第三話:計算された狂気の魔術師、アベル
宮廷魔術師長アベルは、玉座の間でエルシーの前に立つ際も、一冊の分厚い理論書を小脇に抱えていた。彼の知性への偏愛は、あらゆる状況で揺るがない。彼は、ユリウスの失脚を「非論理的な感情に溺れた愚者の当然の結末」と冷徹に分析していた。
「アベル魔術師長。貴方は、この王国の魔術を支配し、論理と真理の探求にその全てを捧げてきた」
エルシーは、アベルが抱える理論書に視線を送った。アベルは、それを知識の盾のように感じ、無意識に強く抱きしめた。
「恐縮です、姫君。ですが、私にとって、愛もまた解明すべき『真理の欠片』に過ぎません。その証明も、合理的な手続きで行われるべきでしょう」
アベルの口調は、感情の起伏とは無縁な、冷たく澄んだ論理そのものだった。
「結構です」
エルシーは微かに微笑んだ。その笑みは、アベルの冷徹な理性に対する、挑戦状のようだった。
「では、貴方に課す試練は、貴方が最も大切にする『理性』の放棄です」
アベルの細い眉が、わずかに吊り上がった。それは、彼が動揺している、唯一の身体的サインだった。
「……どういう意味でしょう、姫君?」
「貴方は、愛が狂気であることを否定する。だから、貴方には、『理性を完全に捨てた、純粋な愛の狂気を表現する無意味な儀式』を、大勢の前で完遂してもらいます」
エルシーは続けた。彼女の声は静かだが、その内容は、アベルの存在そのものへの否定だった。
「その儀式は、論理的な意味を持ってはなりません。数式で説明されてもなりません。純粋な感情の奔流に、貴方自身が飲み込まれること。それが、私への『誠実な愛』の証明となります」
彼女は声のトーンをわずかに落とし、冷徹に警告を付け加えた。
「貴方の儀式に、貴方の『知性による制御』や、『論理による支配の計算』がわずかでも混ざった場合、それは必ず露見し、貴方の全てを失わせることになるでしょう」
アベルは、理論書を抱きしめる腕に力を込めた。エルシーの言葉は、彼の人生の基盤である「論理」を、根底から破壊しようとしている。しかし、同時に、彼の冷徹な探究心が、その言葉に、一つの興味深い定理を見出した。
(純粋な狂気を、理性なしで証明せよ、か。不可能だ。しかし……非論理的な現象を、論理で完全に制御し、狂気そのものを『再現』することはできるのではないか?)
彼の目には、もはやエルシーの姿はなく、目の前の試練を「論理で捻じ伏せる」という、挑戦的な数式だけが見えていた。
「……承知いたしました。姫君」
アベルは、口角を微かに持ち上げた。それは、愛の感情ではなく、優位な知性を持つ者だけが浮かべる、冷たい勝利の予感だった。
ユリウスが歴史の闇に葬られて一月後、第二の試練が宮廷魔術師長アベルに課された。
「理性を完全に捨てた、純粋な愛の狂気を表現する無意味な儀式を、大勢の前で完遂せよ」
塵一つない、完璧な秩序で満たされたアベルの研究室。その中央で、彼は弟子であるルークに命じて、エルシーの言葉を魔法の黒板に一字一句違わずに書かせた。
「師匠、これは……」
若いルークは、その文字をなぞりながら恐怖に顔を青ざめさせている。
「正気とは思えません。姫は、師匠のすべてを捨てろと仰っているのですぞ」
アベルは、水晶のように磨かれた机の上で指を組み、顔の筋肉を微かに震わせた。それは、愉悦だった。
「正気ではない? その通り。狂気だ。そして、無意味だ。なんと素晴らしい」
彼の口元が歪む。
(この非論理的な要求こそ、論理が支配すべき最高の未解明領域だ)
「純粋な愛の狂気、か。実に女性的で、原始的な発想だ。この私ほどの知性に対し、このような感情の垂れ流しを『試練』と称するとは。赤子に手渡されたパズルを解くようなものだ」
愛とは、脳内の化学物質が引き起こす予測可能な現象。狂気とは、論理的思考が破綻した状態。アベルにとって、それは解明すべき対象であっても、身を委ねるようなものでは断じてなかった。
