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第五話:自己愛という名の不誠実、そして最後の証

 その乾いた日々に、一陣の風のように男が現れた。名はレオン。彼は、ユリウスやアベルのような権勢とも、アルフォードのような財力とも無縁の、しがない魔道具技師だった。にもかかわらず、彼は騎士たちの硬質な敬語とは違う、あまりにも素朴で、この世界に蔓延する偽善とは無縁の言葉で、エルシーの私的な空間に入り込んできた。


「姫さん、まさかとは思うが、本気で求婚者を選ぶ気はないんだろう?」


 レオンの声に、エルシーは顔を上げた。その顔には、驚きと、ほんのわずかな安堵が浮かんでいた。レオンの言葉は、この世界で誰も口にしなかった真実を、あまりにも簡単に言い当てていた。


「レオン。その通りよ。この試練は、私がこの世界を拒絶するための方便。婚姻する気など、毛頭ないわ」


「それなら、俺も参加させてもらう」


「何を言っているの!」


 エルシーは、思わず身を乗り出した。


「あなた、私の課題がどんなものか知っているの? 私は相手にできないことを要求しているのよ!ユリウス様もアベル様も、皆失敗した。あなたが相手だからと言って、私は手加減しない」


 しかし、レオンは一歩も引かなかった。


「お前を危険な戦いに一人で置いていくなんて、俺にはできない。お前の苦しみを、共に背負う権利もないというのか?」


 その揺るがぬ決意を見て、エルシーは悟った。生半可な拒絶では、この男は止められない。彼女は絶望的な表情で、ついに自らの真実を語った。転移者であること、元の世界に残した彼への未練、そして、必ず帰還する方法を探していること。


 レオンは、黙ってすべてを聞き終えると、エルシーを真っ直ぐに見つめた。彼の瞳は深く、しかし澄んでいた。


「そうか。お前は、帰るのか」


 彼は静かに、しかし強く言った。


「それがお前の真実であり、お前の望みならば、俺はそれを否定しない。だが、俺は諦めない。お前が帰る、その時まで、この世界でお前を一人にはしない。お前の苦しみを、俺に分けてくれ」



 エルシーの完璧な拒絶の論理が、彼の素朴で誠実な言葉によって、初めて脆く揺らいだ。愛欲でも、名誉でもない。彼の瞳に宿るのは、ただエルシーの苦しみを取り除きたいという、友愛にも似た、純粋な決意のように見えた。


 エルシーは、冷たい理性の壁の内側で、困惑と苛立ちを覚えた。彼の誠実さが、彼女の完璧な拒絶の論理を崩しかねない。それだけは避けなければならない。


「分かったわ。そこまで言うなら、受けてもらう」


 彼女は冷たく言い放った。


 彼女がレオンに課したものは、最も非情な無理難題だった。それは、彼が最も時間をかけている、元の世界への帰還を可能にするかもしれない、理論上の魔術の存在証明を求めること。証明には、彼の魔道具技師としての地位と、全財産、そして今後研究に携わる全ての未来を賭けねばならないものだった。


 レオンは、その試練に馬鹿正直に取り組んだ。ユリウスのように偽りの舞台を仕組まず、アベルのように論理で狂気を制御しようとせず、アルフォードのように財産を隠そうともしなかった。彼はただ、エルシーの出した課題に、真正面から、ひたむきに向き合った。しかし、その課題は、あまりに高度すぎた。元の世界へ帰る術など、この世界の魔術の範疇を遥かに超えていたのだ。


 数週間の努力の末、彼は失敗し、魔道具技師としての地位と名声をすべて失った。魔術界から追放された彼には、もはやエルシーに会う資格も、この世界で生きるためのまともな手段も残されていなかった。


 地位も富も失った彼の謁見が、特別に許された。みすぼらしい衣服に身を包んだレオンは、玉座の間で、静かに立つエルシーの前に膝をついた。


 エルシーは、勝利を確信し、冷たい笑みを浮かべた。


(これで四人全員が去った。私を愛そうとする者は、もうこの世界には誰もいない。私は、彼のいる場所へ、やっと帰れる)


「レオン。残念だったわね。だから言ったのに」


 彼女の計画は完璧だった


 レオンはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、敗者の絶望も、未練も、何の色も浮かんでいない。ただ、全てをやり遂げた者だけが持つ、静謐な満足が宿っていた。


「……最後に、申し上げます」


 レオンの言葉は、静かに、そして鋭く玉座の間に響いた。


「あなたは、変態です」


 エルシーは、はっと息を飲んだ。心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃が走る。


(変態。あの言葉は、ユリウス、アベル、アルフォードの傲慢さを断罪するために、私が投げつけた最も冷酷な烙印だ。それを、この世界で最も誠実であろうとした男から、今、私自身が突きつけられた?)


