第6章 お帰り、コーリャ
コーリャがサンクトペテルブルクへ戻ってきたのは、
しばらくぶりのことだった。
◆
結婚したからといって、
翌日から何もかも元通りになるわけではない。
特に貴族同士の結婚となれば、
挨拶しなければならない親戚がいる。
訪ねなければならない家がある。
領地にも顔を出す。
妻の親族とも付き合わなければならない。
コーリャとヴァリアも、
しばらくサンクトペテルブルクを離れて、
そういうことを一通り済ませてきた。
コーリャ「……疲れた」
ヴァリア「何よ。楽しかったでしょう?」
コーリャ「楽しかったですよ」
ヴァリア「だったらいいじゃない」
コーリャ「でも、ヴァリアの親戚、多すぎません?」
ヴァリア「あなたの家だって似たようなものでしょう」
コーリャ「僕は自分の親戚なら、誰が誰だか分かりますから」
ヴァリア「私の親戚も覚えなさい」
コーリャ「努力します」
ヴァリア「努力じゃなくて覚えるの」
どうやら、
新婚生活は順調らしい。
少なくとも、
少し前までの二人のように、
「男がドレスを着ること」そのものを巡って大喧嘩することはなくなった。
それどころか――。
帰京した翌日。
二人のもとへ、
宮廷から招待状が届いた。
夫婦限定の特別な舞踏会。
しかも、
男女逆転。
コーリャ「帰ってきた翌日ですよ?」
ヴァリア「ちょうど間に合ったじゃない」
コーリャ「間に合わなくてよかったんですよ!」
ヴァリア「私は楽しかったわ」
コーリャ「でしょうね!」
ヴァリア「何よ」
コーリャ「今回はヴァリアが男装する側だったじゃないですか」
ヴァリア「あなたも前よりずっと上手だったでしょう?」
コーリャ「そういう問題じゃないんです!」
どうやら、
以前行われた逆転結婚式を、
エリザヴェータ女帝は相当に気に入ってしまったらしい。
今度は、
「夫婦だけでやったら面白いんじゃない?」
ということになった。
普段はメタモルフォーゼ舞踏会へ顔を出さない妻たちまで、
夫婦単位で招待された。
ヴァリアも、
当然その一人だった。
ヴァリア「でも本当に、前より綺麗だったわよ」
コーリャ「だから何でそこを褒めるんです」
ヴァリア「夫でしょう?」
コーリャ「だからですよ」
ヴァリア「自分の夫がみっともないよりいいじゃない」
コーリャ「それはそうですけど……」
ヴァリアは少し考えた。
ヴァリア「次は、もう少し髪を――」
コーリャ「次の話をしないでください」
ヴァリア「でも、また呼ばれるかもしれないでしょう?」
コーリャは、
何も答えなかった。
否定できなかったからである。
◆
そして翌日。
コーリャは久しぶりに、
宮廷の離れにある、
例の部屋へ向かった。
扉を開ける。
コーリャ「ただいま戻り――」
止まった。
人が多い。
明らかに、
以前より多い。
鏡の前には、
知らない男が一人。
黄色い練習用ドレスを着て、
妙に真剣な顔をしている。
別の男は椅子に座り、
順番を待っている。
壁際では、
さらに別の男が、
黒い練習用ドレスを見ながら、
何かを確認している。
アレクサンドル「もっと歩幅を小さく」
男「これ以上?」
アレクサンドル「これ以上」
ミハイル「裾を蹴らないでください」
男「蹴ってない!」
ミハイル「蹴ってます!」
パーシャ「はい、止まってください。裾を直します」
ナターシャ「次の人、まだ着替えてないの?」
男「今からです!」
その横を、
見覚えのないメイドが、
小物を抱えて素早く横切った。
コーリャ「…………」
誰も、
まだ気づかない。
コーリャ「…………あの」
ミハイル「そこ、もう一回――」
コーリャ「僕、帰ってきたんですけど」
ミハイル「ん?」
振り返る。
ミハイル「あ」
アレクサンドル「お」
パーシャ「まあ」
コーリャ「“まあ”じゃないですよ!」
ミハイル「いつ戻った?」
コーリャ「一昨日!」
アレクサンドル「昨日は?」
コーリャ「舞踏会ですよ!」
ミハイル「昨日、舞踏会なんてあったか?」
コーリャ「夫婦限定のです!」
ミハイル「ああ」
アレクサンドル「なるほど」
コーリャ「何で二人とも知らないんです?」
ミハイル「未婚だから」
アレクサンドル「俺もまだ結婚してない」
コーリャ「……そうだった」
結婚したという実感を、
妙なところで味わった。
そして、
改めて室内を見る。
コーリャ「……人、多くないですか?」
ミハイル「増えた」
コーリャ「“増えた”で済ませる人数じゃないでしょう!」