彼の脳裏には、幼い頃の記憶が蘇っていた。魔術の才能に恵まれながらも、感情に囚われた両親が些細な諍いから起こした魔術暴走事故。家族も、住んでいた家も、全て灰燼に帰した光景。あの時、もし彼らが理性的に振る舞っていれば……。その恐怖が、彼を絶対的な知の追求、すなわち理性の支配へと駆り立てたのだ。
「ルーク、これは試練ではない。これは、私の知性が、あの姫君の感情論を凌駕することを示す、壮大な『証明問題』だ」
アベルは立ち上がると、黒板に向かった。
「問い:『観測者に対し、"狂気"と認識される、再現性なき事象を、完全な論理制御下で再現することは可能か?』。どうだ、実に興味深いテーマだろう?」
ルークは、ただ目の前の師の横顔に、天才と、そして底知れぬ傲慢さが燃え盛るのを見るばかりだった。
アベルの挑戦が始まった。それは、ユリウスとはまた違う、知性に根差した、偏愛と呼ぶべき努力だった。彼は「狂気」という非論理的な現象を、完璧に論理的な数式に落とし込むことで、彼女の出した問いそのものを愚弄しようと試みたのだ。
数日後、アベルの研究室は、それまでの整然とした様子から一変していた。壁という壁には、狂人の心電図のような魔力波形図が貼り巡らされ、瓶の中には妖しく発光する液体や、人の心の淀みを集めたという黒い粉が詰まっている。
アベルは寝食を忘れ、それらの資料や怪しげな実験道具に囲まれ、ひたすら数式を書き続けていた。彼の目は血走り、その顔には疲労とは異なる、狂気的な熱気が宿っていた。
「師匠、もうお休みください!このままでは、お体が……」
ルークが恐る恐る進言するが、アベルはまるで聞こえていない。
「邪魔をするな、ルーク! 見てみろ、私は発見したのだ! 『虚数階差詠唱』を! これこそが、非論理を論理で支配する鍵だ!」
アベルは、一本の長大な羊皮紙をルークの目の前に広げた。そこには、意味をなさない数字、古代文字、そして幾何学的な記号が、寸分の狂いもなく書き連ねられていた。
「これは、無意味な言葉の羅列だ。だが、その並び順、間合い、発声の周波数、全てが完璧なまでに計算されている。これを寸分違わず詠唱すれば、魔力の流れは純粋な混沌を呼び起こし、真の狂気と寸分違わぬ現象を再現できるのだ!」
アベルの指が、羊皮紙の上を狂おしく這う。
「しかし、対価は大きい。この詠唱は、精神と魔力回路の完璧な同調を要求する。一音でも間違えれば、術式は術者自身を『不純物』と認識し、精神を破壊するだろう。完璧な詠唱とは、寸分の感情の乱れも許さない、鋼鉄の理性が必要なのだ!」
ルークは、師が危険な賭けに出たことを悟った。
「師匠、まさか、それを……姫君の前で!?」
アベルはルークを一瞥しただけで、再び羊皮紙に目を戻した。
「まさか? これこそが、姫君への、そして世界への、私の知性による回答だ。愛の絶叫を三角関数に、情熱の奔流を微分方程式に、涙の軌跡を幾何学模様に。この世で最も非論理的なものを、最も論理的な檻に閉じ込めるという、神をも畏れぬ行為……! ふふふ、見事だろう?」
アベルは自らが作り出したこの美しくも危険な数式に、恍惚とした笑みを浮かべた。その陶酔した笑みは、まるで神の領域に踏み込んだ芸術家のようだった。
彼の情熱は、もはや姫への愛ではない。この「完璧な欺瞞」を成し遂げること、それ自体に向けられていたのだ。ルークは、師の頬を伝う汗と、瞳の奥に宿る純粋な、しかし歪んだ熱情を見て、心の中で深く息を呑んだ。
「師匠は、本当に……」
彼の言葉は、それ以上続かなかった。
その日から、アベルの研究室からは、ルークの知るどんな詠唱とも違う、乾いた、しかし異様なまでの精密さを持つ声が響き続けた。アベルは寝る間も惜しみ、その危険な詠唱をひたすら練習した。魔力回路が悲鳴を上げ、脳が焼けるような痛みに襲われても、彼は止まらなかった。完璧な狂気を演じる対価として、寸分なき精密さを求めることに、彼は文字通り身を削るような努力と、偏愛とも呼ぶべき執着を注ぎ込んでいた。
