第四話:金銭という名の恐怖、アルフォード
控室の巨大な姿見に映る自分の姿に、アルフォードは満足げに息をついた。黒曜石を織り込んだ豪奢な上着、胸元で輝くのはこぶし大のダイヤモンド。指先で軽く触れると、その冷たさと硬さが、絶対的な自信となって彼に流れ込んでくるようだった。
「完璧だ」
小さく呟き、彼はポケットに手を入れた。指先に触れたのは、絹の内張りとはあまりに不釣り合いな、ざらりとした感触。古びた一枚の銅貨。彼はそれを取り出し、指で弾いた。ちぃん、と軽い、頼りない音がする。
妹が死んだ日、薬代にもならなかった、無力な銅貨。あの日の絶望が蘇る。だが、今の彼には、その記憶すら快感だった。この銅貨の軽さと、ダイヤモンドの重さ。その圧倒的な断絶こそが、アルフォードが血反吐を吐きながら築き上げてきた世界の全てだったからだ。彼にとって、富は「愛」を買うための道具ではなく、あの日の「無力」から逃れるための絶対的な防具であった。
「アルフォード様、お時間です。エルシー様がお待ちかねです」
扉の外から聞こえる部下の声に、彼は銅貨を強く握りしめ、ポケットに戻した。そうだ、エルシー。彼女こそが、この王国の最後のピース。金では決して手に入らない、唯一無二の輝き。彼女を手に入れた時、彼の勝利は、彼の人生は、完全に満たされるのだ。
扉を開けると、眩い光と人々のざわめきが彼を迎えた。彼が主催した、彼自身のための祝宴。その中央に、彼女はいた。エルシー・アスター。大勢の人間がいるはずなのに、彼女の周りだけ、音が消えているかのように静かだった。まるで、厚いガラスの向こう側にいるかのようだ。アルフォードは、練習通り、優雅な足取りで彼女の元へ歩み寄った。心臓が、嫌な音を立てている。
「エルシー嬢。今宵のあなたは、月さえも嫉妬するほどにお美しい」
彼は跪き、彼女の手を取ろうとした。だが、エルシーは僅かに身を引いて、それを許さない。そして、アルフォードの瞳を真っ直ぐに見つめて、鈴を転がすような、しかし刃物のように冷たい声で言った。
「アルフォード様。あなたにとって、お金こそが全てなのでしょうね」
それは、問いかけではなかった。確定された事実の通告だった。アルフォードの喉が、ひゅっと鳴る。
「では、あなたが最も価値を置く『お金』の概念を、わたくしへの愛のためだけに無価値にする方法を考案し、実行してくださいませ」
その言葉が耳に届いた瞬間、世界から色が消えた。シャンデリアの輝きも、貴族たちの笑い声も、ワインの芳醇な香りも、全てが遠のいていく。
彼の耳には、自分の血液が逆流するような、ごぼごぼという音だけが響いていた。心臓を、氷の手に鷲掴みにされたような衝撃。指先が震え、彼は無意識にポケットの中の、あの古びた銅貨を握りしめていた。無価値に? 金を? それは、死ね、ということか。いや、違う。妹が死んだ、あの無力な日に帰れ、ということか。彼が最も恐れる「無力」への逆戻りを意味していた。
目の前で、エルシーがかすかに微笑んだように見えた。彼女の唇が、再び動く。だが、アルフォードには、もう何も聞こえていなかった。
自室の床で、アルフォードは高級な絨毯に突っ伏していた。周囲には、彼自身が叩き割った陶磁器の破片や、無残に折れた椅子の脚が散乱している。空になった蒸留酒の瓶が、虚しく転がっていた。エルシーの言葉が、彼のプライドを、彼の世界を、粉々に打ち砕いた。金を、無価値に。それは、彼が貧民街の泥の中から這い上がり、血反吐を吐きながら築き上げてきた、この人生の全てを否定する言葉だった。
数日が過ぎた。アルフォードは亡霊のように仕事に没頭しようとしたが、契約書の文字は意味をなさず、部下の報告も右から左へ抜けていく。
「……くだらん」