アレクサンドル「一人来た」
パーシャ「その次にもう一人来て」
ミハイル「そいつが別のやつに話して」
ナターシャ「気づいたらこうなったのよ」
コーリャ「僕がいない間に何があったんですか?」
ミハイル「いろいろ」
コーリャ「その“いろいろ”を聞いてるんですよ!」
以前は、
仲間内が集まるだけの場所だった。
今は違う。
鏡の前には順番待ちがいる。
椅子も増えた。
化粧道具も増えている。
小物を入れる箱まで増えていた。
誰かが歩けば、
誰かが注意する。
誰かがレヴェランスをすれば、
別の誰かが首をかしげる。
コーリャ「……本当にクラブみたいになってる」
ミハイル「名前だけは前からクラブだったけどな」
コーリャ「名前だけだったじゃないですか」
アレクサンドル「今も正式名称じゃないぞ」
コーリャ「そこは変わってないんですね」
◆
その時、
ナターシャがコーリャを見る。
ナターシャ「あら。そういえば結婚してから初めて会うわね」
コーリャ「そうですね」
ナターシャ「どう?」
コーリャ「何がです?」
ナターシャ「結婚生活」
コーリャ「普通ですよ」
ミハイル「普通って何だよ」
コーリャ「仲良くやってます!」
アレクサンドル「即答だな」
コーリャ「そこは即答しますよ!」
ナターシャ「昨日の夫婦会は?」
コーリャ「ヴァリアは大喜びでした」
ナターシャ「でしょうね」
コーリャ「もう完全に楽しんでますよ、あの人」
ミハイル「第3巻の頃とずいぶん変わったな」
コーリャ「本当に」
コーリャはため息をついた。
コーリャ「僕の方が『今日は普通の舞踏会がいい』って言ってるくらいですからね」
ナターシャ「慣れって怖いわね」
ミハイル「お前が言うな」
◆
少しして。
ナターシャが、
何でもないことのように言った。
ナターシャ「そういえば」
ミハイル「何?」
ナターシャ「陛下、昨日の夫婦会がずいぶん面白かったみたい」
コーリャ「嫌な予感がします」
ナターシャ「今度は親子でも面白そうね、って」
部屋が静かになった。
ミハイル「…………親子?」
アレクサンドル「親子」
コーリャ「親子」
練習していた男まで振り返った。
ナターシャ「何よ」
ミハイル「ちょっと待って」
ナターシャ「何?」
ミハイル「親子って、父親と息子?」
ナターシャ「そういう組み合わせもあるでしょうね」
ミハイル「母親と娘だけでも親子だよな?」
ナターシャ「もちろん」
ミハイル「じゃあ、それだけでいいんじゃない?」
ナターシャ「どうして?」
アレクサンドル「お前、父上いるもんな」
ミハイル「お前もいるだろ!」
アレクサンドル「いる」
コーリャ「僕もいます」
三人が、
何となく黙った。
ナターシャ「まだ決まったわけじゃないわよ」
ミハイル「“まだ”って言った」
ナターシャ「言ったわね」
ミハイル「怖いな……」
コーリャ「でも本当にやるなら、親子で一緒に練習するんですかね」
アレクサンドル「……」
ミハイル「……」
コーリャ「何で二人ともそんな顔するんです?」
ミハイル「父上にレヴェランス教えるの?」
アレクサンドル「俺も嫌だな」
ナターシャ「面白そうじゃない」
ミハイル「面白くない」
アレクサンドル「面白くない」
コーリャ「僕も嫌です」
三人の声が、
ほぼ同時に重なった。
◆
夕方。
練習はようやく終わった。
男たちは、
それぞれ着替えへ向かう。
使ったドレス。
化粧道具。
髪飾り。
小物。
散らかった部屋を、
メイドたちが片付け始めた。
パーシャ「そっちの箱、お願い」
ドーニャ「もう終わってる」
パーシャ「早っ」
アレクサンドル付きのメイド、
ドーニャだった。
シャキシャキとしていて、
仕事が早い。
口調も少しきりっとしている。
だが、
パーシャとは家の垣根を越えて、
かなり気安い仲だった。
最近では、
アレクサンドルがここへ来ることが増えたせいで、
ドーニャもこの部屋へ出入りすることが多くなっている。
ダーリャもいる。
もう一人、
ヴォルスキー家のメイドもいる。
ダーリャ「パーシャ、そちらの布も」
パーシャ「はい」
ドーニャ「これ、どこ?」
もう一人のメイド「そっちの棚です」
ドーニャ「了解」
片付けが進む。
やがてダーリャともう一人のメイドが、
別室へ洗い物を持っていった。
部屋には、
パーシャとドーニャだけが残った。
◆
ドーニャ「……それにしても」
パーシャ「何?」
ドーニャ「最近、男の人の顔ばっかり触ってる気がする」