儀式の当日。王都の中央広場で、アベルのパフォーマンスは始まった。彼の口からは、意味をなさない愛の言葉が、計算され尽くした不協和音となってほとばしる。身体から放たれる魔力の奔流は、予測不能な軌道で広場を駆け巡り、見る者の感情を揺さぶる光の明滅を繰り返す。狂っているようで、その実、全てが彼の完璧なコントロール下にあった。彼は、この「狂気の交響曲」の唯一の指揮者として、自らの知性の勝利を確信していた。
群衆は恐怖と混乱にどよめき、やがてその圧倒的な熱狂に呑み込まれていく。アベルは、バルコニーから見下ろすエルシーの姿を認め、口元に支配者のような笑みを浮かべた。
(見たか、姫君。お前の言う『計り知れない狂気』とやらも、私の手の中では意のままに踊る玩具に過ぎん。お前の心も、感情も、結局は単純な機械仕掛けだ。そして、その主人は、この私だ)
彼の脳裏にその傲慢な言葉が響き渡った。自らの「証明」が成功したことを、疑いもしなかった。
パフォーマンスが最高潮に達した、その瞬間だった。エルシーの、感情を消した人形のような横顔を見た刹那、アベルの心臓を、計算外の熱い疼きが、ただ一度だけ、貫いた。
――美しい。
その、あまりに純粋で、非論理的な感情の火花。彼の精密機械のような思考に、0.001秒にも満たない、致命的な誤差を生じさせた。それは、「誠実な行為」を求める試練において、たった一つだけ混入した「本物の感情」という不純物だった。
次の瞬間、試練の「自浄作用」が発動した。完璧な数式で構築された「偽りの狂気」の術式に、「本物の感情」という異物が混入した結果、術式全体がそれを「エラー」として認識。その不純物を排除するため、アベルが制御していた全ての魔力が、一斉に彼自身へと牙を剥いたのだ。
「ぐ……あ……ああああああッ!」
灼熱の奔流が、アベル自身の魔力回路を凄まじい勢いで逆流し、内側からその身を焼き尽くしていく。彼の思考が、彼の論理が、彼の知性が、けたたましい断末魔を上げて蒸発していく。それは、自らが作り上げた完璧な論理によって、自らの精神が「バグ」として駆除されていく、地獄のような感覚だった。
白い閃光と轟音。後に残されたのは、黒焦げになって倒れ、ただ虚ろな目で空を見つめる男の姿だけだった。
アベルは、死ななかった。だが、彼の精神は、彼が最も軽蔑していた「無意味」な状態へと成り果てていた。複雑な思考はできず、言葉も覚束ない。ただ、子供のように瞬きを繰り返すだけだ。
そんな彼の前に、エルシーが立った。彼は、目の前の美しい存在が誰なのかすら、もう理解できなかった。アベルの空虚な瞳は、エルシーの顔を捉えることもなく、ただ一点をぼんやりと見つめていた。
傍らには、顔を蒼白にして立ち尽くすルークの姿があった。彼の師が、これほどの惨状を呈するとは、夢にも思わなかっただろう。
エルシーは、壊れた人形を見るような目で彼を見下ろし、静かに、しかし冷徹な声で告げた。
「あなたは、愛の狂気を『理性』という不誠実な防具で武装した。全てを投げ出して狂うほどの純真な熱情が、あなたにはなかった。そのくせ、あなたは、純粋な狂気を論理の数式で汚染するという、冒涜的で異常な情熱を傾けた。その病的な論理への偏愛こそが、あなたの術式が唯一許容できなかった、計算外の『本物の感情』というエラーを「不純物」として即座に排除させたのです」
彼女の言葉は、もはやアベルの心には届かない。彼の口元から、意味のない涎が垂れる。それは、彼の犯した過ちの、あまりにも正確な要約であったが、彼にはそれを理解する知性も感情も残されていなかった。ルークは、師の変わり果てた姿と、姫の冷酷な言葉を聞きながら、ただ静かに涙を流していた。
「だからこそ」
エルシーは、変わり果てたアベルを見据えた。
「申し上げます。あなたは変態です。愛を論理の檻に入れようとした、歪んだ分析屋の変態です」
その宣告は、知性の光が永遠に失われた男の、空虚な瞳に、ただただ虚しく響いた。
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