彼は全てを放り出し、夜の街へと繰り出した。向かう先は、金さえ払えばどんな夢でも見せてくれる、最高級の娼館『エデン』。エルシーを忘れるには、もっと強烈な、もっと即物的な快楽が必要だった。
「リリアを呼べ。一番高い酒もだ」
個室で待っていると、甘い香りと共に、馴染みの女、リリアがしなやかな足取りで入ってきた。彼女はアルフォードの荒んだ様子を一瞥すると、何も言わず、ただ静かに隣に座って酒を注いだ。その沈黙が、アルフォードには心地よかった。彼は、琥珀色の液体が満たされたグラスを、一息に呷った。
「なぁ、リリア」
不意に、彼は声に出していた。
「『愛』と、『俺の全財産』。お前なら、どっちが欲しい?」
我ながら、なんと馬鹿げた問いだろうか。彼は自嘲の笑みを浮かべた。リリアは、きょとんと目を丸くした後、くすくすと喉を鳴らして笑った。そして、悪戯っぽく彼の胸に指を這わせながら、こう言った。
「もう、意地悪なこと聞かないで。そんなの決まってるじゃない」
リリアは、悪戯っぽく彼の胸に指を這わせた。
「アルフォード様、あなたの『全財産』をもらって、あなたから『愛される』のが一番に決まってるでしょ? どっちか一つなんて、欲張りな私には選べないわ」
その言葉は、何の気なしに投げられた小石のように、アルフォードの心の水面に落ち、静かな波紋を広げた。どっちか一つじゃない……? 彼はその夜、リリアを抱くこともなく、ただ黙って酒を飲み続け、夜明け前に館を後にした。
書斎に戻った彼は、眠ることもできず、分厚い資産リストをめくっていた。商船団、鉱山、不動産……その一つ一つが、彼の血と汗の結晶だ。これを、手放す? その時、リリアのあっけらかんとした声が、脳裏に蘇った。
――あなたの『全財産』をもらって、あなたから『愛される』のが一番よ――
アルフォードの動きが、止まった。彼は、資産リストの「所有者:アルフォード・グレイ」という文字を、指でなぞった。そして、雷に打たれたかのように、顔を上げた。
「そうだ……」
声が、震えていた。
「俺の財産を……『彼女』のものに、すればいい……」
アルフォードは、その解決策に歓喜に満ちた、歪んだ勝利の笑みを浮かべた。
(富の『無価値化』? 違う。富を『彼女の愛の証』へと昇華させるのだ! 全財産を彼女に譲渡する。そうすれば、文字通り「愛のために全てを差し出した」ことになる。そして、彼女が俺と結婚すれば、財産の運用は引き続き俺が行える。形式上の無価値化と、実質的な支配の維持。完璧な欺瞞だ!)
彼は、自らの知恵に恍惚として酔いしれた。ユリウスのような見え透いた演技でも、アベルのような危険な理論でもない。これは、この世で最も冷酷な論理、すなわち『経済』の裏をかく、最も巧妙な解決策だ。
彼はすぐに動き出した。信頼できる弁護士と会計士を呼び集め、秘密裏に全財産の譲渡手続きを進めさせた。彼が最も愛する『富』を、愛する姫へ贈るという、彼の人生で最も大きく、最も危険な取引だった。彼の魂は、この「支配の継続」という欺瞞的な熱情に完全に囚われていた。
(富そのものは消えない。ただ、所有者が変わるだけ。俺の手元からは無くなるが、それはエルシーに捧げられる。俺は金を失うが、彼女は富を得る。そして俺は、その富を持つ彼女を愛する)
「これなら……両方、手に入るじゃないか! 金を無価値にするのではなく、所有者を変えることで『愛を買う』。これこそ、俺が最も得意とする欺瞞だ!」
絶望の暗闇の果てに、ようやく見つけ出した、歪で、しかし彼らしい光。娼婦の強欲な戯言が、彼の天才的な発想と結びつき、完璧な「ごまかし」の策として結晶した瞬間だった。彼は歓喜に打ち震え、夜が明けるのも待たず、腹心の部下であるマルコを呼びつけた。
「マルコ! とんでもないことを思いついたぞ!」