パーシャ「それは私も」
ドーニャ「変な仕事よねえ」
パーシャ「今さら?」
ドーニャ「今さらだけど」
二人で笑う。
ドーニャは、
話しながらも手を止めない。
化粧箱の中身を、
きっちり元の位置へ戻していく。
パーシャ「本当に早いね」
ドーニャ「仕事なんだから早い方がいいでしょう」
パーシャ「うちのダーリャさんみたい」
ドーニャ「褒め言葉として受け取っとく」
少しして、
ドーニャが白粉の容器を手にした。
ドーニャ「でもさ」
パーシャ「うん?」
ドーニャ「たまに変なこと言う人いるでしょう」
パーシャ「何を?」
ドーニャ「男の人は普段化粧しないから、女の化粧をすると急に綺麗になるんだ、って」
パーシャ「ああ」
ドーニャ「違うわよね」
パーシャ「違うねえ」
ドーニャ「宮廷に出る男の人だって白粉くらい使うでしょう」
パーシャ「頬に色を入れることもあるし」
ドーニャ「髪も鬘も整える」
パーシャ「香りもつける」
ドーニャ「そうそう」
この時代、
上流の男性にとって、
化粧そのものが珍しいわけではない。
宮廷へ出るなら、
顔色を整える。
髪を整える。
香りをまとう。
それは、
男でも女でも行われる身だしなみだった。
パーシャ「でも」
ドーニャ「うん」
パーシャ「男の人を綺麗にするのと、女の人に見えるように仕上げるのは全然違うんだよね」
ドーニャ「それ」
パーシャ「眉の見え方も違うし」
ドーニャ「頬紅の位置も違う」
パーシャ「唇も」
ドーニャ「鬘との釣り合いもあるし」
パーシャ「ドレスまで含めて全部合わせないと駄目」
ドーニャ「本人たちは、その辺あんまり分かってないけど」
パーシャ「分かってないねえ」
二人は、
また笑った。
ドーニャ「アレクサンドル様なんて最初の頃、『いつもの化粧と何が違うんだ』みたいな顔してたもの」
パーシャ「ミハイル様も似たようなものだったよ」
ドーニャ「でしょうね」
パーシャ「今は黙って座ってるけど」
ドーニャ「慣れって怖いわ」
パーシャ「本当にね」
しばらく、
二人で片付ける。
そしてドーニャが、
何でもないように言った。
ドーニャ「まあ、うちのアレクサンドル様は元の顔がいいから楽なんだけど」
パーシャ「ミハイル様だっていいよ」
ドーニャ「張り合う?」
パーシャ「張り合ってない」
ドーニャ「じゃあ、どっちが綺麗?」
パーシャ「ミハイル様」
ドーニャ「即答!」
パーシャ「当たり前でしょ」
ドーニャ「私はアレクサンドル様」
パーシャ「じゃあ引き分け」
ドーニャ「何その決め方」
二人で笑った。
◆
そこへ、
扉が開いた。
アレクサンドル「何笑ってるんだ?」
ドーニャ「何でもありません」
アレクサンドル「絶対何かあるだろ」
ドーニャ「ありません」
ミハイルも顔を出す。
ミハイル「二人して怪しいな」
パーシャ「怪しくないです」
ドーニャ「男の人は細かいこと気にしすぎです」
アレクサンドル「お前に言われたくない」
ドーニャ「ほら、そういうところ」
アレクサンドル「何だよ」
パーシャは、
笑いながら化粧箱を閉じた。
◆
帰る前。
コーリャは、
久しぶりに戻ってきた部屋をもう一度見回した。
以前より、
少し狭く感じる。
部屋そのものは、
何も変わっていない。
人が増えたのだ。
道具も増えた。
声も増えた。
知らない顔も増えた。
コーリャ「何か」
ミハイル「何?」
コーリャ「大きくなりましたね、ここ」
ミハイル「部屋は同じだぞ」
コーリャ「そうじゃなくて」
アレクサンドル「分かってる」
コーリャ「僕がいない間に勝手に進まないでくださいよ」
ミハイル「じゃあ次から休むな」
コーリャ「僕だって好きで休んでたわけじゃないですよ」
ナターシャ「新婚だったものね」
コーリャ「それはそうですけど」
また笑いが起きた。
その時。
扉が、
控えめに叩かれた。
ミハイル「はい?」
扉を開く。
知らない男が立っている。
少し緊張した顔。
そして、
おそるおそる口を開いた。
男「あの……」
男「こちらが、カーテシー・クラブでしょうか?」
全員が、
ほんの一瞬だけ顔を見合わせた。
ミハイル「……一応」
また、
一人来た。
以前なら、
誰も訪ねてこなかった扉だった。
今は、
少しずつ、
誰かが来る。
コーリャは、
それを見て、
ほんの少し笑った。
どうやら自分が戻ってきた場所は、
もう、
以前とまったく同じ場所ではない。
それでも――。
ここはやっぱり、
カーテシー・クラブだった。




