好流2
滝沢は久しぶりに握ったハンドルを緊張しながら右に回した。
助手席には美咲が座ってぼんやりと外を眺めている。
昨夜、ようやくデートの誘いを切り出した時、美咲は笑顔のまま
「前から行きたかった所があるんですけど、連れて行ってもらえますか?」
と答えた。
「どこに?」
滝沢が尋ねた。
「G芸大なんですけど」
滝沢は一瞬吹き出しそうになったが懸命に堪えた。
「そっか。下見だ」
「いえ。あそこの学内に小さな池があって、その池の袂に天使のブロンズ像があるんです」
「天使のブロンズ像?」
「そのブロンズ像をどうしても描いてみたいんです」
ついに堪え切れず滝沢は笑い出してしまった。
自分はこのデートを通じて美咲にすべての気持ちを告白するつもりだったのだが、どうやら美咲自身はそこまで深いものとして捉えていないようだった。
しかし、それでも滝沢はいいと思った。
ともかく初めの一歩は踏み出したのである。
デートさえすれば、自分の気持ちを伝えるチャンスはきっと訪れる。そんな淡い期待をしていたのであった。
「わかった。どこで待ち合わせればいいかな?」
「良いんですか?」
「大丈夫、大丈夫。美咲ちゃんの行きたい所だったらどこにだって連れて行ってあげるよ」
って、ちょっと下心見え見えか――
「ありがとうございます。じゃあ、明日九時に私のアパートまで迎えに来てもらえます」
え? 何、どういう事。あっさりアパートとか教えてくれちゃうの?
「イーゼルとか、キャンバスとか、結構かさばる物が多いんです」
そういう事か――
滝沢が心の中で大きく溜息を吐いた。
その後の滝沢の行動は早かった。
美咲と別れてすぐに同僚の宮下に電話を掛けて、拝み倒すように車を借りたのだった。
そして、今滝沢は助手席に美咲を乗せて、G芸大へと向かっているのであった。
美咲のアパートを出たのが十分前。
国道に出た滝沢は、目の前に見えたコンビニの駐車場へと車を乗り入れた。
「何か飲み物でも買ってくるわ。美咲ちゃん何がいい?」
「私、ウーロン茶でいいです」
「OK。他に食べたい物とかない?」
美咲が笑いながら首を振った。
店内に入った滝沢が、五分程して膨れ上がったレジ袋を持って出て来た。
「はい、ウーロン茶」
滝沢が美咲にペットボトルを渡した。
「そんなにいっぱい何を買ってきたんですか?」
「おやつ」
滝沢が美咲にレジ袋を手渡し、シートベルトを締めた。
「うわっ」
美咲がレジ袋を覗き込んで思わず声を上げた。
「だってさ、G芸大までまだ一時間以上かかるんだぜ。おやつは絶対あった方がいいって」
「遠足みたい」
美咲が笑った。
「先生、滝沢君規定の五百円は超えちゃってまーす」
そう言うと滝沢が再び車を走らせ始めた。
車を走り出してまもなく、美咲が口を開いた。
「何か食べます?」
「美咲ちゃんの食べたい物でいいよ」
「ここで問題です。さて、私はこのレジ袋の中から何を選ぶでしょうか?」
「ぽっきー」
「えっ、どうしてわかったんですか?」
「神の啓示があった」
一瞬の沈黙があった。
「もしかして、滝沢さんて変な宗教とかしてます?」
「何を隠そう、俺はこう見えて健全な無宗教主義だ」
美咲が笑いながらぽっきーの箱を開いた。
「はい。滝沢さん」
美咲がぽっきーを口の中に入れてくれた。
今まで食べたぽっきーの中で、そのぽっきーは史上最強の美味さであった。
「ところでさ、その天使のブロンズ像だっけ? どうしてそんなに描きたいの?」
「私、三年前にG芸大の学園祭に行ったんです」
滝沢が静かに相槌を打った。
「そこで、ロバート・スミスという人が描いた『天使の涙』という絵を見たんです」
「天使の涙か、なんかロマンティックな題名だね」
「素晴らしい絵でした。見てるだけで涙が出ました」
「へえー」
滝沢がちょっと意外そうな声を漏らした。
「あっ、わかった。その『天使の涙』がそのブロンズ像を描いたものなんだ」
「いいえ、『天使の涙』はもうかなり昔に描かれたものらしいんですけど、そのブロンズ像はつい最近建てられたものらしいんです」
「じゃあ、関係ないのか」
「いいえ、そのブロンズ像もロバート・スミス氏がデザインしています」
「なるほど、『天使の涙』を見て感動したから同じ人がデザインしたそのブロンズ像を描いてみたい訳だ」
美咲が頷いた。
滝沢がウインカーを上げてハンドルを切った。
「もう少しで着くよ」
滝沢がカーナビを見つめながら呟いた。
小高い丘の上にG芸大が見えてきた。