漂決
漂決
案内されたのは、あの煉瓦造りの美術館の一室であった。
スミスが立ち止まった部屋の前には特別展示室と書かれてあった。
「ここは?」
「貴方が見たかった『天使の涙』は、ここに展示してあります」
「見せていただけるのですか?」
「どうぞ。ゆっくりと見て下さい」
そう言ってスミスが木の扉を開いた。
滝沢が導かれる様に中へと入って行った。
入って正面に左右に開く出窓があった。
部屋全体の照明は必要最小限度に抑えられている。
部屋の中央には、木の椅子が右向きにポツンと置かれている。
その椅子が向いている方から蛍光灯の明かりが洩れている。
滝沢がその椅子の所まで来て、ゆっくりと右を向いた。
「ああ……」
蛍光灯の明かりに照らされて、壁に掛けられている小さな額が浮かび上がっている。
横五十センチ、縦六十センチ程の純白の小さな額であった。
そして、その額の中に一人の天使が深い悲しみの表情を浮かべていた。
「これが……」
滝沢が言葉を失った。
涙が止めどもなく溢れた。
その絵の前では、言葉など必要なかった。
そこに描かれているのは深い悲しみであり、優しさであり、そして、希望だった。
キャンパス中央に幼い天使が跪いている。
そっと両手で触れようとしている所に折れた紫の花があり、その脇に小さな花の蕾が描かれていた。哀しげにその花を見つめる天使の瞳から一滴の涙が落ちている。
幼い天使が、その儚い花の命の終わりを嘆き、そっと手を指しだている仕草が、淡い色遣いと共に繊細なタッチで描かれていた。
「美咲……」
滝沢の口から擦れた声が漏れた。
頬を伝う涙は次から次へと溢れてくる。
「君の言ったとおり、すばらしい絵だったよ」
滝沢が深い溜息を漏らした。
それから一時間滝沢は、黙ってその絵を見続けた。
穏やかな沈黙が優しい時間の温もりを得て、ただそこにある。
たった一枚の絵を中心に、それは今はいない美咲と滝沢の心の会話のようだった。
滝沢がようやくその絵から視線をそらしたのは、それからまた一時間程経ってからの事だった。
気が付いたら、いつのまに部屋に入って来たのか、スミスが壁にもたれたまま静かに滝沢を見つめていた。
「ありがとうございます。ミスタースミス」
椅子から立ち上がった滝沢がスミスに深々と頭を下げた。
「満足していただけたようですね」
「本当にすばらしい絵ですね」
「この絵は、私の娘と同じようなものなのです」
スミスが微笑んだ。
微笑むというその単純な仕草だけで、充分に人を引き付ける笑みだった。
「娘さん?」
「もう、十五年になります」
一瞬、滝沢は言葉の意味が理解できなかった。
「娘が亡くなったのは、三歳の時でした」
再び、死という現実を突き付けられた滝沢の表情が強ばった。
「交通事故で、ある日突然でした」
滝沢の脳裏に美咲の笑顔が蘇った。
「今朝まで元気だったのに、病院であった娘はもう二度と起き上がる事はなかった」
同じだ──
と、滝沢は思った。この人は自分とまったく同じ苦しみを味わったのだ。
「私は、何年もその現実を受け入れられずに苦しみました」
「どうやって?」
滝沢が、身を乗り出して尋ねた。
「どうやって、その苦しみから抜け出せたのですか?」
スミスがじっと滝沢の顔を覗き込んだ。
「私は、まだその苦しみから抜け出せてはいません」
スミスが優しく微笑んだ。
「しかし、ミスタースミス。抜け出せていないのなら、どうしてこんな素晴らしい絵が描けるのですか?」
「私が、この絵を描いたのは娘を忘れない為です」
「忘れない為?」
「娘が生きていた。そう言う証を残したかったのです」
「生きていた証?」
「この絵を描きながら、私は娘の思いを、生きていた時に娘が味わった感情を考え続けました」
滝沢は、黙ってスミスの言葉に耳を傾けていた。
「でも、どんなに考えても娘の気持ちがわからない……」
スミスの青い瞳から涙が溢れ落ちた。
その落ちた涙を見て、滝沢は深い衝撃を味わった。
「悔しかったです。私は一体、娘の何を見ていたんだろうと……」
スミスの涙は止まらなかった。
「その時でした。娘が言った言葉が頭に浮かんだんです」
「娘さんは何とおっしゃったのですか?」
滝沢が尋ねた。
「パパの笑った顔。大好きだよと、娘は言ってくれました」
滝沢が瞼を閉じた。
