滝沢の胸の中で、小さく呟いた。

「絶対に変な事しないって言ったのに……」

「ごめん」

 美咲の両手が滝沢の背中に回された。

「滝沢さんの心臓の音が聞こえる」

 美咲を抱きしめていた滝沢の手が一瞬緩んだ。

 しかし、滝沢の背中に回されている美咲の手は逆に力が込もった。

「このまま滝沢さんの音聞かせて」

 滝沢がまた力を込めた

「凄く早い」

「ああ」

「だけど、凄く力強い」

「この心臓の音が、俺の君に対する素直な思いだ」

 美咲が滝沢の胸の中で頷いた。

「好きだ」

 滝沢の口から自然とその言葉が出ていた。

 二人を照らす月明かりは風と共に流れ、薄い闇へと変わっていた。


「宮下、この間は悪かったな」

 滝沢が社員食堂で一人ラーメンを啜っている宮下に声を掛けた。

「おう、こっちこそかえって悪かったな。あんなに高い酒もらっちまって」

 宮下が麺を啜る。

「御陰で上手くいったよ」

 滝沢が唐揚げ定食のおぼんを宮下の前に置いた。

「良かったじゃないか。それでか、午前中に新規の契約二つも取っちまったのは」

「ああ、これで課長も見返せたよ」

 滝沢が唐揚げを頬張った。

「まったく、お前は極端だな。ついこの前まではこの世の終わりみたいな顔してたのに」

 ラーメンを食べ終えた宮下が席を立った。

「今度、紹介しろよ。彼女の友達とか」

 滝沢が食べかけの唐揚げを持ったまま右手を挙げた。


 美咲が初めて滝沢のアパートを訪れたのは、付き合い始めて一ヶ月が過ぎた頃だった。

 一ヶ月経っても、相変わらず滝沢と美咲はすれ違いが多く、中々一緒にいる機会が少なかった。月曜から金曜日までは仕事の滝沢。日中は、十時から三時までハンバーガーショップでバイトの美咲。夕方六時から八時半まで予備校へと行き、それが終わると夜中の十一時まで似顔絵描きに三咲小路へと向かう。滝沢が美咲と一緒に居られるのは、自分の仕事と美咲のバイトが休みな土曜日だけだった。

 午前中に映画を見た帰り、思い切って滝沢は自分のアパートへと美咲を誘ってみた。

「うん、行ってみたい」

 と、屈託のない笑顔を浮かべ美咲がはしゃいでいる。

 いつもの三咲小路を抜け、二人は滝沢のアパートへと着いた。

 この時、滝沢は言いようのない緊張感に包まれていた。

「私の所からそんなに遠くないんだね」

 アパートの階段を昇りながら美咲が呟いた。

「ここなら予備校も三咲小路も近いし、いっその事、こっちに引っ越しちゃおうかな」

 美咲の言葉を聞いた滝沢が、一瞬慌てて階段を踏み外しそうになる。

 そんな滝沢を見て美咲は無邪気に笑った。

 驚いて振り向いた滝沢を見て、「冗談よ」と返した。

 滝沢がポケットから鍵を出して、ドアを開ける。

「散らかってるけど」

 滝沢が部屋の電気を付けた。

 玄関の左側のすぐ脇に小さな流し台と冷蔵庫が置かれている。

 右側にトイレと浴室があった。

 正面のガラス戸を開けると、そこに八畳間があり、奥からベッドと縦長の衣装ケース。パソコン机。その横にカラーボックスが置かれている。カラーボックスの上にポータブルのDVDプレーヤーが乗っている。部屋の中央あたりに小さなガラスのテーブルと座椅子が一つ。そして、ベッドの頭の方の壁に美咲が描いた絵が額に入れられて飾られていた。

「御邪魔しまーす」

 美咲が品定めするように、部屋の中をキョロキョロと見回しながら入って来た。

「あっ!」

 美咲がその絵を見て小さく声を上げた。

「その座椅子に座って、今コーヒー入れるから」

 滝沢がコーヒーメーカーのスイッチを入れた。二、三分して部屋の中にコーヒーの香ばしい香りが広がった。

「あの絵」

「うん、額に入れて飾ってある」

「なんか、恥ずかしいんですけど」

「俺は恥ずかしくないけど」

「もう!」

「所で美咲ちゃん。砂糖とミルクは?」

「ミルクたっぷりでお願いしまーす」 

 落ちたばかりのコーヒーをカップと湯飲み茶碗に注いで、滝沢が両手でそれを持った。

「ごめん。カップが一つしかなくて」

 と滝沢がそれを美咲に差し出した。

「ミルクと砂糖はお好みでどーぞ」

 美咲が皿の上に乗っているミルクのふたを開いてコーヒーに入れた。

「美味しい」

 滝沢はパソコン机の椅子に座って、湯飲み茶碗でコーヒーを啜っている。

「滝沢さんって、ギター弾くんですね」

 美咲が衣装ケースに立て掛けてある黒いギターケースを見つめながら呟いた。

「あっ、これ。学生の頃少しだけバンドの真似事みたいなことやってて」

「へえー、聞いてみたいです」

「えっ?」

「聞きたいです」

 美咲が真剣な表情になった。

「まいったな、もう何年も弾いてないんだ」

 滝沢がギターケースに手を伸ばした。 

 ベッドの上でそれを開き、中からギターを取り出した。

 椅子の上に座り直して右手で弦を弾く。

 ヘッドの糸巻きを調節しながらズレている音をチューニングしてゆく。

「こんなもんか」

 滝沢が弾き始めた。

 メロディーに滝沢が声を乗せ始めた。

 ~うう~う~う~う~うっうっう~

 滝沢のハスキーな声が部屋の中に響いた。

 そして滝沢が調子よく唄い始めた時、ギッビョロンと、突然弦が切れた。

「あれ?」

 美咲が笑っていた。

「切れちゃった」

 滝沢が苦笑いを浮かべ頭を掻いた。


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