「あなたの現世での『純愛』は、あなたをこの世界でのリスクから守る、安全な言い訳です」


 レオンは、一切の感情を排した、しかし鋭い声で続けた。


「あなたはこの世界を『嘘』と断罪しながら、元の世界への未練という『過去の真実』に閉じこもることで、この世界で誰かを愛し、傷つく――という『現在のリスク』から、自己を防衛した。過去の幻想に依存する、自己愛的な拒絶の変態です」


 その言葉は、エルシーの完璧な冷徹さを、一瞬で粉砕した。彼女は、初めて、自らの意思とは関係なく、強く目を見開いた。


 謁見を終え、数日後。エルシーは自室の寝台で、虚ろな目をして天井を見つめていた。レオンの言葉が、脳裏で反響し続けている。


「自己愛……利己的な……」


 その時、部屋の扉がノックされた。エルシーが扉を開けると、そこにはクラウスが、小さな木箱を抱えて立っていた。


「レオン殿からのお届け物です。姫様へ、と」


「レオンから?」


 エルシーは、思わず声を漏らした。その声は、震えるほど意外な響きを含んでいた。


 彼女は、震える手で小包を受け取った。重い箱を開けると、中には、彼女が探していた元の世界へ帰るための魔道具と、一通の手紙が静かに収められていた。


 それは、レオンが地位も名声も、そして魔道具技師としての全てを賭けて証明しようとし、「失敗した」はずの理論の結晶だった。彼が、全てを失う瞬間に、彼女の幸福だけを純粋な動機として完成させた、無償の愛の証明。


 手紙には、いつもの彼らしい、飾り気のない文字で記されていた。


『姫さんへ。この道具を使えば、明日、元の世界へ帰れる。使用方法は、全て記した。お前の夢を邪魔するものは、もうこの世界にはいない』


 震える手で手紙を読み進めるエルシーの呼吸が、段々と荒くなる。元の世界へ帰る魔道具。レオンは、すべてを失ったはずなのに、本当に……?


 手紙の最後の一文が、決定的な真実を、容赦なく突きつけた。


『この魔道具は、使用者の「生命エネルギー」を触媒とする。だが、そのエネルギーは、全て俺が供給済みだ』


『俺が証明の課題に取り組みながら、裏で帰還方法を探し、触媒の準備も終えておいた。俺の地位も財産も、この魔道具の触媒を生成するための欺瞞ぎまんだった。だから、お前はただ帰るだけでいい。……幸せにな』


『これは、俺が姫さんに贈る、最後の、そして最高の『欺瞞ぎまん』だ。この世界で一人孤独に耐えるお前の姿を見たくなかった。だから、この嘘だけは、最後まで貫かせてもらう』


 エルシーの目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。絶叫することもできず、その場に膝から崩れ落ちる。彼の失った名声や地位は、彼が命を懸けて成し遂げた、最後の、そして最高の愛の証を隠すための、完璧な欺瞞ぎまんだったのだ。


 愛のために全てを捨てたのは、彼だった。そして、愛を「安全な言い訳」としたのは、自分自身だった。


「……私が、変態だった……」


 エルシーは、初めて声を上げて泣いた。彼の犠牲の重さが、彼女の「過去への未練」という名の自己愛を、完全に打ち砕いた。


 翌朝。東の空が白み始める頃、エルシーは、レオンが残した帰還のための魔道具を手に、きらびやかなバルコニーに立っていた。魔道具は、レオンの生命エネルギーを吸収したせいか、淡い光を放ち、優しく脈打っている。これを手にすれば、数秒で元の世界へ帰れるだろう。


 彼女は、その光を虚ろな目で見つめた後、迷いなく夜の闇に吸い込まれた星空に向けて、静かに投げ捨てた。魔道具は、夜空の彼方へと消えていく。彼女の心は、もはや元の世界の彼のものではない。


 彼の愛を、自分の過去の愛の言い訳にするわけにはいかない。それは、レオンの命を侮辱することだった。


 エルシーは、ロケットに入っていた古ぼけた天体図の切れ端を取り出し、暖炉の灰の中に埋めた。そして、冷たい月光を浴びながら、背筋を伸ばし、玉座へ向かって歩き出した。


 王国の最有力者は全て去った。愛に値段をつけ、愛を分析し、愛を飾りにした男たちの不誠実を徹底的に断罪し、最終的に最も不誠実だった自己愛を克服した、真の支配者として。


 エルシー・アスター。彼女は、愛のために自己を犠牲にした男の「未来」を背負うことを決意した。彼女の冷徹な紫の瞳は、もう遠い世界を見つめることはない。彼女が見つめるのは、レオンが命と引き換えに守ろうとした、この異世界の未来だけだ。


「私は、ここに残る」


 その決意は、氷のように冷たく、ダイヤモンドのように硬質だった。彼女は、変態(自己愛)を克服した、この世界の女王となる。

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