「その言葉を言った時の娘の笑顔は、本当に天使のようでした」
スミスが大きく息を吸った。
「私が笑っていれば、娘も笑ってくれる。そんな簡単な事にようやく気付いたのです」
スミスが泣きながら微笑んだ。
滝沢が息を呑んだ。
この人は、大切な人の死から逃げ出さなかった。
この人は大切な人の死を、その想いで包み込んでしまったのだ。
娘への愛という果てしなく大きく、そして限りなく深い物で――
滝沢は、今ようやく理解出来た。
自分はただ美咲の死という現実を受け入れられず、逃げているだけだったのだ。
「この絵が出来上がるまで、一年掛かりました」
「一年も……?」
「一年間、娘の言葉を思い出しながら、娘の笑顔に見守られこの絵は出来たのです」
滝沢がスミスを見つめた。
「ミスター滝沢。貴方が美咲さんを失った哀しみは、さぞ、大きい事でしょう」
滝沢が信じられないと言った表情を浮かべた。
「どうして、美咲の事を?」
スミスが突然出窓の方に向かって歩き出した。
そして、出窓に置いてあった一冊の厚い本のようなものを持ってきた。
「どうぞ」
スミスがそれを差し出した。
「これは?」
滝沢がそれを手にとってしみじみと見つめた。ワインレッドの皮のような表紙であった。
「美咲さんの日記帳です」
驚いた滝沢が危うくそれを落としかけた。
「五日前に美咲さんのパパが、それを持ってここに見えました」
「美咲のお父さんが、どうして?」
「貴方に渡してほしいと、美咲さんのパパに頼まれました」
滝沢の日記帳を持つ手が微かに震えていた。
「私が、貴方と美咲さんの事を知っていたのは、美咲さんのパパから話を聞いたからです」
「読んで良いのでしょうか?」
滝沢がスミスを見つめながら尋ねた。
「美咲パパも、心苦しかったがそれを読んだそうです。そして、貴方の事を知ったと言ってました」
滝沢がワインレッドの表紙を開いた。
「美咲パパの話では、その日記帳には二つの事柄しか書かれてないそうです」
一番最初のページには三年前の日付が書かれており、G芸大の学園祭で見た『天使の涙』の事が書かれていた。
「前半は私の事について。後半からは、すべて滝沢の事しか書かれていません」
滝沢がしおりのはさんであるページを開いた。
八月二十九日 火曜日
今日凄く優しそうなお客さんと会いました。
その人の似顔絵を描きながら、その人の優しい目を見ていたら、
ちょっとだけドキドキしてしまいました。
八月三十日 水曜日
昨日のあの人が、また来たので本当にビックリしました。
また、似顔絵を描いたけど、何でだろう?
そこから先は毎日、滝沢の事が書かれていた。
滝沢が初めて名前を聞いた事や、デートに誘った事。『天使の夢』のブロンズ像を描きに行った事。その車中での様子。そして、滝沢が美咲を抱きしめた夜の事が、美咲の感情のままに書かれていた。
滝沢の視線がそのページに釘付けになった。
十月二十五日 土曜日
私は貴方のギターの音色が大好きです。
貴方の音色には、貴方の優しさが滲み出ています。
聞いているだけで、心が落ち着き、温かくなる音色。
知っていますか?
貴方がギターを弾いている顔。
無邪気な子供みたいに、純粋な目で弦を弾き、それこそ天使のような微笑みを浮かべ弾いているのですよ。
そんな貴方の満足そうな顔を、私は見ているのが本当に好きなのです。
多分、貴方は気付いていないと思うけど、
貴方が私をの事を好きと思う気持ちより、私が貴方を好きと思う気持ちの方が
はるかに強いと思います。
「美…咲……」
滝沢がその想いを噛み締めるように目を閉じた。
「私は、死んでしまった人の思いや夢は、その関わった人々に受け継がれると信じています」
滝沢が椅子から静かに立ち上がった。
「ありがとうございました」
滝沢が深々とスミスに頭を下げた。
その瞳に、涙はもうなかった。
滝沢がスミスを見つめてゆっくりと、そして力強く微笑んだ。
「OK! 滝沢」
スミスが右手の親指を立てた。
滝沢も無言のまま、それに答え親指を立てた。
部屋を出た滝沢がゆっくりと歩き出した。
どうして、思い出せなかったんだ?
構内から外に出た。
目を瞑り、顔を上げた。
美咲の幸せそう表情が浮かんだ。
『馨ちゃんのギターを聞いていると、本当に安心する』
何度も滝沢は、美咲のその言葉を心の中で噛み締めていた。