第3話:記憶の縫い目をほどく
薄紅色の朝陽が、天陽宮の庭にぼんやりと差し込む。
まだ冷たい空気に、蝉の声はない。
私は部屋の窓辺に腰かけ、手元の薬草帳を広げていた。
(あの鍼灸師・李鳳の話と、厨房の薬草……繋がらないところがある)
書き込みが雑然と詰まった帳面には、薬草の名と症状がびっしり。
理屈では理解できても、ひとつひとつの証拠を結びつけるにはまだまだ足りない。
後宮はまるで一つの生き物のようだ。
私が疑問を口にすれば、必ずどこかで誰かがそれに反応する。
そんな矢先、宮中の裁縫室に連れていかれた。
そこは絢爛とした布の山が積まれ、針と糸の音が響いている。
ただし、その空気は決して華やかではなかった。
「蘇静蓮さん、こちらへ」
一人の女官が、そっと私の袖を引いた。
彼女は名を緋月といい、下級妃の侍女だった。
緋月は口を噤んだまま、小さな包みを差し出した。
包みを開くと、そこには奇妙な布片が折りたたまれていた。
それは細かく縫い目がほどけかけており、所々に小さな穴が開いている。
「これは……?」
緋月は小声で囁く。
「この布は、最近亡くなった妃たちの衣装の一部です。ほつれた部分が多いのは、何度も縫い直されているから……」
私は首をかしげる。
(何度も縫い直されている……? そんなに簡単に傷むものだろうか)
裁縫室での調査は、思いがけない事実を私に突きつけた。
縫い目の糸には、特別な“成分”が含まれていた。
それは、私の知る限り、強力な神経毒の痕跡であった。
しかも、不思議なことに、布の一部だけにしか付着していない。
これはつまり、服を着ている間にしか影響が及ばない計画的な毒殺。
しかし、毒だけでは説明がつかない。
被害者の死因は“心臓麻痺”であり、通常の毒物はもっと目に見える症状を引き起こす。
私は、鍼と布、そして供物の菓子がどう結びつくかを考え続けた。
夜、江煕と再び会った。
「蘇静蓮、今日は一つ提案がある」
彼は私の持つ布片を興味深そうに見つめる。
「これを検査する術はあるか?」
私は頷いた。
「秘密裏にやらなければなりませんが、出来ます」
数日後。
検査の結果、毒成分は植物由来の神経毒素であることが判明した。
しかし、その濃度は致死量には届かず、単独では死因にはなりえない。
だが、これが鍼灸の“物理的刺激”と合わさることで、心臓のリズムを破綻させるのだ。
しかし、まだ足りない。
犯人の“意図”は何なのか。
ある日、緋月が私にこう囁いた。
「亡くなった妃たちのうち、一人はよく“記憶の糸”をほどくと表現されていました。彼女は自分の身に起きていることを誰にも言わず、孤独を抱えていたのです」
その言葉に、私の胸はざわめいた。
後宮の闇は、ただ死を運ぶだけではない。
誰かが、その“記憶”すらも消そうとしている。
そして、私の心にも新たな感情が芽生え始めていた。
江煕の言葉や視線に、ふと戸惑いを感じる自分。
(これは、医学の探求だけでは終わらないのかもしれない)
だが、今はまだ、それを受け入れないでおこう。
真実を解く糸は、まだ切れていないのだから。