アルフォードは、興奮を隠さずに計画をまくし立てた。共に貧民街から成り上がり、彼の右腕として帝国を支えてきたマルコなら、この妙案を絶賛するに違いない、と。だが、全てを聞き終えたマルコの顔は、青ざめていた。
「……正気ですか、アルフォード」
低い、押し殺したような声だった。
「あんた、あの日のことを忘れたのか! 金がなくて、あんたの妹さんが死んだ日を! 俺たちが血反吐を吐いて築き上げたこの帝国を、会ったばかりの女一人の、それも戯言のために捨てるってのか!」
「違う! 捨てるんじゃない、捧げるんだ! これで全てが――」
「目を覚ませ!」
マルコの怒声が、部屋に響き渡った。彼はアルフォードの胸ぐらを掴み、その顔を至近距離で睨みつけた。
「あんたは、あの女に狂ってるだけだ! 俺は認めん! この計画だけは、絶対に認めんぞ!」
兄弟同然だった男の、裏切り者を見るかのような瞳。アルフォードの心にあった熱狂は、急速に冷えていった。そして、その代わりに、目的のためには邪魔なものを排除する、冷徹な貿易商の顔が、ゆっくりと現れた。
「マルコ」
アルフォードの声は、氷のように冷たかった。
「お前は、俺の右腕だ。俺の帝国を共に築き上げてきた、唯一の男だ。だからこそ、お前には理解してほしい」
彼は、机の引き出しから、一枚の古びた銅貨を取り出した。妹の形見。
「この銅貨一枚のせいで、俺は全てを失った。あの日の無力感、絶望……二度と味わいたくない。エルシーは、俺が二度とあの無力な自分に戻らないための、最後の砦だ」
アルフォードは、銅貨をマルコの掌に押し付けた。
「これは、俺の戦いだ。お前は、俺の戦いを支えるのが役目だ。それができないなら……今すぐ、ここから去れ」
マルコの顔が、苦痛に歪んだ。彼は銅貨を握りしめ、アルフォードを睨みつけた。その瞳には、怒り、悲しみ、そして諦めが混じり合っていた。
「……わかったよ、アルフォ」
マルコの声は、震えていた。
「あんたの戦いだ。俺は……あんたの戦いを、最後まで見届ける」
彼は銅貨をポケットにしまい込むと、深々と頭を下げ、書斎を後にした。その背中は、どこか寂しげだった。
マルコとの決着をつけたアルフォードは、休む間もなく調印式の準備に取り掛かった。だが、彼の計画は、そう簡単には進まなかった。
「アルフォード様、王宮からお達しが。調印式は延期せよ、と」
部下の報告に、アルフォードは舌打ちした。彼の台頭を快く思わない貴族たちが、エルシーとの結婚を阻止しようと、王に圧力をかけたのだ。
「延期? 馬鹿な。そんなことをすれば、計画が狂う」
アルフォードは、すぐさま王宮に乗り込んだ。彼の前に立ちはだかったのは、宰相を筆頭とする保守派の貴族たちだった。
「成り上がりが、王家に連なるエルシー様を射止めようなどとは不敬だ。身の程を知れ」
彼らはアルフォードを嘲笑し、彼の事業に関する悪い噂を流し始めた。だが、アルフォードは怯まなかった。彼は、彼らが最も恐れる「金」と「情報」を武器に、反撃を開始した。宰相の隠し財産、貴族たちの不正蓄財、そして彼らの醜聞。アルフォードは、それらを徹底的に調べ上げ、王に密告した。数日後、宰相は失脚し、保守派の貴族たちは謹慎処分となった。
「調印式は、予定通り執り行う」
王からの勅命が下った時、アルフォードは冷徹な笑みを浮かべた。邪魔者は、全て排除した。
そして、運命の調印式当日。王城の広間は、王国中の貴族や名士で埋め尽くされていた。シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射し、会場全体が眩いばかりに輝いている。祭壇の中央には、彼の全ての資産――鉱山、商船団、各国の不動産の権利書――が山と積まれている。純白のドレスをまとったエルシーが、彼の隣に立っていた。その美しさは、まるで絵画のようだ。アルフォードは、勝利を確信していた。これで、全てが終わる。彼は、高らかに宣言した。
「我が全財産を、愛するエルシー姫に捧げる! これは、富への執着を捨て、愛のために全てを無価値にする、私の誠実な証明である!」
そして、契約書に羽根ペンを走らせようとした、まさにその瞬間。
「大変です、アルフォード様! 主力商船団『ゴールデン・グレイ号』が、深海魔獣の襲撃により全損しました!」
一人の部下が、血相を変えて会場に転がり込んできた。その声は、会場の喧騒を切り裂き、アルフォードの耳に、嫌な予感と共に突き刺さった。
その言葉が、何を意味するのか。アルフォードの思考が、一瞬、完全に停止した。彼の富の源泉。彼のビジネスの心臓部。それが、海の藻屑と消えた。鉱山も不動産も、そのほとんどが商船団の利益を担保にした借り入れで維持されていた。つまり、彼の資産は、今この瞬間、文字通り無に帰した。
いや、違う。
それまでアルフォードを称賛し、嫉妬の目で見ていた貴族の一人が、まるで世界の真理を発見したかのように、甲高い声で叫んだ。
「なんと! アルフォード卿が、まさに今、ご自身の全財産を姫に譲渡なさる瞬間に、その財産が全て無価値になったというわけか!」
「おいおい、じゃあその契約書に書かれているのは、莫大な『負債』だけじゃないのか?」
その一言が、魔法を解いた。会場のざわめきが、一瞬にして、くすくすという嘲笑に変わっていく。
「愛する女に負債を押し付けるとは、とんだ詐欺師だ」
「さすがは貧民街の成り上がり。やることが汚い」
「エルシー様がお可哀想に」
全ての音が、ぐにゃりと歪んで聞こえる。アルフォードは、契約書に視線を落とした。彼が「愛の形」とまで言った、この羊皮紙の束が、今や、彼を地獄に突き落とすための鎖にしか見えなかった。
「ま、待ってくれ……」
声が、かすれた。
「これは、事故だ! 不可抗力だ……!」
必死の叫びは、嘲笑の波にかき消された。
彼が最も恐れていた「無力な人間」に逆戻りし、さらに「愛する者を不幸のどん底に突き落とす存在」にまで成り下がってしまった。彼が金を稼いできた目的と、全く正反対の結末。彼は「愛を買う」ための欺瞞を企てた結果、本当に「無価値な(マイナスの)存在」として断罪されることになった。
彼は、助けを求めるように、隣に立つエルシーを見た。彼女は、ただ、静かに彼を見つめていた。その瞳には、侮蔑も、同情も、何の色も浮かんでいない。まるで、壊れた人形でも見るかのように、ただ、静かに。
やがて彼女は、全てを失い、その場に崩れ落ちるアルフォードに、ゆっくりと歩み寄った。そして、会場の誰にも聞こえない声で、静かに囁いた。
「あなたは、愛を『富』という不誠実な防具で武装した。全てを投げ出して無力になるほどの純粋な熱情が、あなたにはなかった。そのくせ、あなたは、愛を支配するための最高傑作の取引として成立させるという、冷酷で異常な情熱を注いだ。その病的な富への執着こそが、あなたの術式が唯一許容できなかった、計算外の『富の無価値化』という現実を「不純物」として即座に具現化させたのです」
その言葉は、アルフォードの耳に、冷たい氷の棘のように突き刺さった。彼は、かすかに口を開いた。
「ち、ちが……俺は……」
「だからこそ」
エルシーは、全てを失い、その場に崩れ落ちるアルフォードの言葉を遮り見据えた。
「申し上げます。あなたは変態です。愛を支配するための道具と見なした、拝金主義の変態です」
エルシーの宣告が、アルフォードの耳を貫いた。彼は、完全に意識を失い、大理石の床に力なく倒れ伏した。彼のポケットに、古びた一枚の銅貨が、カランと虚しく転がり落ちた。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや下の☆☆☆☆☆にて評価いただけると嬉しいです。




